本で床は抜けるのか/西牟田靖[本の雑誌社]

 本で床は抜けるのか。床が抜けたら住めなくなるのだから大変だ。自分の持ち家なら自分の責任で修理すればいいが、アパートやマンションに住んでいて、床が抜けたら自分だけの問題ではすまないぞ。そうだそうなのだ、本を買う読む事は素晴らしい事だが、その後どうするのだ。「古本屋に売ればいい」「図書館等に寄付すればいい」「捨てればいい」「電子化すればいい」、それはそうだろう、しかし本の置き場所に困るほどの本好きなのだからずっと手元に置いておきたいのだ。しかし床が抜けたら大変だ。ああそうか、アパートでもマンションでも1階に住めばいいのだ。そんな都合よく1階の物件が見つかるか、家賃や生活環境や同居家族の問題もある…。

 というわけで作者は床抜け危機に悩み、しかし作家の性でどこか楽しんで、いや楽しんでいる場合ではない何とかしないと…と焦りながら連載を始めるわけだが、「本で床は抜けるのか」の問いに対しては「積載数量の限界値は木造建築が1㎡あたり180キロ、一般のRC(鉄筋コンクリート造り)住宅が1㎡あたり300キロ」という答えが出ているのでそれを基準に注意して本を置いていけばいいだけである。問題は増え続ける本の置き場所、管理方法、そしてコストを最小に抑えるためのどうすればいいかという事であって、作者は蔵書をまとめて処分した人を皮切りに、遺族の本の始末に困っている人、蔵書を電子化した人、私設図書館を作った人、自宅を大改造した人、遺族が残した蔵書や書庫を守ろうとする人・面倒だと思っている人を取材し、それぞれの一長一短を噛みしめ、「本と人」の悲喜劇を味わうのであった。

 しかし本書のすごいところ、というか何と言ったらいいか、怒涛の展開というか赤裸々過ぎて恐ろしいのが後半であって、本作を連載中の作者は作品の制作が捗らず年間収入が百万円も満たないほど収入が落ち込み、それでもすぐにお金になる仕事やバイトはせず取材や執筆に没頭、或いは本を買い増し、結果的に家計は作者の妻が担う事となった。そのため作者は娘の保育園への送り迎えや昼ご飯の弁当作りなどの家事を行うが、「(妻に)申し訳ないと思いつつも、根本的に不平等さを解消しようという努力は、忙しさにかまけて、していなかった」。それでも家族関係は悪くない、娘とはいつも心を通わせていたし、そもそも妻とは自分の読者だった事がきっかけで結婚へと至ったのである。作品作りを優先させる生活態度を理解してくれている。しかし妻はこう言った。

「お弁当は時々作ってくれるけど、子供を寝かしつけるのは私に任せっ放し。朝は起きてこないし。家計にしても私任せ。『払えない』ですませて、自分の家計負担を勝手に制限しないで。収入がないならコンビニでバイトでもすればいいじゃない。夜通しの子供の看病とか、私の体調が悪い時、身体を休める時間が欲しいと言っても、『今は駄目』とか言われて、こっちの身体も心も持たないよ」

「それから、たくさんある本、どうにかならないの?日の光が入らないから、部屋が死んでいるじゃない。すぐにでも本を動かしてよ。実家かトランクルームに移動させたらどうなの?新しい物件を借りるというのは考えないでね。敷金や礼金を払う余裕があるなら、その分を家に入れて」

 愛しあって結婚したのだから、別れるなんてとんでもない話だと思っていた。娘だって懐いている…とは言え夫婦の形、家族の形は千差万別である。別れる別れないの本当のところは所詮当事者でなければわからないし、他人(読者)が詮索しても仕方がない。やがて離婚が訪れ、妻は娘を連れて家を出ていった。「妻の気持ちを顧みず、本をためまくった自分勝手さ」が身にこたえる。「本で床は抜けるのか」と言えば抜けなかった、しかし作者は妻子と別れ、再びの一人暮らしの新居で本を処分し、必要な本は電子化する事になった。床が抜ける危機に怯えることはなくなり、再起を図るのである。ああ、本は人生なのだ。

