強引で性急な組閣

 参議院選挙投票日の2日前に元首相にして最大派閥の長が殺害されるという恐ろしい事件が起こったが、その選挙で自民党は比例票において、3年前より6百万票(24百万票→18百万票)も減らした。しかし野党が分散してくれたおかげで改選議席過半数という勝利を得た。比例代表で6百万票も減らしているのだから、表では喜んでみせても岸田首相や自民党内は困っているはずである。

 岸田首相は宏池会というリベラルな系譜や「聞く力」のアピール、政策的には「新しい資本主義」による「アベノミクス」との訣別、更には池田勇人の「所得倍増」を思わせる「資産倍増」、大平正芳の「田園都市構想」をそのまま借用した「デジタル田園都市構想」などにより、自民党から安部的なイメージや清和会色を消す事に腐心した。もちろんそれによって安部が反発する事も考慮に入れての事である。たとえ相手が最大派閥の長であっても自分は総理総裁なのだから安部と互角に張り合う事はでき、総裁選挙は2年以上先(2024年9月)なのでお互いしばらくは様子見の状態が続くだろう、その間に安部が保守派などの「岩盤支持層」を繋ぎ止め、自分は「反安部」「非安部」側の支持を得ようとの魂胆が岸田には見え隠れしていた。ロシアのウクライナ侵攻に伴うロシアへの経済制裁等について、岸田がバイデン大統領に一にも二にも従うのはバイデンのライバルであり2024年の大統領選挙に出馬する可能性のあるトランプ前大統領と安部が繋がっているからである。そのため岸田はバイデン側につくしかないのである。

 その安部が思わぬ形で不在となり、岸田は「安部氏の遺志を継ぐ」と言ってはみたものの安部を支持していた層(いわゆる「岩盤支持層」)は離れ、6百万票を減らす結果となった。そのため岸田は「自分こそが安部氏の遺志を継ぐ」事を再びアピールするため「国葬」という手段に出る。戦後に「国葬」されたのは皇族を除けば吉田茂しかおらず、その吉田茂の場合も敗戦後に首相を長期間務めたという特殊事情がある。安部が首相在任期間で歴代1位だったとしてもそれが国葬の対象となる理由にはならないし、佐藤栄作田中角栄中曽根康弘国葬はされていない。首相在任中に死去した大平正芳でさえ国葬ではなく「内閣・自民党合同葬」である。それでも岸田が「国葬」を決めたのは、国葬という厳粛且つ国家的権威のある場面で「安部氏の遺志を継ぐ」と表明し、自分こそが安部氏の後継者であるお墨付きを得る事で、離れつつある「岩盤支持層」を繋ぎ止め、また自分以外の人間が安部氏の後継者として名乗り出る事を防ぎたいからであろう。菅前首相を副総理として起用するとの話が出たのも、菅氏が安部氏の後継者として名乗り出る危険性があったからである。

 しかし安部元首相殺害の背景が徐々に明らかになるにつれて、「民主主義に対する重大な挑戦」というような勇ましい話ではなく、旧統一教会という怪しい団体と自民党政治家の歪んだ関係がクローズアップされる。信者にマインドコントロール等の手段を用いて金を巻き上げ、その金を政治家に活用する事で個々の政治家との関係を作り、団体と政治家が共存共栄の関係となる事で団体自体は社会的な制裁から逃れ、信者や信者の家族が苦しむ一方という構図に大抵の国民は眉間に皺を寄せる。特に旧統一教会岸信介との関係から自民党清和会との関係が強固であり、閣僚にも旧統一教会と関係がある事が徐々に明らかとなり、それは内閣支持率にも影響しよう。党内第4派閥でしかない岸田派にとっては党よりも世論が頼りであり、この嫌な雰囲気を一層するためには内閣改造しかないという事で9月上旬に予定していたはずが一ケ月前倒しとなったはずである。また内閣改造に際して「国葬を難なく進める」などと言えば国葬問題を既成事実化できよう。

 つまり今回の内閣改造は旧統一教会との関係をとにかく早く断ち切りたい、また国葬についても説明や整合性はつかないがとにかくやってしまいたいという強引な組閣なのである。そして強引で性急なために、新しい閣僚もまた旧統一教会との関係がある事が早々に判明している。それがどういう結果になるのかは今後のお楽しみだが、それにしてもここまで野党の存在感がなく、党内が「安部」と「反安部」に分かれて与野党以上に対立している状態を目の当たりにすると、岸田の地位は全く盤石ではない事がよくわかる。

図書館雑誌2022年1月号・2月号・3月号[日本図書館協会]

