歴史への招待22 昭和編[日本放送出版協会]

 さて知っている人は知っているNHKの歴史教養番組「歴史への招待」の書籍版が本書であり、収録されているのは「チャンバラ映画黄金時代」「永田軍務局長暗殺」「エンタツアチャコで漫才繁盛」「延長二十八回進め一億火の玉だ」「青い山脈 男女共学前夜」「北京原人はどこへ消えた」「緊急発信 敵空母本土に接近す」と、昭和を政治・社会・文化それぞれから取り上げた、昭和マニアとしてはどれも甲乙つけがたい垂涎ものである。やはり昭和はいいなあ、令和の現代に生きる我々と同じようで同じでない、しかし結局は我々と同じように嘆き悲しみ笑いつつ世俗にまみれながら醜く死んでいった人達の姿を見ていると普段の俺は何とまあ小さな事で悩んでいるのかと救われます。

 というわけで例によっておいしいところだけを紹介すると「永田軍務局長暗殺事件」では「陸軍史上最高の逸材」とまで言われた陸軍統制派の代表格・永田鉄山が白昼堂々と殺された事件当日の様子が解説され、誰もが疑問に思う「なぜ防げなかったのか」についての答えが一応は書かれている。軍務局長室には永田の他にもう一人、東京憲兵隊隊長である新見大佐が同席していたが、新見大佐には視野狭窄の症状があり、通常の人間の十分の一程度の視野しかなかった。軍務局長席で永田局長と向かい合った新見大佐は書類を見つつ報告の準備をしていた、つまり下を向いていたのであり、そこへ軍刀を持った相沢中佐が現れる。床には厚い絨毯が敷かれ忍び寄る足音は消され、新見大佐の視野狭窄の目には相沢中佐は見えない。逃げる永田軍務局長と軍刀を振りかぶる相沢中佐、その物音に気付く新見大佐、しかし時既に遅し…。永田は殺され、皇道派の天下が来ると思われたものの二・二六事件によって皇道派は衰退、統制派の天下になったはいいが結局日本は惨めな敗戦を迎える事になったのであり、所詮は永田が死のうが死ぬまいが日本の運命は決まっていたのかもしれない。

 「延長二十八回進め一億火の玉だ」では昭和17年5月24日に行われた名古屋対大洋の試合について書かれている。大東亜戦争が始まって半年、戦勝気分に酔っていた時期に行われたこの試合ではスコアボードに「進め!一億火の玉だ」の標語が掲げられ、軍部の「プロ野球の試合に引き分け試合があるのはけしからん、戦う以上、勝つか負けるかしかない、引き分けなどという生ぬるいのは戦意高揚にならん」という指導で4対4のまま延々と二十八回裏まで戦う事になるのであった。それ自体は戦時中の微苦笑なニュースであるが、翌年には「野球用語は全面的に国語を採用、従来の英米語は敵性語であるから一切使用を廃止」となり、「審判用語は号令である」という主張から、

・ストライク→よし一本、二本、三本

・ボール→一つ、二つ、三つ、四つ

・アウト→ひけ

・フェアヒット→よし

・ファウル→もとえ

 に変更、また「隠し玉は日本精神に反するから禁止」とされたのであった。

 「北京原人はどこへ消えた」は舞台が第二次世界大戦前の中国・北京であり、日本軍占領下とは言えアメリカ軍も進駐しており、次第に険悪となっていく日米の間で「二十世紀最大の文化遺産」と言われる北京原人に魅了された人々は北京原人を守ろうと奔走するのであるが、北京原人の在処はわからぬまま、関係者は戦中そして戦後の長い時間をかけて終生その行方を追うことになるのであった。五十万年前の人類は昭和4年の人類によって発見されたが、昭和16年に忽然と姿を消したのである。「五十万年後の子孫たちの様子を見ようと北京原人は地上に姿を現したが、彼らがかくも醜い葛藤を始めたのを見るに忍びず、再び地下に姿を隠してしまったに違いない」。

 最後の「緊急発信敵空母本土に接近す」は、洋上に浮かぶ「人間レーダー」として、アメリカ軍の機動部隊を発見し直ちに無電で司令部に連絡する監視艇に乗る事になった漁師達の物語である。兵隊は「赤紙」で召集されたが、カツオ船、マグロ船などに従事する漁師達は白い紙一枚で船ごと召集され、任務は北太平洋上で十日から二週間に渡って定められた地点を漂流して米軍機動部隊を発見する事であった。武器は七・七ミリ機関銃一丁に数丁の小銃のみ、しかも無電で発信できるのは「敵艦見ゆ」だけであり、その他の場合はたとえシケが発生しても急病人が出ても助けを求める事は許されなかった。もし発信すれば敵から位置を確認される恐れがあるからというのがその理由だが、唯一許された「敵艦見ゆ」を打電する時は、敵を発見した時、つまり敵に発見された時であり、敵の攻撃に曝される事になる。「黒潮部隊」と言われたこれらの隊員は最盛期4千人いたとされるが、そのうち半数から3分の2が犠牲となった。だがその実態と被害の全貌は、今も明らかにされていない。