2 救いはラブコメの中だけに

第10位:家に帰ると妻が必ず死んだふりをしています。/K.kajunsky・ichida[PHP研究所]

家に帰ると妻が必ず死んだふりをしています。2

家に帰ると妻が必ず死んだふりをしています。2

 毎年言っている事だが繰り返させて頂くとラブコメというのは普通「夫婦になる」までを描いて、それで終わりである。「地味で平凡で冴えない男」を我が物にしようと複数のヒロイン達が争うところがラブコメの最大の魅力であって、そのうちの誰か一人が主人公のハートを射止めて夫婦となってしまえば(一夫多妻という考えもあるが、ここでは考えない)そこで終了となる。しかし夫婦という形態は社会的に認められているのだから何をやってもいい(どれだけ変態的なけだもののような生活を送っても文句は言えない)という安心感と強さがあり、しかも二次元のセオリーによって妻は美人でスタイルがよく、それでいて「妻=生涯、夫だけに尽くし夫だけを愛さなければならない」なのであるから、夫の優越感と征服感は独身の並みではない(一夫多妻であればもっとすごい事になるが、ここでは考えない)のであって、これを利用しない手はない。
 では本作の妻はどうなのかと言うと出会った当初は美人だったらしいが今はよくわからない。そして家に帰るといつも「死んだふり」をして迎えており、その死んだふりは「口から血を流す」「腹から血を流す」といった本格的なものから「矢が頭に貫通する」「銃を抱えたまま名誉の戦死」「この者、謀反の咎によりさらし首(上質ロール紙)」、更には「ドナルドダックのコスプレ」「ゴミ捨て場にあったマネキンに銃殺」とわけがわからないものが続くようになり、夫は困惑し妻が何をしたいかわからないがまあ楽しんでいるようなので飽きるまでやらせておけばいいか…という感じで毎日がほほえましく過ぎていくという、読んでいるこっちもよくわからないものであったが、心が和むのは確かである。ハーレム展開もなく地球規模の陰謀に巻き込まれたわけでもなく、淡々と過ぎる日常の中で、特に情熱を燃やす趣味があるわけでもなくTVを見ながらビールを飲むのが好きな平凡な主人公(夫)が妻に振り回されつつもそれに楽しく振り回されようとしている姿勢は何とも小市民的で、読んでいて居心地が良いものである。また夫に驚いてもらおう、笑ってもらおう、楽しんでもらおう、そうする事で自分も楽しもうという妻の姿は、「妻」とは単なる「性交渉の相手」ではない事に気付かせてくれよう。
 そのようにして外から見れば意味不明なコミュニケーション(マイケルジャクソンがお見舞いに来ました、オーバーアクションなアメリカの弁護士並みの小芝居の独り言、髭をつけて「ひょう・しょう・じょう。あなたは…」、自宅でソープランドを始めました、第1回夫婦早食い選手権、マック中毒、等々)を家庭内で繰り返す事によって夫婦の生活にはリズムができ、家族だけが共有するリズムを積み重ねる事によって家族の絆は確固としたものになり、気が付けば二人は夫婦となっていくのである。そして読者は安らぎと希望を感じる事ができる。俺もこんな妻が欲し…いやそれはまた別問題かな…。
    
第9位:真田と浜子/ハイソンヤギ[徳間書店:RYU COMICS]
真田と浜子 2 (リュウコミックス)

真田と浜子 2 (リュウコミックス)

