大学史紀要 第14号 三木武夫研究 1[学校法人明治大学]


 さて「政局好色」その他を熱心に読んでこられた皆さんにはご存知の通り、三木武夫というのは一筋縄ではいかない政治家であります。自民党の本流であった「吉田学校」の生徒ではなく、かと言って反吉田の鳩山や岸の系譜に連なるわけでもなく、では何かと言うと「傍流」であって、三木は保守合同自民党に合流するまで様々な政党を遊泳してきた(協同民主党国民協同党→国民民主党→改進党→日本民主党自民党)。にもかかわらず党幹部や大臣を歴任して「陽の当たる道」を歩んできたことから「バルカン政治家」と呼ばれた。少数を率いながら絶えずキャスティング・ボートを握れるよう権謀術数の限りを尽くし、その手腕はあの田中角栄が「政治のプロは、俺と三木しかいない」と言うほど確かなものだった。
 という風に政局評論家らしく無責任に煽っても俺の方は一向に構わないが、本書は明治大学が発行した真面目な学術論文集であるから日本政治に何らかの影響を与えたのは確実な三木武夫について真面目に書かれたものであり、どうしてそんなものをお前が持っているのかと言うと西部古書会館の古本市で売ってあったから買ったのだが、それはともかく一人の政治家について研究するというのは大変なもので、その政治家が持っている様々な側面、つまり「一私人」「一政治家」「派閥の領袖」「閣僚」「党幹部」「首相」等をどう整理するのか、また政治の結果としての政策(或いはもっと広い「事象」)をどの段階で評価するのか(アイデア段階か、実現段階か)、期間をどう区切るのか(政治家としての期間か、大臣・首相としての期間か、全生涯か)と複雑な軸を整理していかなければならない。そのため大昔に政治学者の道をあきらめた俺はやはり無責任に書くことにしよう。
 三木が「明治大学出身者らしく」、リベラルだったかどうかは不明だが、敗戦後の日本を立て直すにあたって三木は戦後保守政治の本流であった吉田学校流「軽武装・経済重点主義」の道を取らず、とは言え反吉田である鳩山や岸の「国家主義的な政治大国・軍事大国」への道も取らなかった。では何かというと「協同精神」であって、これは「階級闘争でも現状維持でもない」「相互の人格と立場を尊重しつつ協同する」第三の道、つまり中道路線であった。そして1947年に国民協同党を結成し書記長となった三木は社会党と連立を組んで片山内閣に逓信大臣として入閣、続く芦田内閣でも連立政権を支えて中道勢力による「協同精神」の政権を試みたが、続く吉田内閣において中道勢力は力を失うことになる。その吉田内閣発足から2ヵ月後に、国民協同党代表として三木が行った衆議院代表質問、三木の中道政権・協同主義への考えがよくわかる。
「吉田首相は、時に、政党は自由党共産党とあればよいとの放言をしておられるが、もちろん座興の言として聞き逃しはするが、もし仮に、かかる意識が潜在的にあるとすれば、これは議会政治を守らんとする理想では断じてないと思います。(拍手)敗戦のどん底から、国民の血と汗で祖国を再建せなければならぬ日本として、国民を保守戦線と人民戦線の二大陣営に分裂せしめて、あたかも国内戦争のごとき熾烈なる闘争の上に、日本の復興が果たして可能でありましょうか。断じて我々はさようには信じない」
「我々は、階級の存在を否定するものではなく、ただ階級と階級に対等の立場を保障しつつも、強権によらず、暴力と独裁によらず、企業と労働の二大階級の協同が成立せねばならぬと主張するのであります。(拍手)このためには、資本家も、労働者も、地主も、小作人も、絶対的階級至上主義ないしは階級的利己主義はこれを捨てなければならない。階級を超えて、民族共通の基盤と協同の理想を認めることなくして、祖国の復興は成就できるものではありません」
「白か黒かと、単純に一方的に物事を決めたがる日本人的趣味から言えば、この道は苦難の道であるに相違ない。しかし、政治の本質が国民の興味につながるものではなく、日本の復興につながるものとすれば、民族的自立のためにこの政治理想を生かし、この政治勢力を結集しなければならぬと私は思います」
 三木といえばすぐに「クリーン三木」、つまり金まみれの自民党政治家にあって金に清潔だったと言われ、にもかかかわらず金まみれの政治家との取引や妥協によって自らの地位を固めていったために現在ではほとんど評価されないが、この中道政党としての演説はなかなか読ませるものがある。三木は基本的には理想主義者であった。しかし政治家である以上は理想を実現するため権力を求めるのは当然であり、権力を得るために妥協や策略を弄することも当然で、そのことについて三木は「理想を持つバルカン政治家だ」と誇らしげだったという。ただし三木自身が言うように日本人は「白か黒か」、この場合では「理想主義か現実主義か」と決めたがるので今後も評価はされないだろう。
 とは言えその三木が実際に権力を持った(首相になった)時はどうだったのかというとほとんど何もしていないか、余計なことしかしていないのも確かであって、在任中の功績として政治資金法改正、自民党総裁選規則の改正、防衛費のGNP1%枠設定等が挙げられるが、特に防衛費をGNPの1%枠にしたことは現在からすると全く意味がわからない。このため三木は「党内野党、党内反主流派としては優秀だったが、首相としては大したことはなかった」と言われ、本書においてもその事について特に反論はされていない。「議会の子」と言われているが、田中角栄のように議員立法を成立させてきたわけではなく、政策には疎かった(ただし本書で「政策に疎かった」とは書かれていないので、これは俺の私見である)。そもそも三木は大学卒業後すぐに立候補して衆議院議員となったのであり、官僚としての経験も社会人としての経験もなかった。30歳で当選してから51年間、「衆議院議員」が三木の唯一の職業だったのであるが、だからと言ってひ弱な人間に育ったわけではない。政治一本で生きていかざるを得なかった三木には、同時期に活躍した田中・福田・大平・中曽根にはない凄さがあった。このあたりを研究すればもっと面白い事実がわかるかもしれず、政治学の世界で更に突っ込んだ「三木武夫研究」が行われることを俺は期待している。
  