20220730

 日本図書館協会。図書館の素晴らしさと大切さを日本全国津々浦々の人々に伝える、また図書館業界で働く全ての人達(司書他)が誇りを持って憂いなく働く事ができるよう様々な取り組みを行う団体…というのが表の顔であろうが、人の世の常として先立つもの、即ち金がなければ何もできないのだから、つまり図書館に潤沢に予算がつけられるか否か、つけられないならどこから調達するか、ボランティアは大いに結構だがボランティアは無償である、無償であることは責任がないという事である、その組織・団体から金をもらって働く者だからこそその組織・団体に対して責任が生じるのである。また図書館で働く人達、その中核であるはずの司書達の生活の保障はどうなっているのか。いまだに非常勤かそれとも指定管理者か。そんな人達のギリギリの努力で成り立っている図書館が生活のインフラたりえるのか市民の情報センターになりえるのか。何も変えず、何も変えられず、ただなんとなく惰性のまま文部科学省総務省の言う事を聞くのみか、それとも税金の使い道にうるさい世論に恐れをなして右往左往するのみか。

 そもそもどれくらいの人が「日本図書館協会」なるものを知っておるのか。誰も知らんだろう。だからここは一つ、知名度を上げるためにスキャンダルでもぶち上げてみたらどうだ。もちろん公金横領などの犯罪はまずいから、手っ取り早く不倫とかはどうだ。それもいかんか。ではソープランド好きとかはどうだ。この俺を役員にしなさい(年会費を払い続けてもう10年近く経っておる)。そしたら下世話な週刊誌に「コロナにも関わらずソープランドに通う非常識な〇〇は…」と書かれるだろう。そしたら俺は「なに図書館と言っても生身の人間ですからね。ソープランドぐらい行きますわ。堅苦しいばかりではいけませんよ、わははははは」と言ってやろう。想像するだけで楽しいではないか。わははははは。

 というわけで久しぶりに図書館雑誌について述べるが、コロナ禍とSNSの浸透を背景に「図書館系VTuber」の試みが紹介され(1月号)、全国図書館大会では「会計年度任用職員」が導入された事による実態が報告され(2月号)、常任理事会では「(図書館)協会に関与したくない人達が増えてきているのではないか」という危惧の意見も出され(2月号)、ネーミングライツ事業と図書館の事例が紹介され(3月号)、国会図書館のデジタルコレクションの著作権処理について、「序文に著者が謝辞として挙げた人名も著作者もみなし、又は著者が引用した論文も著作物とみなして、それらの著作権保護期間が満了しなければ、その本はネット公開されない」という、著作権の保護の側面を重視し慎重な判断を行う現在の運用について言及されている(3月号)のであった。図書館及び図書館周辺の、まさに業界の動向がわかり、また図書館や本などにのみ限定して話す事、専門的な用語を使う事が当然であるという編集側と読者側の暗黙の了解が読み進めるほどに心地よいが、しかしその心地よさに安住すると「世間は図書館についてわかってくれない」、でも「こうして多くの仲間達・同志達がいる」から「色々あるけど皆で頑張れば何とかなるだろう」となり、「何とかならなくても、ここにいる仲間達・同志達なら理解してくれるだろう」「愚痴を聞いてくれるだろう」「傷の舐めあいもできるだろう」…でぬかるみ状態に陥っていく危険性も大いにある。図書館の実態、いわゆる「三現主義」(現場・現物・現実)がしっかりと機能している事は認めるが、しかしそれを踏まえてどうするつもりなのだ。或いは圧力団体として、行政府や政治に圧力を加え、自分達の望ましい方向に政策、もっと露骨に言えば税金を獲得する活動をしていかなければならないはずだ。俺はまだ期待しているので年会費を払い続けるつもりである。

夢探偵/筒井康隆・編[光文社]

20220626

 まず「夢探偵」というタイトルがいい。夢はそういう、ミステリアスでエキゾチックなものなのだ。我々が夢の内容を探偵するのか、それとも夢自身が探偵となって我々を探ろうとしているのかはとにかく、人間は必ず夢を見るのだ。どんなに合理的で効率を重視する人間にだって夢は降りかかる。つまり人間とはミステリアスでエキゾチックな存在なのである。

 それにしても、俺も色々な夢を見てきた。39年も生きてきたのだから当然だが、あまりにも破天荒、あまりにも壮大、あまりにも意味不明な夢を見た時には起きた直後に書かずにいられないから書き残す事もあるが、字にするとどうも違う気がする。夢を見た時のあの恐ろしさ、悲しさは言語を超えた何かなのだ…と思っていたがそうではなかった。巻末の「夢の検閲官」によれば、夢は圧縮されて提供されるだけで、圧縮する前にははっきりとした意図がある。言わば自分から自分へのメッセージだが、夢は道徳家であるから、検閲されるのである。とは言え、変えられた夢の内容が別の種類の不道徳になってもそれはそれというのがまた面白い。人間とはそういう矛盾した存在であるからな。