 ラブコメとは美人且つ色気のあるヒロインが地味で平凡で冴えない主人公にもたれかかるものであって、主人公に自分の存在を認めさせようと特に何もしなくても色気のあるヒロインが更に色気を醸し出して積極的に主人公(=読者)にサービスするものである。その点、本作のヒロインは積極さではなかなかのものであるが、残念な事に色気がない。いや「残念」と言うのも憚られるというか、一般に言う色気というのは「美人」とか「かわいい」という類のものであるが、このヒロインはそういう世界では生きていない。
 二次元である以上出てくるヒロインが「美人」で「かわいい」のは当たり前である。重要な事はそのようなヒロインが主人公の歓心を買おうと主人公の性的欲望を考慮して性的魅力を発揮する事であり、そこに色気が生まれるのであって、翻ってこのヒロインは主人公(デブ)の性的欲望をかなえようとしないどころか、ヒロイン自身が欲望に任せて(ブラをつけさせる・首輪をつけさせる・尻が大きく開いたパンツをはかせる・掃除をさせる)主人公をおもちゃにしたりずいぶんと強引な性交渉(例:尻を狙う)をしようとするのである。となるとそれを受ける主人公は恐るべきマゾなのかというとそうではない。デブ専であるヒロイン(「耳の裏から首筋にかけての、こう、みっちりと、肉が詰まっている感じが、凄く良いよね…」)が欲望に任せて主人公を意のままに操ろうと或いは特殊な性交渉に至ろうとするが、主人公はそのヒロインの欲望を受け止めるのではなく常に反抗し反論しヒロイン側を言い負かすのであり(たまに力技でやられる時はあるが)、最後には優位に立つ(或いはヒロインにあきらめさせる)のである。つまり当初は下の立場にあった主人公が形成逆転するのが本作のストーリーラインであり、またヒロイン自体もそういう性癖(「普段は傲慢で攻撃的なキャラを演じて、ベッドの上ではしおらしく従順な風を装う」「攻撃的に見えて実は相手から反撃される事を切望したり、傷ついた自分を人目に晒して、それを見た相手の反応を見て楽しんでるだろ」)なのである。そのような二人の関係が作品内で劇的に変わるわけではなくただズルズルとそれぞれの欲望のぶつかり合いによる同棲生活が続くだけであるが、主人公はヒロインを嫌っているわけではないし、ヒロインは(デブ専なので)もちろん主人公を好んでいる。そして欲望をストレートに出すのは専らヒロイン側であれば、主人公側が優位になる。それは「男が女より優位に立つ」というラブコメの思想にもつながるのであり、本作は立派なラブコメなのである。
 ともかくも二人の欲望の応酬は終始そのようにダラダラと行われ、今や生活の一部とさえなっている。つまり二人でこのダラダラとした生活を成立させているのであり、二人は共犯関係にさえある(ゴミの浜子にクズの真田)。このままダラダラダラダラと二人は過ごしていくであろうが、それも一つの愛の形であり、またヒロインが「何となく」でもなく「ご都合主義的に」でもなくはっきりと「デブ専」という理由で主人公に大きな愛情を抱いているのも確かである。ラブコメとは希望でなければならないのだから、社会的弱者であるデブであっても同棲ができる、しかも朝起きたらアレをしゃぶってくれる彼女ができるという希望をはっきりと示してくれた本作は素晴らしいラブコメなのである。
  
第8位:モンスター娘のいる日常オカヤド徳間書店:RYU COMICS]
モンスター娘のいる日常 1 (リュウコミックス)

モンスター娘のいる日常 1 (リュウコミックス)

