ソ連が満州に侵攻した夏/半藤一利[文藝春秋]

ソ連が満洲に侵攻した夏 (文春文庫)

ソ連が満洲に侵攻した夏 (文春文庫)

 

 

 日露戦争後の「大日本帝国」の国策は満州の発展と不可分であった。満州大日本帝国にとって、「対ロシア(ソ連)に対する国防の生命線」であり、「開拓・収奪が大いに可能な資源地帯」であり、「日本内地からの人口流出先」であった。大日本帝国はこの見果てぬ夢の植民地を維持するために巨大な陸海軍を擁し、国家予算の半分近くを使って整備育成・強大化し、四囲に絶えず牙をむいたような軍事国家となった。

 その軍事国家は次第に軍人による政治支配が跋扈するようになり、暴走を始め、アメリカとの無謀な戦いに突き進むこととなる。そして昭和17年のミッドウェー海戦、翌18年のガダルカナル島の戦闘で敗北を重ね、頼みの綱のドイツは降伏し、いよいよ暗雲がたちこめる。しかし栄光ある「皇軍」は決して敗北を認めない。認めることなどできない。そして太平洋の広範囲に渡るアメリカとの戦いに固執する日本政府は国策であったはずの「満州は日本の生命線」をいとも簡単に変更し、満州に駐留する関東軍主力兵力の南方への大規模転用計画が始まる。もちろんソ連の脅威を忘れたわけではないが、まだ日ソ中立条約は厳存しており、日ソ戦は遠い将来であろう。それよりも目の前の米英との戦いに備えなければならない。満州ソ連戦の前線基地ではなく、太平洋戦争の補給基地となった。しかしそれは関東軍の存在理由である「対ソ連のための軍隊」を否定することになる。事実上、この時に陸軍中央は関東軍を見捨てた。見捨てられ弱体化した関東軍は、満州で生活する居留民と開拓団を見捨てることになる。

 一方のソ連はドイツでの勝利が確実となった頃から満州侵攻を企図する。連合国のアメリカとイギリスは「太平洋憲章」で領土不拡大の原則を宣言しているが、ソ連を率いるスターリンは独裁者であり古い帝国主義者である。ソ連の安全を脅かす満州を叩き、また領土を拡大する絶好の機会であり、日ソ中立条約など何とでもなる。今の日本はアメリカとの戦いで既に青色吐息であり、第一、アメリカがソ連に対日参戦を望んでいる。昭和20年2月のヤルタ会談ソ連の対日参戦は決定された。ところがその頃日本の指導者たちは日ソ戦を警戒するどころか、日米の和平の仲介をソ連に託そうと最後の期待を本気でかけていた。そればかりではなく「ソ連は日本に好意を抱いている」「スターリン首相という人は、なにか西郷南洲に似ているような気がする」という甘い幻想を大事に大事に抱いていた。なぜかは作者にも、いや誰にもわからない。帝国が今まさに崩壊しようという絶望的状況下で、「この人だけは敵にはしたくない」という思いが「敵にはならない」と変質するほど彼らが追いつめられていたということか。

 日本の指導者たちが甘い幻想に浸っている間にも非情な国際政治は続く。2月のヤルタ会談後、5月のドイツ降伏を経て7月にポツダムで再度連合国の三巨頭(アメリカ、ソ連、イギリス)が集まったが、米ソの対立はもはや誰の目にも明らかであった。ドイツが降伏し、日本の降伏も時間の問題となり、原爆実験も成功したとあっては、アメリカにとってソ連の対日参戦はもう重要ではなくなっていたからで、ポツダム宣言アメリカはソ連に何の相談もしなかった。スターリンは焦った。このままでは日本が降伏するのも時間の問題であり、ソ連が参戦する前に降伏されては何の果実も得られない。こうして満州攻撃の準備は大幅に繰り上げられた。ソ連の当初基本計画では攻撃開始は「8月22日~25日」であった。もしこの通りであればその後の悲劇は全て防ぐことができたが、歴史はソ連満州侵攻の日が「8月9日」であると言っている。既に主要な兵力を移してしまった関東軍ソ連軍の差は兵数が70万対150万であり、ソ連軍は関東軍の5倍の大砲、50倍の戦車、20倍以上の航空機を持っていた。

 しかし実際に攻撃が開始されたこの期に及んでもソ連に期待を抱くしかない陸軍中央の前線への指令は「侵入する敵の攻撃を排除しつつ、速やかに全面開戦を準備すべし」であった。「発動」ではなく「準備」である。グロテスクな感さえするこの指令を受けた関東軍総司令官は「楠公精神に徹して断固聖戦を戦い抜くべし」の訓示を全軍に布告した。湊川足利尊氏軍を迎え撃った楠木正成と同じく、全滅を覚悟するしかなかった。

 もっとも軍人は「断固聖戦を戦い抜」かなければならないが、非戦闘員はそうではない。速やかに非戦闘員を安全な場所まで避難させるのが軍隊の義務であるが、関東軍にそのような事を期待するのは無理であった。なぜなら大日本帝国の軍隊は所詮「天皇の軍隊」であって「国民の軍隊」ではなかったからである。「非戦闘員の安全」という軍の国際的な常識は日本軍にはなかった。またポツダム宣言を受諾した後、今まさに死闘が行われている前線へ速やかに降伏命令や戦闘行為停止命令を伝える術も日本軍は知らなかった。これが更なる悲劇へとつながる。そもそも「降伏」が国際法的に完了するのは降伏文書に調印されてからであり、ポツダム宣言を受諾した段階ではまだ戦争状態は終了していない。8月16日の時点で決定していたのは日本の占領管理の最高司令官にマッカーサー元帥が任命されることだけで、連合国軍の代表がアメリカであるとも、連合国の最高司令官がマッカーサーであることもソ連は認めていなかった。まだ戦争状態は終了していない。そして満州から逃げ遅れた日本人への、ソ連軍の暴虐が始まるのである。

 この後のソ連軍による残虐非道な行いと無残に死んでいった日本人たちについては何度読んでも吐き気が出そうでいちいち書くことはしない。数々の殺人・暴行、また紙幣や産業設備の強奪への抗議に対してソ連は「全部、戦利品である」と言うだけで、なるほど勝者からすればそれはそうかもしれない。それが戦争というものの正体であり、74年前に起こった本当の事なのである。