日本史リブレット 人 94 原敬 政党政治の原点/季武嘉也[山川出版社]

 原敬。「はらたかし」というより「はらけい」と言った方がすっきりするが、明治・大正の偉大な政治家である。同じく「明治・大正の偉大な政治家」としては犬養毅もいるが、犬養がいなくても政党政治はそれなりに発展したであろう。しかし原敬がいなければ、日本の政党政治がここまで盛り上がる事はなかったといっても過言ではない。日本政治史、いや日本史におけるスーパースターこそ原敬で、戦後日本政治のスーパースター・田中角栄原敬の前では平身低頭するであろう(ちょっと見てみたいな)。

 とにかく黒船がやってきて、明治時代が訪れた。天下泰平の江戸時代の夢が突然終わり、日本及び日本人は弱肉強食の植民地支配の近代社会で生きなければならなくなった。その中で何とか形だけは整えた大日本帝国、政治プレイヤーは「元老」「薩長閥」「官僚」「軍人」、そして「政党及び議会」である。原はその中で「政党及び議会」に軸足を置き、大日本帝国において立憲政治を導く事になる。また原は「朝敵」となった東北諸藩で育ち、薩長藩閥政府への復讐に燃える。まずはジャーナリズムの世界に飛び込み、やがて明治政府に見出され、官僚として(獅子身中の虫として)明治日本を支え、頭脳明晰な原は大日本帝国の危うい均衡、即ち薩長閥の元老、薩長閥の軍人・官僚が政府の上層部に跋扈している事を見抜き、また一方でこれに対する反発は国民世論のみならず政府内にも根強いものがあり、更に欧米列強が虎視眈々と中国を狙っているため今のところ日本に目が向いていないがいつの日か必ず欧米列強が日本に牙をむき、抜き差しならぬ対決の日が訪れる事も見抜いていた。ではどうするか。原は議会、及び議会に根拠を持つ政党を舞台に立ち回る事が、自分にとっても日本にとっても適切であると判断する。1900年(44歳)に伊藤博文(元老には珍しく政党の重要性を理解していた)が組織した「立憲政友会」に馳せ参じるのであった。

 やがて首相となった原は「平民宰相」と言われる一方で「今日主義者」と言われ、当時から世論一般で原に対する判断は分かれる。藩閥軍閥勢力と妥協する事を優先し、鉄道事業を代表とする公共事業を推進する立憲政友会の総裁・原の姿勢は、理想主義的な若者やジャーナリズムにとっては格好の敵となり、他方で犬養毅のような理想主義者もいるのだから、原への批判はますます大きくなる。しかし原は自身の政治力に絶大な自信を持っており、且つ頃合いを見計らって政権を辞す事も考えていた。現在の日本国憲法の時代と違い、首相を辞めても再度務める事に抵抗がなかったのが大日本帝国である。首相に就任して3年が経ち、原にとっては短絡的にしか思えない「普通選挙」の世論は大きくなり、内政では摂政問題、外交でもワシントン会議の問題がかまびすしい。「桂園時代」のように、一旦下野して藩閥軍閥勢力などの敵対勢力と調和策を練り、徐々に藩閥軍閥勢力が牛耳る政治を立憲政治へと転換させよう…と考えていた原は暗殺によってあっけなくその生涯を終えてしまった。享年65歳、実に惜しいというかもったいないというか、もし死なずにあと10年、いや5年生きていたら、その後の大日本帝国があっけなく滅ぶ事もなかったかもしれない。

             

鵜崎鷺城「機略、権謀術数というマキャベリズムの面から見れば、原は決して凡庸な政治家ではないが、彼には政治的信念はない。私利を離れて国家に尽くすという高尚な野心もない。内治、外交、財政と言う大枠についても、彼はいまだかつて自分の抱負を表明した事はない」(「日本及日本人」1914年7月)

前田蓮山「原は理想に乏しい。国家百年の大計などというのは彼には『痴人の夢』でしかない。しかし、今日この場での計画という点では様々な奇策、妙計がたちどころに浮かび、その実行においても遺漏なく電光石火に実現する」(「太陽」1914年6月15日)