 毎年の繰り返しとなるが、ラブコメの主人公は「地味で平凡で冴えない男」でなければならない。そのような主人公が「誰もが振り返るような美人」と関わりを持つ事にラブコメの希望・救い・癒しがあるのであって、現実ではありえないその希望を我々はフィクションに託すのである。しかし三次元の現実でありえない事を二次元の現実で易々と構築できるわけではないので結局は「誰もが振り返るような美人」が「地味で平凡で冴えない男」に関心をもつための根拠を求める事になり、それが毎年繰り返し言っている「どしゃ降りの雨の中、子犬が濡れているからといって傘を差し出し、自分はずぶ濡れ」的なクソッタレ性格設定であって、これによって何もかもが台無しとなるのであった。「いい人」にするのはいいが人間味のない「いい人」にしては駄目なのだ、そもそも主人公は「地味で平凡で冴えない男」なのだから「いい人」に決まっているのでありその時点での「いい人」ぶりを開花させればいいだけなのだ。だがラブコメに対して「都合が良すぎる」「モテない男の願望漫画だ」等々のクレームをつけていいという風潮がいまだ根強く残っている日本社会ではこのような事になるのもまた当然であり、俺の戦いは続くのである。
 しかしそのような点(「ヒロインは女の子なんだからさ、その女の子にひどい事言うあいつらが許せなかっただけだよ」「家族なんだからさ、遠慮とか我慢とか、そういうのは無しでいこうよ」)を除けば本作はハーレムラブコメとしてはなかなか良い。それぞれのヒロイン達が主人公への真剣な想いを持っており、その「想い」は重いから軽い、積極的から消極的、華やかなものから秘めたるもの、果敢なものから静かなものまで様々だが、それによって主人公(=読者)はヒロインから360度監視されている事が読者に意識される。「監視」と書くと自由がきかない窮屈なイメージがあるが、その監視の目線はヒロイン達の主人公へ向けての恋心によるものであり、自由がきかず窮屈であればあるほどヒロイン達の愛情が感じられ主人公の存在感が高まり物語の鍵を握る事になろう。またヒロイン達同士が主人公をめぐって争いながらも決して険悪な空気にはならず、しかし主人公をめぐってヒロイン達が権謀術策(と言うほど陰険なものではないか。「争奪戦スタートメンバーじゃん!」)をたくらむ様子は主人公(=読者)に対していかに強い想いを抱いているかが伝わってこよう。このパターンと言えば「天地無用!」(日本ラブコメ大勝1997・1位)の右に出る作品はないが、本作もなかなか負けていない。
 またこのような「一つ屋根の下でハーレム」であっても「都合が良すぎる」感じがあまり感じられないのはヒロイン達が人外(蛇、鳥、馬、スライム、人魚)であるからで、主人公は人外特有のややこしい事(蛇の尻尾に巻き込まれる、スライムのせいで窒息しそうになる)に巻き込まれてしまうのでそれほどうらやましくはない。むしろこれではいざ性交渉の時は大変そうだと面倒臭さを感じる事によって「いくら都合が良くてもこれではなあ」と割引が自然に行われ、読者にとってはちょうどよい「都合の良さ」となる。だからこそ主人公の性格設定は残念であった。断言するが、もしこの点を克服していれば3位以内に入っていた。世の中うまくいかんですなあ。
   
第7位:忍びのオツトメ/マサオ[少年画報社:YKコミックス]
忍びのオツトメ 1 (ヤングキングコミックス)

忍びのオツトメ 1 (ヤングキングコミックス)

 世間の評価に惑わされてはならない。というより世間一般で評価されている「ラブコメ」のほとんどはラブコメではない。大事な事なので何度も何度も繰り返すがラブコメの主人公は地味で平凡で冴えない男でなければならず、世間でいうラブコメも一応「平凡な主人公に突然美女が…」という体裁を整えてはいるがその平凡さをはき違えている場合がほとんどなので「平凡な男が主人公のラブコメですよ」と誰かから言われても基本的には信用しない。だから俺は今日も今日とて調査活動に励むのであり、それはともかく本作の主人公もそういう「はき違えた」主人公であった(「逃げて!ここは俺が何とかするから!」「もしかして悩みとかあります?俺にできる事があれば何でも言って下さい。力になります」「お前!ヒロイン達に何をするんだっ!許さないっ!」)。そのため本来なら9位か10位、或いはランク外になるはずだったのが7位となったのはヒロイン達の魅力が飛び抜けていたからで、こういう事もあるから世の中というのはわからない。
 ラブコメの主人公は平凡でおとなしいのでほとんどの場合物語を主導しない。そのためヒロイン側が積極的に動いて物語を主導・回転させるため、主人公はどうしても影が薄くなってしまう。そこで主人公が「影が薄い…とほほ…」となる言語道断な作品が90年代のラブコメには跋扈していた、というよりそうする事が当たり前(そうしない事がおかしい)な風潮であった。そのように主人公が邪険にされるという事は主人公に感情移入している読者までも邪険にするという事なのにもかかわらず、である。だから90年代はラブコメにとって「暗黒時代」と呼ばれているが(主に俺が)、そこでの俺の暗闘については別の機会に述べる事にして本作ではヒロイン達が主人公(ダメリーマン)を陰から見守る「くの一」として常に主人公に寄り添いサポートし(「雑用から下の世話まで」「次に主人公の事を悪く言ったら本当に殺して埋めよう」)、敵の攻撃をかわしつつ主人公の子種を狙う(「遊園地よりラブホテル」「明日はどうやってアプローチするでござるかなあ」)という素晴らしいものであった。
 ラブコメとは男が女より優位に立つ思想なのだから「ヒロイン側が積極的に立ち回りながら決して主人公より前に出ない」事が求められるのであって、その点「忍者、くの一」という設定は主従関係(主人公=主、ヒロイン=従)が固定されるわけだからラブコメにうってつけであった。「くの一」というと色仕掛けで男を手玉に取るイメージが先行し実際そういうものがほとんどであるが、何ともったいない事か。本作はキャラクターの動きがぎこちなかったり顔の表情がワンパターン・不自然等、作画の問題も多々あるが、忍者という設定はそれを補って更にプラスにするほどのパワーがあった。だからこそ、だからこそ主人公の性格設定を失敗しているところが惜しい。はっきり言ってしまうが、それさえなければ1位は確実であった。惜しい惜しい。
 しかしこのお母さんくの一は非常にいいね。「ご飯にする?お風呂にする?それともママにする?」
   