徹底図解 大奥/榎本秋[新星出版社]

徹底図解 大奥

徹底図解 大奥

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 はて聞いた事のない出版社であるが…まあ内容が良ければ問題ないだろう、大奥と言えば江戸時代のいわゆるハーレムであり、そのハーレムの美人達の絵が所狭しと描かれているし退屈する事はあるまい…という事でどこかの古本祭りで買って、読んで、退屈する事はなかったが文章に工夫というか読む者を盛り上げる姿勢が感じられないので読後は不完全燃焼であった。俺のような、年100冊以上読むまあまあな読書家ならばまあまあ退屈する事なく読めるだろうが、普段本を読まない人間が本書を読むと無味乾燥な印象を与え退屈させてしまうのではないかな。

 本書では江戸の大奥を鮮やかに生きた美女たちの絵がたんまりと盛り込まれ、目を奪われる事は奪われるが、一方でその美女たちの説明文はどこかの本を書き写したような冗長さで、どうにも頭に入ってこない。しかも「徹底図解・大奥!」と言いながら後半は吉原遊郭や当時の庶民の女性達の事を書いていて、これはこれで重宝するが、どうせならタイトルも「江戸の女性達~大奥から庶民まで~」という風にすればよかったのでは。まあ発売当時(2008年)は大奥を舞台にした大河ドラマが放送されていたのでそれにあやかろうとして、大奥!(ババーン!)としたかったのだろう。やれやれ、どの業界も大変ですなあ。大奥!

    

・将軍と過ごす夜

 将軍は大奥に泊まる時は、相手が御台所(正室)でも側室でも前もって届け出をする。自由にハーレムを楽しめたわけではない。

 夜、大奥に入った将軍は御台所(正室)と話し、酒を飲み、午後十時(亥の刻)に床入りする。しかしその時すぐ隣の部屋では御年寄(大奥のあらゆる事を取り仕切る最高権力者、女性版の老中)と御中靄(将軍・御台所の身辺を世話する者)が控えて一部始終を聞くのがしきたり。

 側室の場合はもっと複雑で、隣の部屋で御年寄と御中靄が控えているばかりか、もう一人の御中靄と御伽坊主(将軍の雑用係、頭髪を剃って坊主になった五十歳前後の女性)が将軍と側室を挟んで添い寝をした。

   

・幕府による吉原遊郭の認可

 江戸幕府開設によって江戸は急激に人口が増加するも、男女比のバランスは圧倒的に男性が多く、独身男性達の性的欲求を満たす遊女の需要が急増。江戸の各地に遊女屋が散在し、治安と風紀の点から好ましくないとする幕府側に対し、商機と見た遊女屋主人が「遊郭」(遊女屋を集中させ、堀や塀と外界を遮断した空間)の設立を提案。

 申請にあたって遊女屋主人側が申告した条件は、

①客を泊めるのは一晩だけ、連泊はさせない。

②騙されて身売りされた娘は、調査して親元へ戻す。

③犯罪者はかくまわない。

 対して、幕府は追加で以下の条件を提示。これを遊女屋主人側が受け入れた。

①江戸市中には吉原以外に一切遊女屋は置かない。

②遊女の市中への派遣もしない。

③遊女の着るものは華美にしない。

④遊女屋の建物も華美にしない。

⑤営業は日中に限る。

   

武家の女性に求められた四つの徳

①婦徳…貞節を守り、善徳を積み、夫に仕えること

②婦言…言葉少なく、大きな声を出さず、身分を守ること

③婦容…化粧や衣服に驕ることなく、慎みを保つこと

④婦行…裁縫、料理、洗濯などの家事百般をこなすこと

官房長官 側近の政治学/星浩[朝日新聞出版:朝日選書]

