一老政治家の回想/古島一雄[中央公論社:中公文庫]

一老政治家の回想 (1969年)

一老政治家の回想 (1969年)

 さて古島一雄という人物がいた。子どもの頃は非常に激しい性格の持ち主で学校に入っては放校されまた学校に入っては放校され…を繰り返し、やがて国粋主義雑誌「日本」の編集に加わって正岡子規を見出す等、なかなか愉快な人物だったらしいが、この人物の名が今でも残り続けているのはそんな事によるものではない。日本の近現代史を語る上で絶対に避けて通れない犬養毅(第29代内閣総理大臣)の側近であり参謀でありお守り役であったから残っているのである。
 では犬養毅とは何か。一般的には「『憲政の神様』と呼ばれた」「五・一五事件で殺された政治家」で説明がつくであろうが、犬養を語るのにそれではあまりにも内容がなさすぎる。犬養は1890年の第一回衆議院議員総選挙から五・一五事件で殺害されるその時まで衆議院議員であり、42年に渡って「国民から選ばれた政治家」であった。決して盤石とは言えない、大日本帝国憲法下の議会(と政党)を最後まで活動の拠点として、藩閥や軍部と戦い、ついには軍部の手で命を絶たれた、それが犬養毅である。犬養の死後の大日本帝国は軍部が支配する暗黒の時代へと突き進んで崩壊するのであり、もし犬養が五・一五事件を生き延びていたら大日本帝国の崩壊はなかったのではとも俺は思う。犬養は軍部が力を持つそもそもの始まりである満州事変を解決しようとしていたのであり、世界を敵に回すことになる満州国建国にも絶対反対であった。もちろん軍部や軍部寄りの政治家が犬養を妨害しようと画策したが、藩閥と戦い続けてきた「憲政の神様」である77歳の犬養には恐いものなど何もなかった。しかし憲政の神様は凶弾に倒れ、大日本帝国もまた倒れることになるのである。
 とは言え本書は古島一雄の回想録なので犬養以外の政治家も多数出てくる。犬養ほどの大物政治家となると「どこに行って、誰と会ったか」だけでニュースになって周りが騒いでしまうので犬養が他の政治家や官僚と連絡・相談する際は側近を通じて行わなければならず(これは今でもそうだが)、犬養の側近であった古島は「犬養の使い走り」と称して戦前日本の主要な政治家(尾崎行雄、松田正久、頭山満西園寺公望、床次竹次郎、加藤高明、三浦梧桜、等々)の間を渡り歩くのであり、俺のような政治マニアにはたまらない面白さであったが、その中でも特に面白かったのが原敬犬養毅との比較で、原も犬養も藩閥支配を憎み日本に政党政治を根付かせようという考えは一致していたが、それでもどうも噛み合わないのが人の世の不思議で、犬養はとにかく山県有朋を嫌っていたが原は山県に近づくどころか至れり尽くせりで政権を握ろうとしていた。憲政擁護運動で原が率いる立憲政友会と犬養の立憲国民党が共闘して藩閥と対決した時も、原にとって犬養の「断固妥協に非ず」など野暮の骨頂で、いつでも権力と手を握る用意ができていた。また原は地方に鉄道を建設するなどの利益誘導的手法で政友会の支持勢力を着実に固めていったが、犬養の主張はと言えば「普通選挙の断行、経済的軍備論、産業立国」で、とても政友会に対抗できるものではなかった。その犬養が原の死後に政友会の総裁となって原と同じようにテロに倒れるのだから、政治とはつくづく人間ドラマである。
 犬養の死後、無欲で地位も名声も興味がなかった犬養と同じく古島も政治的野心は何一つなく老いてゆくが、それでも戦後に幣原喜重郎吉田茂が首相を引き受けるのに一役買ったところを見ると、この男もなかなかの政治家であったと言える。そして明治・大正・昭和の政治も決して悪いところばかりではなかったという事がこの回想録を読んで再認識できよう。そして再認識した後は、今の政治を生きる我々がどうするかである。
   
 犬養は憲政擁護会の宣言で「断固妥協を排す」と一本釘をさして置いたものの、政友会はきわどいところで、いつなん時妥協に宙返りせぬともかぎらず、九仞の功を一簣に虧く結果になるかも知れぬという点を常に心配していた。犬養はこの提携を一時のものとせず、多年希望する民党合同を実現したいと考えていたのである。そこである時ひそかに原、松田、岡崎の三人と芝の三縁亭で会談し、「従来、政・国両党が連合すればかならず閥族を制圧し得たが、そうすると閥族はきっと両党を引き離し、一方と妥協して、命脈をつなぐという歴史を繰り返して来た。今度の提携もきっと離れる時が来る、よってこの際両党を併合して完全に共同の敵を倒し、政党内閣の基礎を固めようではないか」と民党大合同を説いた。原は口を緘して片言も洩らさず、松田は一席の座談で決められる問題ではないから、西園寺総裁の意見を聞いた上で確答すると言った。その時原が犬養の年齢を問うたが、犬養は原より一つ年長なのである。原が特にこれを聞いた一事で、犬養は直覚的に合同のできないことを感じたと後日語ったことがある。原は松田が年長で、順序から言えば松田の時代になることを気にしていた。その上にまた年長の犬養と一緒になってはたまらぬと考えたのであろう。
    