第6位:初愛〜はつあい〜/田中ユタカ竹書房:BAMBOO COMICS COLORFUL SELECT]
 確かに俺はラブコメに真面目に接しているが、真剣にやられても困るという事もある。「地味で平凡で冴えない男」に「美人でかわいくてスタイル抜群な女」をぶつけるなどという、現実ではありえない事をやっているのだから、「こんな事は現実ではありえないが、こういうものを描かないと(読まないと)神も仏もない」ので描きました(読みました)、ぐらいがちょうどいいのであって、更に言えばヒロイン側が主人公の事を想っていくらでも葛藤してもいいし甘ったるい言葉を口に出しても構わないが、主人公(男)側が真剣にヒロインの事を想って葛藤したり歯の浮くような甘い言葉を吐くのはラブコメではあまりやらない方がよい。主人公が真剣であればあるほど読者は「この主人公はこんなに真剣に目の前の女と向き合っているのに…俺はこんな作り物を読んで満足しているだけなのだ…」と劣等感に苛まれてしまうからで、ラブコメとは読者に勇気と希望を与えるものである事を忘れてはならない。(1)ヒロイン側が積極的に出て、(2)それを主人公側が受ける、がラブコメの基本なのであり、それでも主人公側から反転攻勢に出て愛を囁いたり勇敢になりたいのであれば「ヒロインからの愛情を十分に浴びた→今度は主人公側から」という文脈がなければならず、十分に浴びたわけでもないのに「頑張るから、男として」「この世で一番大切な女を幸せにするのはこの俺だ」「恋人以外には許されない忠誠を誓うキスだよ」などと言う主人公にどうして感情移入できようか。ラブコメとは勇気と希望、そして救いの物語なのであり、そういう熱く甘ったるい言葉を口に出せない人間にこそスポットライトを当てるべきなのである。
 とは言えそこさえ目をつぶれば愛の世界が待っている。もちろん「地味で平凡で冴えない男」にやってくる愛の世界であり、主人公視点ではなくヒロイン視点であれば、いかにヒロインが主人公を愛しているかが濃密なモノローグで語られるのでそれはもう大変なものであった。ヒロインにとって主人公は全てで、ヒロインの存在自体が主人公と出会うためだけにある事をヒロイン自身が肯定しているのである(「ヌクヌクでキスし放題なんてこの世で最高の贅沢だね」「あたし胸が大きく良かったって思う。一日外で働いて冷たく凍えた主人公の両手をあっためる事ができるから」)。そのような彼女達は本当に相手(=地味で平凡で冴えない男=読者)を愛しているからこそ繋がりたいのであり卑猥な言葉も喜んで口にするのであり、行われる性交渉は100%主人公のための奉仕となる。主人公に快楽を与え、主人公に快楽を与えている事にヒロインは快楽を感じ、それがまた主人公に…という二人だけの世界が展開され、それらを体験する事で読者は罪を洗い流されたかのような錯覚を覚え癒されよう。
 このような世界を提供できるのはもちろんこの作者だけで、やっている事は単なる性交渉であるがそれを普段我々が意識する汚い欲望にまみれたものではなくもっと清らかで崇高なものに昇華する事に成功している。それを体験する事で読者自身も清らかで崇高な体験をした錯覚に陥る事ができ、読み終えた読者は打算と欲望にまみれた汚い現実の世界へと戻っていくのである。それでいい。救いはラブコメの中だけにある。
  
第5位:中国嫁日記井上純一エンターブレイン
中国嫁日記 (二)

