民主主義のジャングル

人間は神様ではない。許されるならば、多少にかかわらず、他の人間を支配したい潜在的な欲望を持っているものだ。恥じる必要はない。権力を持てば、地位と名誉、それにカネと女を手に入れることができる。だから自己顕示欲と野心に溢れた人間は、権力を求めて知恵をしぼり、寝食を忘れて行動し、前に立ちはだかる敵と戦う。理不尽な暴力や奸智に訴えることもあり、言論や説得の技術を駆使する場合もある。人間の歴史の半面は、権力闘争の軌跡だ。(早坂茂三「権力の司祭たち」)

      
 さて政治の醍醐味とは何であろう。もちろん選挙権を行使することによってこの日本という船を荒波の真っ只中に放ちそれを暴力的なまでに押さえつけることにあるのだが、実は俺が政治に興味を持ったのはそういうことによるものではなく、では何かと言えばお恥ずかしい話だが政治家たちによるすさまじいまでの権力抗争によるものなのである。権力を求めてさまよう人間の顔をした妖怪たちの執念と怨念のドラマが面白くてしょうがなかったのだ。そう言うとまたマスコミ及び諸君は「そんなことよりも国民のための政治を具体的に建設的に考えろ。権力抗争に明け暮れている暇はない」とお決まりの文句を返すに決まっているが、政治家とて国民の一員であり当然国民のことを考えている。しかしそれと共に権力を求める。金を蓄え、地位を築き、名誉を喰らい、成功を我が物にするための権力。黒を白にしてしまうその権力をつかむ一番近い手段は何といっても国権の最高機関たる国会議員になることだ。欲望渦巻く永田町霞ヶ関東京江戸城
 国会議員になれば既に相当の金と名誉が手に入る。首相や大臣でなくとも副大臣政務官にさえなれば相当の金と金になる情報そして女を手に入れることができる。全ては「国会議員」という肩書を得てこそだ。人間はこれらの欲望を求めてさまよい続ける。それをまたしても「国民の云々」と言うことは簡単だが、諸君は政治家もまた人間であることをお忘れだ。もしボランティアや社会貢献のために全財産を使い果たした者がいたら我々はどうするか。別に何も思わずそれどころか「阿呆な奴だ。ボランティアなんかに金を使って」の一言で片付けるであろう。ボランティアや社会貢献で食うことはできない。政治家もまた、金になるかどうかわからない絵空事の「国民のための政治活動」に自らの財産やパワーを散財するわけにはいかないのである。やはり行き着く先は飽くなき権力抗争であり求めるものは金・名誉・地位・女・成功その他快楽の代名詞群である。そのような人間が衆参両院合わせて700名以上それに48都道府県の知事及び県議さらには市長市議さらにさらに官僚経済界産業界言論界労働界若人と魑魅魍魎が跋扈し我が日本の夜の扉は突如として開く。
 特に俺が愛してやまないのは中選挙区制時代の1970年代以降であって、三角大福中が安竹宮金竹小である。何のことだかわからんな。まあわかる人にはわかるのだがわからない人には後で教えます。とにかくこの時代の派閥抗争、権力抗争のすごさといったら本当に日本かねと思うほどで、つまりポスト金地位名誉その他を求めて熾烈な修羅場と戦場がそこかしこに展開されていたのである。時は運良く冷戦時代であり外交経済その他世界の仕組み枠組みの基本的な事柄は米ソ両陣営にまかせ、自民党の極めて私的な紅白合戦により日本の首相が決められるという制度はまさに斬った張ったの場外乱闘頭脳戦、選挙制度や議会法、自民党規則から暗黙の不文律まで総動員しての権力争奪戦が日本中を覆い俺などはこれぞ男の浪漫花の華の夢の跡と感涙したものである。
 しかし何よりも感動したのは、その「権力抗争」なる激烈な文字と実際の権力抗争の静けさであって、権力を握るための戦いといったところで所詮は選挙に勝つためのノウハウだとか霞ヶ関・野党とのパイプだとか政治資金やポストの配分だとか政策実行のための人的ネットワークだとかいうものに過ぎない。闇社会のマフィアから手に入れた鉄砲大砲小型ミサイルを積み込んで本能寺を攻めるわけではないのだ。そのような「静かな権力抗争」などという権力抗争なら我々にだってできそうなものであり、事実この社会に生きている限りは必ず人脈が生まれ人の縁が金の縁となり思わぬ出会いが一生を左右し貧しい家で育ち爪で火を灯す生活を送った者でも大企業の経営者になることができる。