派閥/永森誠一[筑摩書房:ちくま新書]

 もちろん派閥は政治だけのものではない。例えば会社にも「社長派」「副社長派」というものがあろうし、大学にも学閥(「東大閥」「京大閥」「早稲田閥」「慶応閥」)というものがあろう。人はその数が増えれば増えるほどグループを作り、分かれざるを得ない。完全にグループから独立、などというものはありえないし、そもそも「独立派」という区分けそのものがグループ的である。そしてグループは内にあっては結束し、外にあっては敵対的となる。もちろん程度の差はあるが、人々はグループを形作り、そのグループを核として切磋琢磨するのである。

 とは言え「グループ」という言葉には緩やかな連帯、楽しく穏やかな雰囲気が感じられるが、「派閥」になると途端に否定的なニュアンスが付きまとう。会社や病院や大学で派閥争いなど論外である、なぜならそれらによって健全な企業活動、患者のための病院活動、学生のための大学活動ができないからであって、派閥間の争いは感情的な争いとなり正常な判断を失わせるのだ…というわけで「派閥」は大抵の場合なくなっていくのが通常である。ところが政治において派閥はなくならない。「派閥」が持つ否定的・嫌悪的なニュアンスは政治及び政治を見る国民の間に確固としてあるが、日本人にとって政治上の派閥は「理解と共感、いくらかの嫌悪」という複雑な感情と共に、もはや根付いてしまっているではないか。 ところで俺は派閥抗争とそれによる政局に魅了され大学では法学部政治学科へ進み自らを「政局屋」と名乗るほどの政治マニアとなってしまったわけだが、その政局屋である俺からすれば本書は実に特異な本である。内容はと言えばいわゆる「派閥」を観察し分析しているわけだが、何というか、動物学者や昆虫学者がその動物や虫の生態を観察し分析するように派閥を観察し分析しているのであって、動物学者や昆虫学者にとっては動物や虫の交尾も殺し合いもただの研究対象でしかないように、作者にとっても派閥の栄枯盛衰はただの研究対象でしかないような冷めた分析が淡々と述べられ、最初は戸惑ったが、しかし中身は俺の慣れ親しんだ、権力欲を滾らせ戦いを繰り返す政治家達の派閥抗争についてなのだから途中からは首をぶんぶん振りながら読む事ができた。なるほど政治学者はこうでなくてはいけません。

  政党にはそもそも党派を認める党と認めない党がある。前者が自民党であり、後者が公明党共産党である。そして日本人はそんな自民党にいくらかの嫌悪を含みつつも基本的には認めてきた。「政党」という公式な存在が一つ存在する事よりも、「派閥」という、公式ではないが非公式ではない(れっきとした国会議員の集団なのだから非公式なわけがない)集団の連合政党、としての自民党の方が日本人には合っていたのである。それは曖昧さを好み、建前と本音を使い分ける事を好み、トップダウン型のリーダーではなく「現場の意見に耳を傾ける」タイプのリーダーを好む日本人の知恵でもあったが、その派閥が政党という公式な存在を超える力を持てば(田中角栄による「闇将軍」、経世会支配、等)世間から袋叩きに遭い、派閥は常に栄枯盛衰を繰り返すのである。

 また日本の首相とは自民党総裁(或いは与党の党首)とイコールであり、首相になる前に自民党(与党)の総裁選挙(党首選挙)に勝たなければならず、そのためには党内での戦いに勝たなければならない。そこに派閥の存在理由、党内の熾烈な戦いに勝ち残るための集団としての派閥の存在理由があり、中選挙区制がなくなったとしても派閥はなくならなかった。そして争いには必ず勝者と敗者が生まれ、勝者が驕れば党内の支持はもちろん国民からの支持も失われる。また総裁選挙で勝利したところで国政選挙或いは地方選挙で負けてしまえば元も子もない。それに政治家はそれぞれが選挙を勝ち抜いたきた「一国一城の主」である。抗争によってできた感情的な対立やしこりはほぐさなければならず、そこに派閥という、公式ではないが非公式でもない、しかし力のある存在が作用する。

 例えば人事の配分は勝者と敗者で絶妙にバランスされなければならないが、その調整には各派閥の力が必要となる。風向きを見る、情報を集める、既成事実を用意する、空気を作る、期限を切る、根回しにかかる、合意を取り付ける、了解を得る…といった、日本人が大好きな職人芸がそこで発揮される。それをまどろっこしい、つまらないと思うならば「だから日本の政治は駄目なんだ」となり、それを面白いと思うのが俺であるが、とにかく派閥について書こうとすれば際限がなくどこまでも書く事ができるのでこのへんにしておこう。いやあ、政治って本当に面白いですね。