中国嫁日記 (二)

 繰り返すが、ラブコメの絶対条件は「地味で平凡で冴えない主人公に美人でスタイル抜群な女をぶつける」というものであって、「地味で平凡で冴えない中年主人公に美人でスタイル抜群な若い女をぶつける」と言うつもりはない。俺が言うのも何だが、それは著しく非現実的というかありえない話であろう。やはり歳相応というか、少年には少女が、中年男には中年女が似合っている。とは言え俺も31歳となったので若い女を求める中年のおっさんの気持ちもわからないではない。それにラブコメとは希望を与えるものなのだから「こんな中年のどうしようもないおっさんでも美人でスタイル抜群な若い女と結婚する事ができた」と提示するのもまたいいだろう。
 そこで本作であるが、「40代のオタク(「机の周りは半裸の女の人形でいっぱいです。毎月毎月、異常な量の漫画や美少女フィギュアを買い漁ります」「その自堕落で不規則な生活、暴飲暴食、結婚しないと死にます」)が20代のかわいい女(痩せ形なのに胸がとても大きい)と結婚できた」というものすごくうらやましい、希望が持てるものであった。ただし相手の女は日本人ではなく中国人であり、何でも中国では40代の夫と20代の妻は珍しくなく(人口が多いためか?)、中国の女性が男性に求めるのは「誠実さ(嘘をつかない、浮気をしない)」であるのでデブでもオタクでも全く問題ない(デブでオタクだから浮気ができない)という事らしいのである。そんな都合の良い話があるものか…と半信半疑で読み進めるも本当にあったのであり、かくして国際結婚が行われたのであった。
 しかし本作の特筆すべき点は「自分はオタクだ」として常日頃から劣等感を抱いている主人公(夫)に対して妻の方が何ら気にしていないという点であって、中国語が話せる話せない以前に日本人とお見合いを4回やって4回お断りをされたのだからかなり口下手であり、また酒もタバコもやらないという何のアピールポイントのない40代日本人夫を20代中国人妻は「物静かで落ち着いていてちょっといいかも」と思うのであった。そんな事がフィクションではなく実際にあったのだ。これが日本の女ならば「オタク、キモイ」「酒飲めない、情けない」として切って捨てられるところだが世界は広く希望は復活したのである。とは言え生まれも習慣も違い言葉も違う二つの国の人間が生活するのは大変な事であるが、それがなぜか面白いのは二人の間にはもう確固たる絆ができてしまったからであり、そうなれば大抵は笑い話となる(共産主義の国なのに幽霊が怖い、東北女は一瞬で怒るが一瞬で収まる、「ケコンして太ることを『しあわせブタさん』って言うんじゃナイの?」、「リア充、イイコトデスネ!」)。中国の古いことわざ「愛屋及烏」(「人を愛したら、その人に関するどんな細かい欠点やおかしな癖さえも、愛しく見えるようになる」)の通り、「アニメや漫画、おもちゃが好きな人、主人を私は愛しているのです」となったのである。「静かな生活の中に時には波乱があり、波乱が時に激しい渦となり、その渦も最後には落ち着きを取り戻す。それでもいつも変わらないのは、日々の暮らしに対する私達の情熱、愛への信念、そして未来への希望なのです」。さすが世界第2位の経済大国となっただけの事はある。俺も情熱・信念・希望を持ってラブコメを求める事にしよう。
 しかしまあ…露天風呂に入ったり足の爪を切ってもらったりお台場にデートに行ったり、うらやましいですな。
   