 さて政治プレイヤーは多くいる。もちろんその頂点は内閣総理大臣(=与党党首、ほとんどの場合自民党総裁)であるが、首相一人だけで政治はできないのだから、実際の政治においては政治プレイヤー間で力関係が発生する。財務大臣外務大臣、或いは与党幹事長(ほとんどの場合自民党幹事長)等がある政策、ある政局をめぐって激しく対立する場合もあろう。もちろん首相には罷免権があるので意に沿わなければ更迭すればいいが、何回も更迭すれば首相の見識自体が問われる事になり、また閣内対立・党内対立に発展すればいよいよ好ましくない。

 そこで官房長官の出番となる。首相官邸内閣官房)という権力の中枢において、権力の頂点にある首相の元で働く事を許された(内閣法第13条「内閣官房長官は、内閣官房の事務を統括する」)官房長官もまた権力の頂点に極めて近いため、あらゆる政治的な問題に介入し、調整し、解決する権限を有している。また任命者である首相は自分に代わって「あらゆる政治的問題を解決する」事を期待して有力な政治家・有望な政治家を官房長官として指名するのであり、結果として官房長官はいつの時代も多士済々にして千差万別、日本の政治家達を凝縮したような個性と魅力溢れる人物が務める事になろう。本書は政治記者としてそのような官房長官を間近で見てきた作者によるエピソードを混ぜつつ、官房長官について平易にわかりやすく解説したものであり、ページ数も少ない事もありあっという間に読んでしまった。

 もちろん全ての官房長官が優秀且つ人間的な魅力に溢れていたというわけではない。役人の書いた原稿を読むだけ、或いは首相や幹事長の言うことを聞くだけ、といった官房長官もいたわけだが、では何が官房長官として優秀かそうでないかを決めたかと言えば「首相との関係、距離感」であって、「子分型」「友達型」のように、首相の子分・友達(盟友)気分が抜けなければ首相の意向や好みに重きを置いてしまい、行政府の長である首相が間違った方向に行こうとしている、或いは世論と乖離した行動を起こした時に決然と助言、進言、苦言する事ができず、また首相も子分・友達(盟友)である官房長官には厳しく注意する事ができないため、官房長官が間違った方向に行こうとしている時も同様の問題が起こり得る。一方で「兄貴分型」は後藤田正晴(首相:中曽根康弘)、福田康夫(首相:小泉純一郎)、野中広務(首相:小渕恵三)、梶山静六(首相:橋本龍太郎)、といった優秀且つ人間的魅力に溢れた面白い政治家揃いである。「あらゆる政治的な問題に介入し、調整し、解決する」意欲を持ち、政府・与党・世論全体の状況を冷静に分析し時には首相に苦言を呈する事も躊躇せず、また首相もそのような官房長官に全幅の信頼をもって任務を与える事で政権自体が生き生きとして盤石となるのである。

 「リーダーの優劣は部下の働きぶりを見ればわかる」とはよくいったもので、所詮トップ一人がいたところで何もできない、しかしトップには権力が集中しており、何でも命令できる。その矛盾をうまく交通整理してくれる部下がおり、その部下が誇りを持ってその仕事に邁進できていればその組織は安泰なのである。

   

 当時の防衛政務次官が週刊誌で「日本も核武装すべし」と発言。週刊誌のゲラを入手した官房長官青木幹雄は、直ちに防衛政務次官の更迭を決断。記者団にも発表した。

 翌日、私(作者)は青木に「防衛政務次官の更迭は小渕首相も了解しているのか」と尋ねた。青木の答えは、

「首相にそんな細かい事は相談せんわね。首相の気持ちは聞かなくても分かっているから、私が決めた」

 例によって、淡々とした出雲弁だった。つまり、首相とはツーカーの間柄なので、いちいち相談しなくても、結論は分かっているというわけだ。

 

