夜の虹/森村誠一[講談社:講談社文庫]

夜の虹 (講談社文庫)

夜の虹 (講談社文庫)

 連載を何本も抱えるような売れっ子のミステリー作家の中には結末を考えずに書き出す人も多いと聞いたことがある。つまり犯人もトリックの中身も白紙のままとりあえず殺人事件を起こすわけで、そんなことで大丈夫なのかと思うが、それを何とか結末に向けて辻褄を合わせていくのが売れっ子の売れっ子たるゆえんらしい。それに考えてみればその小説を読んでいる読者はもちろん犯人を知らないわけであるから、むしろそのように「作者さえも犯人を知らない、次にどんな事件が起こるかわからない」方が臨場感が出て俄然面白くなるかもしれないのであって、本書もまたそのように「作者さえもこの事件がどういう結末へ動いているのかわからない」中で書き進められ(たと思う)、その臨場感は今までに読んできたミステリーとは一線を画すものであった。
 とにかく矢継ぎ早に事件が起こる。名もわからぬ平凡な家族が交通事故に遭遇し、女子大生が知り合いに騙されてレイプされ逃げ出して転落死し、タレントが自殺し、浮浪者が公園で死体となって発見される。そのそれぞれの事件は全て犯人を核として起こっている繋がった事件であることが読者には何となくわかるが、表面上はただの自殺やただの交通事故なのだから関連性など見つけようがない。しかしその小さな事件それぞれが偶然にも主要人物である恋人の男女と細くつながりを持ち、また昔ながらの「デカ根性」を忘れない骨のある刑事たちによって実に入念に捜査され、さほど強引さを感じることなく犯人を中心とした一本の事件としてまとまっていく様子は非常に読み応えがあった。
 あまり熱心なミステリー読者ではない俺が言うのも何だが、ミステリーには探偵役と一緒に事件の謎を解明していく本格ものと、それよりは事件の社会性や犯行に至った犯人の背景に重きを置く社会派ものの二つの形態があって、世に溢れるミステリーはその両極のどちらかに身を置くかその両極の中間地点に位置するしかない。もちろん本格推理も社会派ミステリーもそれぞれ魅力があるが、両者のおいしいところを食いながらさほど深刻にならずに軽く読める本書のような作品が多いことが、ミステリーがSFや歴史ものに比べ圧倒的に支持されている理由であろう。大掛かりなトリックがあるわけでもなく、さりとて単純に犯人や犯行の手口がわかるわけではなく、様々なケースを考えながら、或いは偶然手に入れた情報に戸惑い悩みながらやがて輪郭が明確になっていく作業は至福の知的体験と言える。
 というわけで結末は明かさないが(ネタバレしてでも書きたいような大層なものでもないので)、本書を読んで損することはないことは保証しよう。特に難解な学術書や純文学を読んだ後に本書を読むといい気分転換になろう。そして本書中において書かれた、本筋とは何の関係もない、男と女の駆け引きをめぐる文章を書き写しましてさようなら。
   
 この辺のテクニックは釣りに似ているところがある。あたりに対応して合わせる。獲物の種類に応じて合わせ方を変えなければならない。魚が餌に食いついた瞬間に合わせてゴボウ抜きに釣り上げるのが基本であるが、魚型が大きく抜き上げられないときは、流れや抵抗を計算に入れて徐々に手元に手繰り寄せる。
 無理に取り込もうとすると、糸が切れたり、木の枝に竿先を突っ込んだり足元を誤って転んだりして獲物に逃げられてしまう。
 釣りのコツは一にかかって合わせのタイミングにあると言ってよい。このタイミングを見誤るとせっかく鉤にかかった獲物を逃がしてしまう。
  
 情事の前段階が諸事優雅で、エスプリに満ちた会話や、音楽や、食事や酒を堆み重ねたものなら、頂上までの情事そのものは、人目を憚るプライベートな姿態である。体位そのものを抽出すればむしろ屈辱的である。動物的な行為を中和する人間的な所作として前段階のステップがある。
 どんなに美しく典雅な女性でも男を受け入れるときは、その体位を取らざるを得ない。女性が羞恥に震えながら自分のためにあられもない体位を取ってくれるということが、男を優越感に浸らせ、官能を高めてくれるのである。女性が日頃のつつしみの鎧を脱ぎ捨て、全身開放して自分を奥深くへ迎え入れようとしてくれる体位に男は感動する。感動しながらも女性があたえてくれた許容に増長して官能の花園を暴れまわる。