第4位:駅から始まる恋の物語/東タイラエンジェル出版:ANGEL COMICS]
 全国の本屋古本屋図書館を訪ねているうちに鉄道の魅力に気付き始めて今年は春、夏、そして冬も「青春18きっぷ」を買うほどになったので駅と聞いてひいきにして本作を4位とした…わけではない。大体「駅から始まる」と言うぐらいだから駅がストーリーの重要な要素になっているかと言うとそうでもない。ただ駅もしくは駅周辺で見知らぬ男女が出会うだけで、それから先は駅が舞台にならず(海、山、スキー場、子持ちのバツイチの家)あれよあれよという間に恋人関係へと発展するのである。
 しかしその「見知らぬ男女が出会って→恋人関係に発展」の見せ方が非常にうまかった。「エロではないが、非エロでもない」という双葉社レーベルのコンビニ雑誌に載せる短編であるから話を早く進めるためにヒロイン側が積極的になるのはよくある事だが、しかし積極さはともすれば「(このヒロインは)男なら誰でもいい」というような淫乱さに繋がる危険性があるのであって、しかし本作のヒロイン達にそのような淫乱さは微塵もなくひたすら美人でかわいく、一方で地味で平凡で冴えない…というよりは没個性的な主人公に積極的に話しかけ、身体を寄せ、その身体を惜しげもなく開き、二人はめでたく恋人同士となるのである(「電車を乗り過ごした→彼女ができた」「駅で見知らぬ女に話しかけられた→その女は彼女になった」「駅で女とぶつかった→その女は彼女になった」「通勤の電車内で見かける女に恋をした→その女は彼女になった」等)。
 なぜそんな事になるかと言えば彼女達が望んだからである。一目惚れ、主人公の顔が「タイプ」だった、単に「何となくいいなと思ったから…本当に何となく…」、と理由は様々に考えられるが、主人公はほとんど何もせずに偶然と幸運だけで美人でかわいいヒロインを手に入れる事ができるのである。これはもうラブコメではなく現代のファンタジーだが、そのファンタジーをここまでテンポよく、また生活感のあるものに仕上げた作品はそうそうない。特に見知らぬ男女がとりあえず会話をしなければならなくなった時の気まずさを維持しつつもヒロイン側がその気まずさを突破しようとする描写は自然でうまいものがある。それによって主人公(=読者)はヒロインの繰り出す流れに身を任せる事ができ、身を任す事を決めた主人公はある程度なら積極的に出ても(性交渉時に積極的に出ても)違和感はない。ヒロイン側が積極的に出ながらも一番おいしいところは主人公が主導権を握る、それがラブコメなのである。
 そして本作でそのような都合の良い展開を描く事の迷いや照れが微塵もない。そのおかげで読むこちら側も迷いや照れもなく読む事ができ、「自分にもこんな出会いがあるかもしれない」という錯覚も迷いや照れもなく感じる事ができ、期待に胸が躍ろう。「恋のきっかけなんてドコで見つかるかわからない」、まさにその通りだと錯覚させる、こういう作品が「生きる勇気を与える」のである。
    
第3位:追伸 二人の手紙物語/森雅之[バジリコ]
追伸―二人の手紙物語

追伸―二人の手紙物語

 日本ラブコメ大賞もずいぶん長い間やっているので繰り返しになるのは避けたいが(ただでさえ文章長くて読むのが疲れるのに)今年初めて読む人もいるだろうから説明させて頂くと、毎年必ず「古き良き時代」のラブコメを入れる事にしている(2010年4位「あした天気になアれ」、2011年6位「いらっしゃい青春」、20122013年12位「劣等生クラブ」)。そのための情報収集及び捜索活動にはいつも苦労しているが、ラブコメとは「女から相手にされないみすぼらしいオタクが、せめて二次元の中だけは相手にされたいという現実逃避」のためのものではないという事を証明できるならば俺はいくら身銭を切ろうが時間を無駄にしようが出会う確率が少なかろうがやるのである。ラブコメとは名もない庶民でも主人公となる事ができ、周りが必ず振り返るような美人のヒロインとロマンスを繰り広げる事もできる、或いは美人なヒロインではないがそれなりにいいヒロイン(情が深い、献身的に尽くす、等)を得てそれなりに幸せになれる…ということを読者に提示する物語なのであり、そのような物語は昔から現存して当時の名もなき庶民達を鼓舞してきたはずなのだ。
 というわけで本作であるが発行は2004年であるがもともとは1988年から1989年に連載されていた作品で、当時はTVや電話はある、新幹線や飛行機もある、しかしiPhoneやインターネットはない時代であった。そこで予期せず出会った不器用な若き男女は主に手紙で(時々は長距離電話でやり取りするが、当時の長距離電話料金は割高だった)日々の喜び・将来への迷いや不安や苦しみを書き連ねるのであり、互いの心情をうまく言い表せない事にもどかしさを感じながらもまっすぐにこれからの人生の想いを吐露し、将来の自分の姿を考えた時に自分だけでなく文通相手の事も考えている事に気付き、次第に同じ人生を歩んでいく事を確信するのである。ヒロインはお世辞にも色気があるとは言えず積極的とは言えないが何となく主人公(版画制作に励む、地味で平凡で華のない青年)が気になる、同じく主人公も何となく彼女が気になるが劇的な事件が起こるわけではない。しかし恋愛とはこのような何となくの連続で育まれるのであって、劇的な事件などまず起こらない。それを「劇的な事件が起こるはずだ」とする風潮は本作が連載されていた時代からますますひどくなっていく今に至るのであるが、それはともかく、主人公とヒロインは会えた事に喜び、会えない事に悲しみ、やがてお互いがお互いの人生に影響を与えようとしている事に戸惑い驚き、もどかしい日々の中で恋を育み、いつの間にか愛として成就する物語は微笑ましく懐かしいではないか。
 本作は「今ではもうありえない物語」となった「懐かしい」物語である。現代の女性達はあまりにも多くの事を知り過ぎたのであって、権利を主張する事、相手に自分の理想を要求する事、そして「結婚しないという選択肢もある」事を知ってしまった今ではこのような「不器用な悩める若い男性(=主人公)」と「共に歩む」事を決して選びはしないだろう。希望は本作を含めたラブコメの中だけに存在するのである。
      