 ある官房長官経験者は、「内調(内閣情報調査室)が上げてくる情報の中で一番興味深かったのは、与野党の政治家がオフレコと称して語った話のメモだ。マスコミから漏れてくるものが多いそうだ。あれを読むと、本当に政治家は人の悪口が好きなのだなと思うよ」と語っていた。

 

 橋本首相は、梶山静六官房長官を起用した理由をこう語った。

「私の持っていないものをたくさん持っていらっしゃるし、今までも厳しいお小言を頂いた。こんな立場になると、率直にものを言ってくれる人が少なくなる。私が間違った時に遠慮なく言ってくれる人が身近に欲しいと思った。これからも率直にものを言って頂きたい」

   

 菅義偉官房長官へのインタビュー

「(長く官房長官をやっていると、半分勘違いで自分にも総理ができるんじゃないかと野心を持つ人も出てきますが・・・)勘違いもわかる気がしますね。長くやっていると、役所がみんな官房長官のもとに来るようになりますので、勘違いする人も出てくるでしょう。でも、そこはきちんとわきまえてやらないと駄目です。また官房長官は総理に代わって言っているのだから、呼吸が合わないと大変でしょう。疲れてしまうと思いますね」

かくして政治はよみがえった 英国議会・政治腐敗防止の軌跡/犬童一男・河合秀和・高坂正堯・NHK取材班[日本放送出版協会]

 NHK的切り口というものがあって、前半に問題・現実の実態や断面を見せて原因に迫るところまでは迫力があるのに、後半の解決の提言になるとにわかに現実離れするというかトーンダウンするというか、結局は教科書的な物言いに終わる…というのがNHK的切り口で、本書もそんな風に終わるのだろう、何せNHK取材班だからなと期待せずに読んだがそうでもなかった。本書は1989年7月9日(参議院選挙公示後、投票日は7月23日)に放送されたNHKスペシャルの取材をもとに書かれたものだが、1時間という短い時間では省略されたであろう、問題の背景や経過やその後日談、また政治学者達によるバランスの取れた論考もあり、意外な良書であった。この4年後、日本では「政治改革」が熱病のように日本人を覆い、本当に政治改革を目指す者(小沢一郎羽田孜等)、政治改革に断固として反対するもの(野中広務亀井静香森喜朗等)、時勢に乗ったお調子者(細川護熙武村正義等)が乱舞する世にも恐ろしく面白い事が実際の政治に起こったのであるが、それに比べれば百年前(1883年)にイギリスで行われた政治改革は地味であまり面白味がなく、はっきり言えばほとんど参考にならなかった。「政治改革への抵抗はあったが、何とか成立した」「激しい議論の上に、成立した」としか書かれておらず、その裏にどんな妥協、恫喝、買収があったのかを調べていないからで、まだ日本の政治改革の方が、

①連立与党内の社会党造反による不成立

②細川首相と河野・自民党総裁による会談で急転直下の成立

 となり、その裏の連立与党側(細川・小沢)と自民党側(河野・森)の攻防が面白いのだが、それはそれとして、政治改革が行われた後もイギリスでは腐敗は絶えず、マルコーニスキャンダル(イギリス版リクルート事件)やポウルソン事件などが起き、その度に新しい腐敗防止のための法律が制定されるが、時代が変わり人々の常識やビジネスが変わればまた新たな腐敗が起こるだろう、それが民主主義というものだ、「民主主義は非常に悪い政治体制である、しかし、それよりマシな政治体制はまだない」のだから、と強調するでもなく淡々と述べているのが本書を良書たらしめよう。

