近代出版研究 創刊号/近代出版研究所[皓星社]

 本の内容ではなく本そのもの、或いは本に関わった人、会社、成立した業界や産業、流通、意識、当時の常識非常識、法律、等、等、本好き読書好きであれば気になる事は無数にある。しかし何となく気になるだけで綿密に調べるだけの時間も金もない、ついでに能力も人脈もない、狭い家には積読の本が溢れている(だから狭いのだ)、まあいいか、どこかで誰かが調べてくれるだろう…という事で本書を手に取ったが、この雑誌は実に良かった。まず精神的に良いのであって、いかにも専門的、ニッチな題材(「『立ち読み』はいつから始まり、受容され、また排除されたか」「図書館はいつから図書館と呼ばれるようになったか」)を取り上げながら、それらの題材を取り上げる時に特有の、中途半端に知っている人を切り捨てるような傲慢さがなく、しかしながら内容は総花的・初歩的な薄い内容ではないマニア向け、或いは本好き読書好きを引き込む魅力を確保しており、これは編者の手腕によるものであろう。また俺のような周辺の更に周辺の人間、意味もなく地方の図書館やブックオフ等に行っては悦に入っている人間、国会図書館の新聞資料室で昔の新聞の政局記事を読んではニヤニヤしている人間(本書にも似たような人がいたが)に何となく仲間意識を覚えさせるような、いやらしい? 本でもあった。

 本書の内容はどれも面白い又は読み応えがあるが、特に「立ち読み」の歴史が圧巻で、「購入意思不明瞭な状態での閲覧行為」が明治時代には非難されていたが(「アナタ其雑誌をお買ひになるのですか」と詰責したものであつた)、やがて販売促進になると黙認され、更に「書店」で「雑誌」を売る、という流通革新も加わり、雑誌や漫画雑誌などの「短期間で読めるコンテンツ」が興勢を極める中で一般化していった事を丁寧に説明している。また「デジタル時代に入って、雑誌の娯楽的、暇つぶし的役割が薄まった」事による「雑誌の時代の終わり」をも証明し、「電子書籍で繰り広げられる電脳『立ち読み』は、囲い込まれ、必ず課金に応じるはずのジェントルマン向けのもの」であるから、それはあたかも戦前、一部のエリート(大学生)が「丸善の二階」で自由に読む事を許されていたような一部のみのサービスと似ており、「立ち読み」の終わりは、庶民が「雑誌などの軽い読み物」を気楽に読め知識を吸収できていた時代の終わりでもある事も示唆している。「歴史は繰り返す」とは政治政局を見続けてきた俺の持論であるが、戦前のような格差社会がまた繰り返されるのかもしれない。

 本書は、何となく常識的に当たり前に考えているようで実はよく知らない事や、昔は当たり前だったが今はそうではない事を調べる事の面白さと快感を教えてくれよう。今や常識となっているコンビニコミックも電子コミックも昔は存在しなかったのであり、とにかく今は昔の名作は片っ端からコンビニコミック化・電子化されているから今の若い人は「昔の名作」を読む事に苦労しないが、その昔(と言っても90年代後半まで)はそうではないから漫画は「娯楽の最前線」として価値があり、皆が夢中になったのである。しかし今や漫画は文字通り吐いて捨てるほど、そしていついかなる時でも読めるものになり、スマホゲーム等に地位を譲る事になった…という話も残しておくべきかもしれない。

   

 近頃の出版屋なるものは五百を以て一版とせるに非ずや、甚しきは二百部を以て一版とし初版千部を刷るに奥付だけ五版に分ちて発行さるるものあり、滑稽なるは初版と五版が同時に発売さるる事なり