第2位:プラモ男子とプリチー女子−ミズオとイエナの一年戦争−/ゆきもり・ソラキスズ[小学館ビッグコミックス
プラモ男子とプリチー女子-ミズオとイエナの一年戦争- 2 (ビッグコミックス)

プラモ男子とプリチー女子-ミズオとイエナの一年戦争- 2 (ビッグコミックス)

 ラブコメの主人公は「地味で平凡で冴えない男」でなければならず、そういう男は大抵オタクである。とは言え一口に「オタク」と言っても様々なタイプのオタクがいるのでオタクなら何でもいいというわけではない。しかしながら本作の主人公は非常に親しみの持てる、完全に感情移入できる、優れたガンプラガンダムのプラモデル)オタクであった。俺はガンダムもプラモデルもわからんが、本作の主人公の、自分の趣味・こだわりに対する飽くなき探求心というか狂おしいまでの情熱というか、それらに全面的に共感できるというか納得できるというか、読んでいて胸に詰まった。自分の人生を通じた趣味を見つけた者だけが持つ喜び、ときめき、そういうものをここまで露骨に表現されると感動すら覚えてしまう。具体的には「女子的なものは、主人公ライフには必要ないんじゃないかと。そう、女子的なものがなくて、困ったという事もない気がする。逆にない事で、このチョー満たされたライフを手に入れたわけで!この上ない自由を謳歌できているわけで!」「これまでどんな状況に追い込まれても周りに迷惑かけないように生きてきたのに…つつましく静かに…」「俺は争い事・衝突・摩擦を好まない。基本、流される事を心がけている」「超俺仕様の自由気ままの奔放ライフ」「何かやりたい仕事があるわけじゃないんだよ、単純にね、安定収入を求めているんですよ、今の暮らしができるレベルでのね。特別すごい収入を望んでいるわけじゃないんだよなあ…」「人なんて信じていい事なんてなかった、大概失敗してきただろ、その結論としての俺のこの洗練された超個人仕様の暮らしだろ」…。
 以上のような、思い通りにガンプラができればそれでいい、女なんていらない(「40歳素人童貞という事にポリシー、いやプライドすら持って」)んだという世間的に見れば痛い主人公に20歳のかわいいヒロインがやってきたところから物語は始まり、「俺の世界に女子的なものは必要ない、俺はこのガンプラとその他の自分で構築した世界で心地よく生きていくんだ」と自分に言い聞かせ現実から目を背けようとしながらも目の前の20歳のピチピチの若い女の魅力に迷いつつもガンプラガンプラと更に迷う主人公の姿は他人事ではないと思いながらもニヤニヤが止まらないのであった。そして主人公が単に若い女に振り回されるだけなら胸糞悪いだけだが(ただのマゾじゃねえかそんなもん)、このヒロインは本当に「好き好き大好き主人公」なのであり、しかし主人公の何もかもを肯定する都合の良いヒロインではない、でも本当に主人公に恋していることが主人公(=読者)にも伝わっているので安心しての上へ下への大騒動となる。こういうドタバタは高校生ものに多いのでもう31歳となった俺には敷居が高いが、ここに40歳のおっさんによるドタバタラブコメが誕生したのである。素晴らしい。「生真面目で不器用、だが一生懸命」な主人公はガンプラの世界に閉じこもり、妄想のガンダムの世界で華やかに生き、20歳ヒロインに生活を翻弄され、ヒロインの祖父によって何らかの策略に巻き込まれ、ただでさえ豊か(で貧乏)だった日々の暮らしはますます豊か(で貧乏?)になっていくのである。オタクが日陰者だった時代は終わり、今やオタクでも主人公となりえる時代なのである。
   