 またイギリスが現在のような、日本からすれば極めて近代的で合理的で効率的な選挙運営を行うようになる(「イギリス人は疑いの目をもって日本を見るのに対し、日本人のイギリスを見る目は大変に好意的である」)には長い時間がかかった事も丁寧に解説がされている。かつては都市の有権者を手なずけるには買収が一にも二にも必要で(農村の有権者は地主有力者に対して従順であった)、選挙の日には有権者は立候補者にビールや肉の供応を求めていたが(「イギリス人は選挙の日だけが自由で、それ以外の時は奴隷になる」)、政党組織が充実するに従って選挙はロンドン中央本部-各選挙区の選挙事務所、党首-各選挙区の候補者による党営選挙が一般的になり、「地方のお偉方がちまちまと買収して票を集めるやり方」は非効率で、むしろ買収のプロの一部は政党の活動家となって「お互いに相手党の腐敗を監視する」となるのであり、欧米的な合理主義精神、「密猟者が森番になる」(日本風に言えば「泥棒が刑事になる」)もあり得る事が腐敗防止に役立つところなど非常に面白い。日本の政治改革が単なる選挙制度改革(中選挙区制から小選挙区制)に終わって約30年、結局は自民党という、欧米人からは理解できない「野党の政策でも何でも呑みこむ」「対立よりも妥協と先送りを繰り返す」政党と政治風土が続いていく中で、本書を繰り返し読み直していきたい。

   

 ある候補者が、教会の牧師に「票を売る事は倫理に反するという事を有権者に説教して下さい」と頼んだ。

 その牧師は、「票を売ったりして、政治を腐敗させるような人は、地獄に落ちますぞ」と言ってしまった。

 翌日、候補者は有権者の一人に、「どうでした、昨日の説教は。あれだけ言ってもらえば、だいぶ有権者の反応も違ってきたでしょう」と言うと、その人は、

「まったくその通りです。たちまち相場が上がりました。今までは、1票20ポンドでしたが、地獄に落ちるという牧師さんの説教を聞いてからは、地獄に落ちるのと引き換えなら40ポンドはもらわないと合わないと皆さん言っています」。

特別企画・10年の100冊 2012年~2022年

 突然ですがこのブログはこの世に生を受けた俺が生を受けさせて17年になります。2005年(平成17年)、当時22歳だった俺、兵庫県の片田舎で惰眠を貪っていた俺が何の迷いか始めて紆余曲折を経て39歳となった今でもこうして棲息しております。ツイッターもやってはおりますが俺にとって本拠地はこのラブコメ政治耳鳴全日記であり所詮ツイッターは第2ブログでしかありません(なので「ラブコメ政治耳鳴全日記・別館」なのです)ので、ツイッターをやめる可能性はありますがこのブログは俺が生きている限りやめる事はないでしょう。

 で、そんなライフワークたるブログにおいて最も力を入れている、というより結果的に長期に渡って続ける事になったのが「日本ラブコメ大賞」と「脱走と追跡の読書遍歴1001」でありまして、このうち前者の方は毎年12月にその意義を力説している(?)ので今回は省きまして、後者については、よく言えば読書感想文、はっきり言えば駄文の垂れ流し、つまり恥の垂れ流しでありますが、それはとにかく「1001」という数字は何か言えば文字通り1001冊やるという事であります。更に言えば読書後の所感を思いつくまま簡単に書くのではなく、本格的に書評のように或いは評論のように書こうと固く決意したのが10年前で、それから数々の波乱に満ちた面倒くさい人生を送って10年が経ったわけですがこの前やっと103冊が終わったところです。10年で103冊しか書いていないという事は残り900冊に90年かかるのか、そしたら俺は129歳まで生きろって事か、嫌じゃそんなもん、というか無理じゃそんなん、大体読んだ全ての本についてこの「脱走と追跡」に載せるためにいちいち長文の駄文を書く暇があったらもっと本を読むわいという事で実は読んではいるが一つ二つ読後感というか感想を書いただけのものがたんまりあるのでそれをどこかの機会に放出してやろうとも考えているわけですが、それはそれとしてですね、せっかく100冊を突破したという事なので振り返ってみるとやはり政局マニアらしく、

