愚鈍の礼賛

 俺が就職活動と入退院と図書館にひきこもっている間にまあよくもこれだけ変わったものだ。一昔前などまるで罪人のようにして本屋やアニメショップやパソコンショップに行き絶えず下を向いて買い物をしなければならなかったのに昨今と来たらオタク秋葉原エロゲーコミケ童貞電車ロリでアニメ製作に補助金まで出る始末だ。これは非常に喜ばしいことであって、俺もこれからは大手を振って「ふたりエッチ」だの「天地無用!」だのといったラブコメを買うことができる。後は金の問題をクリアするのみだ。ああ。
 しかしまあ、こんな事を言うのも何だが、どうもよくわからん本やゲームも増えましたな。別にそれはそれでいいんだが、しかし俺にとっては明らかに駄作と思われる本やゲームばかり店頭に並べられても困るわけで、しかも俺の生命線とも言える「ラブコメ」諸作品は減少の一途を辿るばかりのように思われるのである。たまに「ラブコメ」の文字を見つけたかと思えばそれは大抵ホモかレズでありそんなものをラブコメと言ってどうするのだえっ皆さんそれも立派なラブコメと仰るのですか。はあはあ。それはどうも失礼しましたしかし俺には俺の考えがありますのでそんなものをラブコメと認めるわけにはいきませんのでいやどうも失礼します。
 俺には買う自由と共に買わない自由がある。言及する自由と共に無視する自由がある。であるからそれらの「俺が望む方向性と方向性が違う本やゲームやその他」は買わずに無視すればよいのである。で、俺の好むラブコメだか政治だかその他のまあ色んな事を書いていけばこのはらわたが煮えくり返るような激怒もやわらぐのではないかな。特にどんな作品が嫌いかというのは特にここに書くわけにはいかんが特に「マリアさんがみてる」であり特に不可解なのはそれを読んで喜んでいる同志のことである。あんなものただのレズだろうが。
 で、最近は「やるドラ」に凝っている。これは画面がフルアニメーションで動き、その中で主人公(=プレイヤー)が様々な事件に巻き込まれていくというゲームであるが、どうもこのゲームの内容というのが完全に俺の好みにピッタリなラブコメなのである。「主人公=プレイヤー」となれば恋愛の要素は不可欠なのだろうが、このピタリさは異常だ。「ダブルキャスト」「季節を抱きしめて」「サンパギータ」の三作品のどれもが「平凡な青年がひょんなことから女と知り合いになり、その女と…」というパターンを律儀に律儀に守っているからだ。そりゃ売れんのも当たり前だ。しかし俺にとっては爆発的なヒットであり、もう三年以上繰り返しプレイしているが全く飽きない。



 ギャルゲーにしろまたエロゲーにしろ大体主人公(つまりプレイヤーに用意されている人物)は人間味がないくらいの「いい人」もしくは「正義感の強い人」であり、その度に俺などは辟易してしまうのだが「やるドラ」に関してはそのあたりも完全にクリアしている。つまりいきなり出会ってしまった「記憶喪失の女」に対し(三作品全てヒロインは記憶喪失である)積極的に助けるわけでもなく見捨てるわけでもなくいわば「成り行きにまかせていたら」人間関係上の接点ができてしまうように仕向けられているのである。そのテクニックたるや実に見事なもので何度プレイしていても惚れ惚れしてしまう。他にも特典としては平凡で何のとりえもない主人公=プレイヤーに(1)気の強く押しの強い「押しかけ彼女」(声は三石琴乃)がやってくる、(2)フィリピン系の謎の女が(声は林原めぐみ)これまた記憶喪失でやってきて家に住み着く、(3)姉御肌の女(声は水谷優子)から「かわいい後輩」と呼ばれる、(4)近所の水商売の女に腕を組んでもらえる、等がある。素晴らしいではないか。それが何とエロゲーのような紙芝居とは違い画面がフルアニメーションで進行するのであり、ということはプレイヤーたる俺の選択に対して応える二次元キャラの反応もフルアニメーションなのだ。まるで俺もそのアニメの世界に入っているような錯覚のこの居心地の良さ。我が「オールナイトラブコメパーカー」史上の傑作である。
 ところでもう一つのやるドラ作品である「雪割りの花」だが、どの中古ファミコン屋に行ってもない。あったとしても1000円以上も出して買う気はせんのだが、にしても何であんなわけのわからん本ばかりあるのだ本当に。