動乱の時代を取材して 「政治記者の目と耳」 第6集/政治記者OB会[非売品]

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 政治家になりたいと思った事はない。しかし政治評論家になりたいと思った事はある。そして今も政治界隈で働いてみたいという想いは漠然と残っている。例えば天下り団体の事務局とか、俺のような地方都市育ちの小役人タイプ、つまり気宇壮大な大きな仕事ができるわけではないが重箱の隅をつつくほどのこだわりもなく、争いを好まず場が丸く収まる事を第一とするため先送りとその場限りの方便を多用する人間にはぴったりのはずだ。

 それに比べて「政治記者」というのは敷居が高過ぎて、今も昔も意識した事がない。何せ「政治記者」などという職業はなく、新聞社に採用されて配属先が政治部になったから「政治記者」になるだけで、まず天下の大新聞社に自分が入れるわけがない。しかも苦労してその大新聞社に入ったところでサラリーマンなのだから辞令一つでいつ政治部を出されるかもわからないのであり、いくら政局好きとは言えそれはなあ、ちょうど「図書館司書」が職業ではなく、ただ市役所なり県庁なりに採用されてその配属先が図書館だったら図書館で働けるという構図と同じで、そんな幸運に恵まれた奴らの事なんぞ誰が認めるものか、そんな奴らの書いたものなんか読んでやるものか…。

 とは言え政治記者は特異な存在である。まず第一に彼らは仕事として政治家達に張り付いていなければならない。政治家(首相、大臣、与党の幹部、等)が何を考え、何をしようとしているのか。それらは政策となり日本国民に多かれ少なかれ影響を与える事になるのだから、その動向を常に監視し観察し、国民に伝えるのは新聞社の大事な役目である。また権力闘争についてもその状況を見極めなければならない。誰が権力を持っているのか。権力者でなくても言うだけなら誰にでもできる(ましてや政治家ともなれば耳障りのいい言葉が立て板に水の如く湧き出る)が、それらを実行に移す事ができるのは権力を持っている者だけである。そして首相や大臣が権力を持っているとは限らない。時には「闇将軍」なる者が権力を持って実現させてしまう事がある。誰が世の中を動かす力、つまり権力を持っているのか。そしてそれは今後も変わらないのか。今、一方の権力者ともう一方の権力者の熾烈な戦いが行われようとしているのではないか。それらを国民に伝える事も新聞社の大事な役目である…という事で政治記者達は大小様々な政治家を間近で見る事ができ、大小様々な事件に遭遇できるのである。ああうらやましい。三角大福中の戦いの渦中を目撃してみたい。或いは首相官邸での記者会見に出てみたい。

 また政治家も人間であるから、なぜか気が合う、ついつい長話ししてしまう、いつの間にか家に入れてしまう関係の新聞記者ができる事もある。もしくは懐にうまく飛び込んで信頼される新聞記者もいよう(例:読売新聞のナベツネ大野伴睦早坂茂三と田名角栄、伊藤昌哉と池田勇人、等)。そんな政治記者達の、政治家達とのエピソードはやはり面白い。うらやましい。俺も政治記者として政治界隈で働いてみたかった…が、夜討ち朝駆けだのマスゴミだの、色々と大変そうだしなあ、やっぱり平凡な名もないサラリーマンとして政局ウォッチしていくのが無難でしょうね。そしたらふらりと入った古本屋で本書のような非売品を手に入る事もありましょう。

  

竹下登について)「気配りの竹さん」もよく拝見した。改築前の竹下邸で、ある晩、玄関や台所の天井から、突然大量の水がバシャバシャと落ちてきた。何が起きたのかわからない。二階の風呂のお湯が溢れたのだ。秘書の手違いである。私は二回経験したが、二回目の時は、竹下夫妻と三人で話していた。バシャッときたら、すかさず「叱るなよ」。夫人も「わかってますよ」と応じて、三人で顔を見合わせながら音を聞いていた。

   

武村正義について、1993年7月18日の総選挙の翌日、東京へと向かう新幹線内で)二人席の窓側に武村、通路側に筆者が座った。新党さきがけの選挙後の政局対応に関する筆者の質問に、武村は車窓に流れる景色に目を向けながら呟いた。

自民党過半数割れしたと言っても、相対多数の第一党なんだから、自民抜きには考えられないのでは」

「小沢さんはあんまり好きなタイプじゃない。一緒にやりたくないなあ」

「僕らは野党になろうと思って、自民党を出たんだから…」

 ポツリポツリと話す武村の言葉からは、過半数割れしたとは言え、圧倒的な相対多数を占める自民党が中心となって連立政権を樹立する事への期待と、自民党幹事長時代から剛腕で鳴らした小沢を敬遠し、距離を置きたいとの心境が読み取れた。