大企業の経営者なら政治資金という合法的な手段を使って政治家を屈服させることもできよう。それもまた権力の一形態である。つまり現代の権力抗争そして日本社会での権力抗争には全国民が参加可能なのである。誰もが努力すれば東大にも財務省にも入ることができるそして選挙に立候補し当選し国会議員になることができるこの日本国ではあらゆる場所が戦場なのだ。実は表面上の静けさの薄皮一枚下には1億を超える欲望が渦を巻き俺の欲望といえばさしずめ「ラブコメを一般大衆に広く啓蒙する、そしてラブコメ以外の作品を抹殺する。特にあの鬼畜凌辱ホモレズの息の根を止める」ということになろうか。しかし欲望こそが人類をここまで進歩させてきたのだ。宗教が人民を支配する時代が終わり産業革命と合理的科学主義そして資本主義が出現してはじめて世界は現代世界へと脱皮を遂げたのだ。おお勝てば官軍負ければ賊軍太陽を西から重力を上からアメリカをその手に月の満ちることはなし。
 で、俺は何が言いたいか。要するに権力や欲望を否定したりそれを望まないなどということは無理であり、もし権力への執着を持たず自身の欲望を叶えようとも思わず全てを賭けて国民のための政治をする者がいるとすれば、その時日本の政治は破滅するだろうと言いたいのである。大体国民のために何かをするとは何か。よくマスコミ及び諸君が言うあの「非難合戦よりも具体的な政策協議を」というやつのことであろうが、では「具体的な協議」というのは何を言うのかね。もし本当に非難合戦をせず具体的な協議をするのが一番だとすれば選挙はいらないということになるはずだ。つまり与党と野党が対立するのではなく協調するとすれば、一体何のために選挙をしたのかということになるのである。選挙とは政権を選ぶための唯一の権限であり、最高にして最終の国民の判断である。にもかかわらず過半数を得た政党と少数の政党が「国民のための具体的な政策協議」のために仲良くしてしまえば、政権の意味そのものがなくなってしまうではないか。ある政党とある政党がいがみ合い対決し議論を白熱させその結果として勝った(過半数を獲得した)政党と負けた政党(少数政党)が厳然と区別されることによってのみ民主主義議会は正常に機能するのであって、政党が協議し総与党体制を敷くのが許されるのは第二次大戦下のイギリスのような、他国との戦争が激しさを増しもはや国家の存亡が危うくなった時ぐらいである。そのイギリスでさえ戦争が終わればすぐに選挙を実施し労働党が与党となり保守党は下野したではないか。何と、イギリス国民は第二次大戦を勝利に導いた英雄・チャーチル首相を即座に切り捨てたのである。
 政治家が自身の権力や欲望を叶えるために最も効果的にして正攻法の方法は、自身の所属する政党が政権与党になることである。特に議員内閣制を採用する我が国ではそうだ。しかし欲望をかなえる権力資源は限られている。権力資源たる閣僚ポストも党執行部ポストも資金も有限だ。だからこそ政党は一党で政権を構成する。その一党の中でさえ隙あれば権力の果実をより多く一人で喰おうとする者が出現するのでありポスト奪い合いの熾烈な戦いがはじまるのであって、他党にまで閣僚や資金などの甘い汁をやるわけにはいかないのである。そのようにして政権を争う政党集団であるが、その政権を決める方法というのが何と我々一般国民の選挙なのである。おお何という浪漫。だからこそ政党は我々国民及び俺のような糞みたいな存在にもペコペコと頭を下げそして土下座までするのである。これ全て権力のため。それがもし選挙の結果少数党であっても「国民のための具体的な政策協議」として総与党体制に入ればたちまち権力と欲望のための甘い汁を啜ることができ、もはや政治家たちは我々に頭を下げずそれどころかふんぞりかえって我々を見下すであろう。つまり具体的な協議と称して野党がいなくなればそれは選挙の意味が失われ民主主義の自滅となり民主主義者である俺がそれを見過ごすわけにはいかんのだ。政党内での党内抗争(中選挙区制時代の自民党派閥合戦)はなくなっても構わないが(絶対になくならないであろうが)、政党同士では大いに権力抗争や政争をするべきでありそうしてこそ民主主義は機能するのである。2月15日の日記にも書いたが、民主主義はかように厳しく厄介な制度なのだ。しかし俺は民主主義を選ぶのであり諸君もそうであろう。日本人には民主主義政治への覚悟がなさすぎる。