「YKK秘録/山崎拓(2018年8月11日)

「90年代の証言 野中広務 権力の興亡/五百旗頭真伊藤元重薬師寺克行」(2018年11月4日)

55年体制の実相と政治改革以後 元参議院議員平野貞夫氏に聞く/吉田健一(2022年1月2日)

動乱の時代を取材して 「政治記者の目と耳」 第6集/政治記者OB会(2022年1月30日)

闇将軍 野中広務小沢一郎の正体/松田賢哉(2022年3月6日)

 などといった、それぞれの時代の政局について書かれた本を読んでいる事がわかりますし、

「宰相の器/早坂茂三(2014年7月26日)

「それでも田中角栄は不滅である/内海賢二(2020年9月26日)

日本政治の決算 角栄VS小泉/早野透(2020年10月31日)

田中角栄中曽根康弘 戦後保守が裁く安部政治早野透・松田喬和(2022年6月15日)

 などの田中シンパの本に手を出して、俺が親田中角栄である事もわかります。

 とは言え生臭い政局ばかり読んでいるとそれはそれで視野が狭くなっていかん、もっと俯瞰的な近現代の歴史の本も読まんといかんという事で

山県有朋半藤一利(2013年4月27日)

ヒトラーの抬頭 ワイマール・デモクラシーの悲劇/山口定」(2015年3月7日)

「外務省革新派/戸部良一(2017年2月4日)

「一老政治家の回想/古島一雄」(2018年7月15日)

ソ連満州に侵攻した夏/半藤一利(2019年10月14日)

天皇 1945-1948/高橋紘(2022年3月20日

 なども読む事でバランスを取っております。

 一方でSF・ミステリーも細々とではありますが読んでおりまして、高校生の頃からSFは国内、ミステリーは海外という棲み分けを課しているので(海外SFや国内ミステリーを読まないというわけではありませんが)、SFだと

アメリカの壁/小松左京(2012年2月25日)

「講談 碑夜十郎(上・下)/半村良(2014年1月25日)

「銀齢の果て/筒井康隆(2014年7月5日)

 ミステリーですとパーネル・ホールの気弱な私立探偵シリーズの

「撃たれると痛い」(2012年9月22日)

「罠から逃げたい」(2018年3月21日)

「俳優は楽じゃない」(2021年10月2日)

 などを読む事で、生臭い政治・政局の世界を離れて気分転換を図っているわけですが、そうするともっとドロドロとした現実の下世話な話が読みたい、特に昭和40年代以降の週刊誌は庶民の下世話な野次馬根性を満たすには打ってつけという事で

週刊朝日 1972年7月28日号」(2014年1月18日)

週刊朝日 1984年12月21日号」(2015年8月29日)

週刊現代 1995年12月2日号」(2016年6月11日)

週刊ポスト1971年12月10日号」(2017年11月4日)

 などを結局は読むのでありまして、こうして整理してみると俺という人間の趣味嗜好がわかって面白いやら恐ろしいやらですが、その他にも図書館関係の本として

公共図書館の冒険 未来につながるヒストリー/柳与志夫・田村俊作編」(2018年5月20日

「レファレンスと図書館 ある図書館司書の日記/大串夏身(2020年8月15日)

近代出版研究 創刊号/近代出版研究所」(2022年5月15日)

 などを読んでみたり、純文学の

「耳の物語/開高健(2012年7月16日)

織田作之助 ちくま日本文学035」(2013年5月18日)

「ぼくたちの好きな戦争/小林信彦(2016年3月29日)

「鳳仙花/中上健次(2022年2月23日)

 などにも手を出しておりますので、やはり俺は立派な読書家、いや本格的な書評家であると言えましょう。そのため次の100冊もすぐに達成できる…のだろうか。また10年かかったりして。