鳳仙花/中上健次[小学館:小学館文庫]

 背表紙に「匂い立つ『母の物語』」と書かれてあるが、読後は『女』の物語の印象が強い。まだ肉体の目覚めを知らぬ少女がやがて三人の男と関係を持ち、五人の子供を女手一つで育てなければならなくなる流転の人生は「女」が持つ荒々しさと弱さをあぶり出すようで、読んでいて息苦しくなるほどだった。私生児として生まれ、絶えず潮鳴りが響くのどかな田舎町で育った美しい少女は恐ろしげで得体のしれない街に奉公して、女の肉体の味を覚えて「女」になり、3人の男の子供を身籠って「母」になるが、女になり母になることそのものが業である、或いはとても悲しいことである、とさえ思える描写を繰り返しながらもこの女主人公には美しさが保たれている。満州事変前の昭和6年から朝鮮戦争が始まる昭和25年までの時代を生きた彼女には現代ではとうに失われた「女であることの悲しみ」がある。しかし、だからこそ美しいのであった。

 奉公を始めた頃の少女だった主人公は「風呂に入っている時、荒げた男衆らの声が聴こえてくる時」が嫌で、「湯をはじく肌や膨らみはじめた乳房がおぞましい」と感じるほどであった。しかし淡い恋心を抱いていた義兄に死なれ、自分の周囲で起きる出来事も大人たちの行いも自分一人ではどうしようもないという不安な生活の中である男と出会い、女として成長していくが、自分が住む街は恐ろしい事がたくさん起きる得体の知れないものであることに変わりはなかった。いくら涙を流しても誰も救ってくれず、夫に先立たれた主人公は五人の子供を食わすために行商に精を出すことになるが、その時主人公は25歳であり、ここから「匂い立つ」女の姿が息苦しいほど読者に伝わってくるのである。子供達の日々の暮らしのために行商をして街から街へと歩き、未亡人の薄幸さが醸し出され、何かの拍子にそれが蠱惑的な妖しさになる。やがて夫とは違う男に抱かれるが、その時の主人公の肉体も精神もただ快楽を求めているわけではない。女であることを確認するかのように、夫に先立たれ女手一つで子供を育てていかなければならない自分の運命を直視するように身体を許すのであり、自分から積極的に身体をぶつけ淫らに振る舞っていてもその姿は凛としていて、男なら思わず目を見張ってしまう女の業が浮かび上がる。また3人目の男の子供を孕んだ主人公が「自分が孕みやすい身体で、孕んだ途端に体が動きやすく気がやわらぎ明るくなる性」であることを知って悲しむ描写があるが、そこにこそ主人公の人生が象徴されている。しかしこんなことが人生の象徴になるのだろうか、なるとしたら女というのは何という不思議な存在なのか。

 空襲や地震に遭いながらも女手一つで子供を育てていく主人公の姿は荒々しいようで弱々しい。3人目の男は夫や2人目の男とは比べ物にならないほど男っ気のない頼りない男で、一緒に暮らすことなど無理だと思いながらも子供を捨てて駆け落ちしようと迷い、一番下の子供と心中すれば何もかも解決すると考える。或いは行商して子供を立派に育てるからもう男と所帯は持たない、と決心した矢先にやはり男に会いたいと思う。30歳や35歳の女の盛りでは時々脈絡もなく乳が張ることがあって、それを恥ずかしいと思う時もあれば自分が淫蕩に身をまかす女になったようで自虐的に笑みがこぼれる。しかし読み進めば読み進むほどそれらの生き様が彼女を女として輝かせているのだと自然に思えてくる。気高く強く、脆く傷つきやすい女の存在が匂い立つほどに感じられ、表層的な美しさではない、深く沁み込む美しさを漲らせている。これこそ女の物語である。

   

 龍造がフサの肌に唇をつけ、龍造の手に張りのある肌の脂粉がついてしまうように思いながら、フサは龍造が奥の奥まで入りこもうとする度に、真っ赤に火のように燃え上がって男をたぶらかし誘っている蓮っ葉な女のような気がし、笑みを浮かべ、龍造のまだ青さの残っているような張りつめた喉首に舌を這わし、龍造の耳元にささやくようにあえぐ。

 フサは自分が龍造の背に彫った朱色の花の化身のような気がした。