第1位:フォトカノ Sweet Snap/エンターブレイン・柚木N’・ディンゴアスキー・メディアワークス:DENGEKI COMICS]フォトカノ Happy Album/エンターブレインディンゴ・海産物[エンターブレイン:TECHGIAN STYLE]フォトカノ 電撃コミックアンソロジー Kiss[アスキー・メディアワークス
フォトカノ Happy Album(2) (TECHGIAN STYLE)

フォトカノ Happy Album(2) (TECHGIAN STYLE)

 基本的にこの「日本ラブコメ大賞」は書籍に与えられるものなので本書をとりあえず挙げたが、もちろん「フォトカノ」はゲームやアニメもあるので今回の受賞は「フォトカノ」というメディアについて与えられたと理解してもらえばよろしい。ラブコメであれば漫画、小説、アニメ、ゲーム、その他問わず開拓するのが俺の使命である。
 ということで本作の特徴は何と言っても通常のギャルゲーが「主人公がヒロインを攻略する」であるのに対し(当たり前だが)、こちらは「ヒロインが主人公を攻略する」という強烈な積極性を備えている事である。ラブコメとはヒロイン側が積極的に出るものであるが、さすがに「攻略する」というほどの攻めは見た事がない。いわゆる「肉食系」が攻めるというのがあるが、それでは主人公が一方的にやられるだけのマゾの話となる。ところが本作ではヒロインが積極的に攻略しながらも決して主人公より前には出ない。なぜならあくまで彼女らはギャルゲーのヒロインだからである。
 その代表的な例はメディアワークス漫画版ヒロイン(幼馴染)で、写真を取り始めた主人公と偶然鉢合わせたスクール水着のヒロインは突然「モデルやろうか?グラビアと言えば水着よね」と言うのであり、なぜそこまでしてくれるのかと聞くと「昔みたいに一緒にいたいから」「主人公に撮ってほしい、私を見てほしい」。ここまで強烈で積極的な言葉が、肉食系ではなく清楚なヒロインから、双葉社竹書房のような「成年漫画ではないが、実質成年漫画」でもない一般作品のヒロインから発せられる事は決してなかった。しかし「主人公を攻略」しようとしているのであれば可能である。ヒロインはそこまでして主人公(=読者)を攻略しようとしているのであり、それがわかった時点で読者は勝者となろう。なぜなら恋愛において最もストレスがかかるのは「彼女は自分を好いているか否か」という事であって、もし自分を好いていないのであればあきらめるしかない、しかし他人の心はわからないので好いているかもしれない…というところにストレスがある。ところが本作ではヒロイン側から攻略するほどであるから相思相愛が既に保証されており、読者はストレスを微塵も感じる事なくこの世界に接する事ができる。素晴らしい。
 またエンターブレイン漫画版ヒロイン(中学からの腐れ縁)も「私、主人公に好きになってもらえるような女の子になりたい」「頑張って主人公に振り向いてもらえるような女の子になるからね」と言うのであり、読者はやはり勝者となる。それ以外のヒロイン(教育実習生、料理部の「学園の嫁」、義理の妹、義理の妹の友人)も似たようなもので、よく「フォトカノよりアマガミ(2010年5位)の方がよかった」という声を聞くが、ヒロインの積極性を評価すれば本作の方が断然上であった。「アマガミ」がギャルゲーの限界に挑戦し成功したように、「フォトカノ」もまたギャルゲーの限界に挑戦し成功したのである。俺はそれらをどこまでも追う事にしよう。ラブコメと俺の挑戦は続くのである。