新潮現代文学35 点と線・渡された場面/松本清張[新潮社]

 

 今更「点と線」だの「張込み」だの、超有名な作品を読んでもしょうがないというか、松本清張と言えばメジャー中のメジャーなので高校生の時に有名どころの小説は一通り読んだし、失礼な話だが当時は読んでもそれほど感銘を受けなかったので38歳の多忙なサラリーマン生活?を送る俺、次々に本を買っては積読がたまる一方の俺が再び読んでも仕方ない気もしたが、しかしあの暗さというか、派手さや刺激的な描写はないが徐々に犯人を追い詰めていく或いは悪さを働いた人間が徐々に破滅へと向かっていく世界をこの年齢の俺が読んだらツボにはまるのではないかと期待して読み、見事にツボにはまったのであった。なるほどなるほど、刺激と快感を最優先する高校生の読者にはこの手のストーリーは辛かろうよ。

 「点と線」で言えば当初は男女が心中をはかっただけの単純な事件と思われていたのが死んだ男の身元を調べるうちにどうも男と女は心中をはかったにしてはそれほど深い関係があったとは見受けられない、怪しい、という「刑事の勘」が働き、調べるうちに「四分間の偶然」を見つけ(この部分は当時高校生の俺も感心させられた)、では犯人の目星はついたかと思うとその犯人(と思われる人物)は事件時には北海道にいたらしいのであり、事件現場は九州である。そのアリバイを崩すには…という事が徐々に徐々に判明し進行していくのであり、ゴールとはそのように徐々に徐々に近づいていくものである事を現在の、ある程度世間を知っている俺ならよくわかるので作品世界を十分に味わう事ができた。しかし洟垂れ小僧の高校生だった俺にそんな事はわからず名探偵或いは名刑事が即座に矛盾や綻びを暴くストーリーを求めていたので新潮文庫版を読んでしばらくして古本屋に売ってしまったのだった。とは言え昭和30年~40年代の高校生はこういう作品に熱中してわけだから、単に俺が阿呆だった可能性もあるが(そんな気がするなあ)。

 しかしながら当時と今で全く違った感想を持ったのは短編の「張込み」「証言」で、特に「張込み」については刑事の張込み描写が主で、平凡な主婦に突如として発生した激情がずいぶんおとなしく描写されている事に不満を持った事は覚えている。しかし今、再び読んでみると、刑事の退屈な「張込み」を通してこそそれまで平凡な生活を送っていた主婦が昔の恋人の訪れにより「別な生命を吹き込まれたような」「炎がめらめらと見えるような」姿に変わった事が手に取るようにわかるのであり、しかし終わりを告げる刑事の訪問と共に「この女は数時間の生命を燃やしたに過ぎなかった。今晩から、また、猫背の吝嗇な夫と三人の継子との生活に戻らなければならない。そして明日からは、そんな情熱がひそんでいようとは思われない平凡な顔で、編物機械をいじっているに違いない」として終わる余韻こそ豊穣で、さすが松本清張である(当たり前だ)。

 また「証言」については、「愛人を持つ男の愚かな行動」と冷笑していたが(何せ当時高校生なので)、再読してみると身につまされるというか、これはもう本当にリアルで他人事ではない、特に作品発表時(昭和30年代)は大会社の課長ともなれば愛人を持つ事は大いにありえたであろうから、当時この作品を読んでいた課長連中(?)は恐れ慄きながらしかし何度も読み返している姿まで想像できよう。それまで何の不安もなかった生活が、ふとした事から不条理に脅かされ、「個人の生涯を意地悪く破綻させる」事がある、そうなってしまってはもうどうしようもない…事がこれほど説得力を持って読者に響いてくるとは、さすが松本清張である(しつこいな)。

 一方で長編「渡された場面」は今回初めて読んだが、ここでも「点と線」で示された「徐々に徐々に判明し進行していく」描写は健在で、更に犯人はあらかじめわかっているのでそれがどう暴かれていくのかを犯人の視点で読む事もできれば刑事の視点で読む事もでき、名刑事の天才的な閃きはないものの徐々に事件が明るみになっていくところが大いに読ませる。脱帽である。というわけで早速松本清張の別の本を買ってきたので、またここで取り上げる事にしよう(積読中です)。