レファレンスと図書館 ある図書館司書の日記/大串夏身[皓星社]

レファレンスと図書館 ある図書館司書の日記

レファレンスと図書館 ある図書館司書の日記

  • 作者:大串 夏身
  • 発売日: 2019/11/21
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

  何度か書いたが高校生の頃は司書になりたかった。なぜかと言うと図書館でただ本の整理だけすればいいと思ったからで、そのために大学は司書課程のある大学を選び、実は俺は司書資格を有している。とは言え「ただ本の整理をすればいい」などというおいしい労働はない。図書館情報学等の教授達は「図書館は市民のための情報サービスセンター」「司書は、膨大なデータから即座に正確に取捨選択して利用者の要望に答える」「何よりもパソコン、コンピューター、ITのスキルと知識がなければならない」「利用者とは、努めて明るく社交的に接していかなければならない」、等、等と繰り返し繰り返し述べられた。俺はすっかりやる気をなくした。更に個人的な体験、夜間部なのに司書課程の単位を取るために昼間の講義に参加し、夜間部とは違うリア充的雰囲気を間近で見せられた事も重なって嫌になった。嫌にはなったが単位だけは取った。そして単位を取りさえすれば「司書課程を有する」証明書がもらえるというのも違和感があった。

 そうして今では図書館情報学で何を学んだかもすっかり忘れてしまっているが、そうは言っても現在区立図書館・市立図書館等で働く人達が図書館情報学を身につけた専門家とは思えない。先日もめったにない事であるが相談カウンターに行って、俺が「NDCの…」と言ったら指定管理者のおばはんは「NEC?これ(パソコンを指さして)は東芝です」と言った。やばいなと思いながら、

俺「オーストラリアのですね、歴史を書いた本をですね、探してまして」

おばはん「あー…えー…『オセアニア史』の中にありますね」

俺「あの、オセアニアの下に、あるわけでしょう、オーストラリアが」

おばはん「そうですね」

俺「いや、つまり、NDCの270の下に、271か272か」

おばはん「そのNDCと言われますのは…。ああ、分類記号の事ですか」

 一体どうなっているのだ、何のために俺は日本図書館協会の会費を払っていると思っているのだ。

 取り乱したが話は変わって本書である。東京都立中央図書館の相談係だった作者による日々のレファレンスの質問・回答の記録であり、利用者の質問と言ってもそのほとんどは曖昧な質問、自分で調べるのは面倒くさいから図書館に調べてもらう気満々な質問、そもそも何が聞きたいのかもよくわからない質問、などであり、それに対し数々のツール(図書目録、索引、名鑑、辞書・事典・辞典、新聞記事データベース、雑誌記事データベース、他)を駆使して対応する司書(作者)の努力は仕事とは言えなかなか辛いものがあるが、しかしこれぞ「市民のための情報サービスセンター」の仕事であり、失敗談も多く載せる事でこの仕事の幅の広さ、奥深さを体感する事ができよう。「書架番号や分類番号を案内してもメモを取らない人が結構いる。戻ってきて、なかったと苦情を言う人がいるとこちらが謝るほかないが、謝ったあとよく聞いてみると、聞き違いか、忘れたか、とんでもない書架や番号のところに行っている。メモは渡した方がよい」「所蔵していると聞いて、パッと電話を切ってしまい、息せき切ってやってきて書架を探したがない、調べてみると区市町村立図書館へ貸出中となっていた事がわかって、電話をかけた時は何も言わなかった、不親切だ、という人がいる」「忙しい時はつい簡単にすませてしまえと書名カードに走っていくが、意外と時間がかかる。急がば回れで、マニュアル通りに手順を踏んで処理した方がよい」等、等、図書館司書という仕事はただ黙々と本を整理する仕事ではなく、なかなかスリリングで刺激的だという事がよくわかる。

 また巻末の対談での「レファレンスというのは利用者さんとの関係だから。利用者さんが『うん、いいよ』と言ったらそれでおしまい」など図書館情報学的な教科書では語られない事だが、その通り次から次へと相談係の元に質問が来るのだから利用者が納得すればそれでいいのであり、また市民のサービスセンターではあるが有料相談所ではないのだからやはりそれでいいのである。そうして市民が自由に無料で情報を取捨選択する事によって様々な物事を判断する事ができるのが民主主義たる所以なのであり、図書館はそのための大事な機関なのである。それを意気消沈していたあの頃の俺が知ったならば、或いは本書をあの頃の俺が読んでいたら、今の俺は図書館司書は無理としても図書館関係の仕事へと進んでいたのかもしれない。