わが上司 後藤田正晴/佐々淳行[文藝春秋]

決断するペシミスト わが上司 後藤田正晴 (文春文庫)
 

 世界に冠たる大日本帝国のエリートと言えば内務省官僚である。彼らは「護民官」として、視野狭窄に陥った軍人やその場限りの選挙対策に血眼になる政治家とは違い、エリートならではの高度な知的水準と高貴な使命感によって国家的立場から大日本帝国を守ろうとした。

 最もそのような人物はごく少数であって、大部分の内務官僚は目先の出世や金や名誉を求めて右顧左眄し離合集散を繰り返し、時代の波に乗った陸軍の勢いに抵抗する事ができず結局大日本帝国を守る事はできなかった、しかし「護民官」の伝統は内務省が解体されたとしても志のある旧内務省官僚によって受け継がれ、作者の上司・後藤田正晴氏もまた「護民官」として、時の政治を支え国民の生活を守り抜いたのである…と作者は言いたいわけだが、自民党戦国史或いは田中角栄的な文脈で言わせてもらえば、後藤田は官僚のトップとしては優れていたかもしれないが政治家としてはそれほどではなかった。「護民官」の裏返しで、国を支えるエリート官僚としてのプライドが邪魔をして、視野狭窄でその場限りの選挙対策に血眼になる政治家(とそのバックにいる一般大衆)を相手にする、或いは彼らをなだめすかしながら派閥を運営する事は眼中になかったのであって、田中角栄に見出され、また「後藤田はわが派(田中派)の跡取りの一人」とまで持ち上げられたのも所詮は田中による世代交代阻止(竹下・金丸連合)の方便に過ぎなかった。そのため本書によって後藤田を過大評価してはいけない。

 しかしながら官僚の側から見た後藤田はまさに「護民官」として心強かった。内閣官房長官として行政機構の事実上のトップに立った後藤田はまさに無敵、ダラダラとした会議や書類を嫌い、直接口から耳へのポイントのついた口頭報告、拙速のナマの報告を好み、一瞬にして事の順逆、優先順位を決める。説明要員を連れて大量の書類を持ち込んでくる役人(次官、局長クラス)には「君、一人で来られんのか、所管事項を自分一人で説明できんような奴は、本省の次官(局長)は務まらんぞ」と厳しく叱責し、安全保障会議の席上で次官や局長を従えて入ってくる閣僚にさえ「閣僚以外は今日の会議参集者ではない。退席しなさい」と面と向かって言うほどであった。

 そして圧巻は有名な「後藤田五訓」であるが、これには伏線がある。当時、縦割り行政の弊害を打破するため、内閣の機能強化のため、アメリカ・ホワイトハウスをモデルに作られた内閣五室(内閣内政審議室長、外政審議室長、安全保障室長・作者、情報調査室長、広報官室長)が発足したが、中曽根首相・後藤田官房長官という「旧内務省官僚」コンビによる強い意欲によってできた事もあって「内務省の復活だ」と世の評判は芳しくなく、また大蔵省・外務省・防衛庁等も自分達の権限を侵されるのではと強く警戒していた。その望まれない雰囲気の中で行われた内閣五室制度発足式典で後藤田官房長官は以下のように訓示する。

「諸君は大蔵省出身だろうが、外務、警察だろうが出身省庁の省益を図るなかれ。『省益を忘れ、国益を想え』。省益を図ったものは即刻更迭する」

「次に、私が聞きたくもないような、『悪い、本当の事実を報告せよ』」

「第三に『勇気をもって意見具申せよ』。こういう事が起きました、総理、官房長官、どうしましょう、などと言うな。そんな事言われても神様ではない我々、何していいかわからん。そんな時は、私が総理、官房長官ならこうします、と対策を進言せよ。そのために君ら30年選手を補佐官にしたのだ。地獄の底までついてくる覚悟で意見具申せよ」

「第四に『自分の仕事でないと言うなかれ』。俺の仕事だ、俺の仕事だと言って争え。領空侵犯をし合え、お互いにカバーし合え」

「第5に、『決定が下ったら従い、命令は実行せよ』。大いに意見は言え、しかし一旦決定が下ったらとやかく言うな。そしてワシがやれと言うたら来週やれという事やないぞ、今すぐやれと言うとるんじゃ」

 波乱万丈のエリート官僚街道を送った作者は出世と左遷を繰り返しながら偉大なる後藤田官房長官によって拾われ、初代安全保障室長として後藤田流危機管理術を間近で見ながら政権中枢で危機管理対応にあたり、本書では数々の豊饒な、後世に役立つエピソードが紹介されていくが、権力はいつかは終わりを迎える。あれほど強力に「護民官」として活躍した後藤田官房長官も中曽根内閣総辞職と共に去り、続く竹下内閣ではさすが「気配りの竹下」だけあって竹下は作者に引き続き官邸で執務を行うよう三顧の礼をもって依頼、もう一度やる気を取り戻した作者は昭和天皇崩御に伴う大喪の礼にも最大限協力し後藤田不在後の官邸の危機管理を担うが、次の宇野内閣では中曽根・後藤田、或いは竹下・小渕のような理解ある上司には恵まれず官僚生活を終えるのであり、実はこの部分が本書で一番読み応えがあった。やはりエリート官僚ともなると大きな仕事を任されまた偉大な政治家に仕える事に恵まれ、歴史に名を残す大改革に携わる事ができるが、それによって敵を作り、或いは忠誠を誓った政治家が去れば、もう自分の居場所はなくなるのである。しかし役人道とは所詮そんなものであろうし、偉大なる上司に仕える事ができた経験は何ものにも代えがたい財産として作者には残ったのである。