 三木という人は政治家としては政権を取るまでに、小派閥、小会派で大変な苦労をした人だから、政治手法は独裁というスタイルとはほど遠いものだった。自分の意見と違う相手は徹底的に時間をかけて説得しようとした。総裁の名において意見を押しつけるということは全くなかった。(中略)私と中曽根君が三木さんに口説かれると、残るのは灘尾さんだ。灘尾さんは例によって背筋をシャンと伸ばした硬骨漢だから、二人が口説かれてしまっても「それはよくない」と頑張る。すると今度は三木さんが灘尾さんの膝を叩きながら、「灘尾君、そういうものじゃないよ。今や時勢はね…」と40分でも一時間でも口説く。落ちるまでやめない。最後は灘尾さんも骨を抜かれ口説かれ、「あのねばっこいのにはまいるよなー、わかったというまで離さないんだもの」と三人が肩を並べて公邸の玄関を出ることになるわけだ。(松野頼三
    
 (「三木おろし」が始まって、福田・大平が三木と面会した時)それは三木さんにはものすごい迫力がありました。百戦錬磨ですから、官僚出では、ウワバミのような三木さんにはかなわない。『何回会っても同じだよ』とニヤニヤ笑って見ていました。(中曽根康弘
     
 私と田中(角栄)さんが先に行って待っているところへ、親友の毛利松平さんの案内で三木さんがやってきた。部屋に入るなり、「日中問題をあんたはやるか」と言う。立ったままだ。田中さんは「まあまあ」と座るように勧めたが、三木さんは「まあまあ、じゃない。それを聞かなければ俺は座れない。ここには命をかけて来ているんだ」と睨み付ける。(金丸信