 初め、政友会は当然山本(権兵衛)が援助を求めて来るものと期待していたが、山本はシーメンス事件で満身創痍の時、政友会の取った冷淡な態度に不満を持っているので、手を下げてまで入閣を求めようとはしなかった。一方、憲政会に対しては、山本が第一次内閣の時加藤の入閣を勧めたくらいだが、シーメンス事件で彼を盗賊のように罵った者は憲政会の前身の同志会である。これに対して与党を要望するのは山本の誇りが許さない。だから加藤が身代わりを出すと言ってもそのままにしていた。その時僕は旧識の樺山資英(この内閣の書記官長となった人)から組閣の情報を手に入れていたが、犬養にも入閣の交渉があったので、富士見の高原で自適している犬養に連絡を取ると、前年からの約束で名古屋の福沢桃介に招かれていていない。そこで急電を打って帰京を促し、僕は犬養の帰京を沼津の駅まで出迎え、午前三時過ぎていたが、やっとのことで寝台に寝ている犬養を探し出し、喫煙室に誘い出して山本の意向を伝えると、眠そうな目をこすりながら「普選で勝負しよう」とただ一言である。これは山本内閣が普選を実施する誠意があれば入閣するという意味だ。
     
 ところが、(犬養引退後の)その補欠選挙に当たって一番困ったのは岡山の選挙区だ。選挙と言えば「犬養毅」とだけしか書いたことのない人達で、それが突然引退したとなると、自分らの国宝の存在がなくなる。これは真面目に驚いた。どうしたらよかろう。先生が言い出したことを我々が止めたって思い返すことはあるまいと、百方相談の結果、これは仕方がない、先生を再選しようじゃないか。先生に内緒でやればいい、我々が勝手に選挙をしようとそういう段取りにした。ところが、困ったことには選挙承諾書が必要で、本人が承諾せぬ以上は駄目だ。選挙承諾書には判が要る。そこで選挙人が工夫して、どうせ先生に判を捺してくれと頼んでも先生が捺す気遣いはない。仕方がないから偽判をこしらえて、そして先生の所へ持って行って、先生の眼の前で捺そうじゃないか。そうするより仕方がないと言って、総代が偽印を持って十人ばかり連れ立って来て、「実はこういう勝手な事をしました。先生の御趣意に背くけれども、我々は何としても先生以外にない、この国宝的存在を失うことは我々の国の者が承知せん、我々は総代としてこうして参りましたが、承諾書の一件になって困ってしまって偽印をこしらえました。せめて偽印を先生の前で捺させて下さい。これは偽印だと言って先生が承知せられんということになると、我々は仕方がないから監獄へ行きます」と言っておどかした。これには犬養も大弱りに弱り、それほどに言うならというのでとうとうそのままになってしまい、犬養はまた議員に選挙されたが、行くところがないから政友会に入ろうということになって政友会に留まったわけだ。
       
 彼はまた常に「順境とか逆境とかいうことは他人から見たことで、自分で順境が楽しいとも思わず逆境が苦しいとも思わぬものに取っては順境も逆境もないはずだ。鳥から見れば水中の魚は逆境であろう。魚から見れば空中の鳥は逆境であろう。目的さえしっかりと立っておれば、その目的に突き進んでいく途中の難関を突破することはむしろ愉快である。登山をしたものはこの気持ちはすぐ分かるはずだ。自分は多年世間のいわゆる逆境におった時代が多かったが、別に苦しいと思ったこともない。自分が目的を定めて一心不乱にやっておれば家族も自然その感化を受くるものだ」と言った。
 彼は道義にもとづく信念を行動の基準としておった。この物指にあてはめて判断するから如何なる大事が起こっても、如何なる咄嗟の場合にもピタリピタリと決してゆく。彼は党員の離合集散のある場合に「利害の打算に迷って居る連中は打っちゃっておけ」と言った。殊に彼が天賦の聡明は直ぐに問題の核心をつかむと同時にその落着の見透しをつけておった。従って彼は天下の大事を茶呑話の間に決したり、問題の多寡をくくって至極無造作に片付けた。これがために知らぬ人からは本気かしらとあやぶまれたり、中にも入念者は頼りないように感じて不平を訴えたものさえあった。政友会の総裁になってからはなるべく多数の意見を聞くようなふりをしておったが、それでも腹の中では、政党の総裁ほど実際専制のものはないと思うておった。平素はただウムウムと聞き流して好々爺然としておったが、いざ最後の一点となると頑として聞かなかった。久原が協力で失敗したり、軍部が警戒しだしたのもこれがためであった。