 そんなわけで本書は夢にまつわる思い出話、単に夢の内容を記録したもの、夢に関するおとぎ話、といった片時も飽きる事のない良書で、編者の才能を考えれば当然であるが、せっかくなので俺がよく見る夢について分析してみよう。大体3か月~6か月に1回は見る夢(夢A)と1年に1回は見る夢(夢B)があって、夢Aは遅刻する夢であり、その時の俺は高校生か大学生である。これも細部は色々なパターンがあるが、この前見た夢だと俺は高校生でまだ実家に暮らしている。起きたら8時を過ぎていて、今から家を出て自転車に乗って駅から電車に乗って、向こうの駅に着いてそこからまた(無料駐輪場に置いてある)自転車に乗って行けば遅刻は確実である。しかしそこでの俺の反応は様々で、単に狼狽する事もあればタクシーに乗っていけばいいと軽く考える事もあれば、とりあえず高校に行くふりをして図書館や本屋で時間をつぶせばいいと考える事もある。或いは俺はもう社会人になっているのだから何で高校に行く必要があるのかと考える。そして目が覚めるのであって、目が覚めた後は「ああ、またあの夢か」と少しの疲れと少しの安堵を味わうのである。疲れは「遅刻した」事の後ろめたさによるもので、安堵は「もう高校に行く必要はない、なぜなら俺は社会人になっているのだからその気になれば体調不良とか言って好きに休む事ができるのだ」という開き直りである。この夢は俺が高校・大学と地味で何の輝きもない日々を送り世間一般の青春を送る事ができなかったという後悔と、それにもかかわらず今は社会人として一応は立派に暮らしてるし、しかも世間一般の輝く青春を送る事のできた奴よりも気楽に好き勝手に暮らしている(東京で独身一人暮らし)事の優越感が発現したものであろう。「タクシーで行けばいい」「図書館や本屋で時間をつぶせばいい」と考えているところが我ながら余裕たっぷりではないか。

 一方の夢Bだが、その時の俺はたぶん子供だろうがはっきりとはしない。いつものように実家の団地のエレベーターに乗り、俺は8階のボタンを押し、団地は14階建てであるが、そのエレベーターは14階より上に行くのである。その時も「あ、しまった」と思う時もあれば「あ、またか」と思う時もある。そして14階より上の屋上に出る事もあれば、何とかして14階か13階で降りて事なきを得る場合もある。この夢は子供の頃から長い事見続けていて、最初は14階より上に連れていかれると思うと怖くて仕方なかったが、大学生くらいからは怖いというよりは「面倒くさいな」「また厄介事か」としか思わないようになった。そして目が覚めるのである。これは数々の理不尽な、というより面倒くさい厄介な病気などに見舞われてきた自分を励ましているのか、或いはもっと面倒くさい厄介な病気がやってくる事を教えようとしているのかわからない。しかし1年に1回は必ず見るのだから、何かあるのだろう。

 しかし…起きている間はずっと考えているラブコメや政治・政局の事は夢には一切出てこないのだから不思議だ。俺の夢の検閲官はかなりしっかりした人間? のようだ。

田中角栄と中曽根康弘 戦後保守が裁く安部政治/早野透・松田喬和[毎日新聞出版]

 さて日本政治、と言えば田中角栄である。これはもう、日本史と言えば織田信長豊臣秀吉徳川家康、或いは勝海舟西郷隆盛坂本龍馬の名前が浮かぶのと同じで、ある種の象徴となった。しかし田中角栄がやった「歴史的」出来事と言えば日中国交正常化ぐらいで、もちろんそれはそれで戦後日本、いや第二次世界大戦後の世界秩序の局面を変えた偉業ではあるが、今を生きる日本人及び日本人の生活に直接つながっているわけではない。むしろ中曽根康弘がやった三公社民営化こそ、21世紀の小泉純一郎(こちらもなかなかに「歴史的」な首相だが)につながり、今の日本の惨憺たる格差社会につながる、大変なものである。しかし人々は田中角栄を懐かしがり称賛し、ロッキード事件なる闇の事件の真相究明に注目する。田中角栄と同じ1918年5月に生まれ、首相を5年務め(田中は2年5か月しか務めていない)、大勲位として政界・マスコミ・その他インテリ関係者から敬われ、101歳の大往生を遂げた中曽根康弘の姿は年々薄くなる一方である。新潟の庶民の匂いを終生忘れず、謀略激しい政治の世界の中で毀誉褒貶を浴びて死んでいった刑事被告人・田中角栄には今でも「もし今、田中角栄がいたら」式の問いかけが成立するというのに。

 一体それはどうしてだろう、これはもはや政治論ではなく日本論、日本文化論も含めて考えていかなくてはならないわけだが、それはそれとして本書は番記者として田中角栄中曽根康弘の近くにいた(と本人達は思っている)二人の政治記者がその2人について語り尽くすというもので、ああうらやましい、田中角栄中曽根康弘という、戦後日本政治の巨星を間近で見れたのだ。しかも時代は1970年代、今のようなインターネットはなく、TV局も新聞社からの情報を下請けするだけという時代で、現在の激烈な記者クラブ批判、或いは「マスゴミ」批判もなく、新聞記者の身分はそれはそれは高かった。そして政治家は新聞記者を利用して自らに有利な情報を流さなければならなかった。そこで優秀な政治家であればあるほど、優秀な新聞記者であればあるほど両者の関係は濃密に、いわゆる「共犯」とさえ言えるものになる。もちろんその功罪もあるが(「それまでの政治報道は政局報道であり、僕らは政局記者だった」「政治家の家の台所まで入り込むとか、風呂に一緒に入り背中を流す事までするとか」)、二人の政治記者田中角栄中曽根康弘、或いは両者の下にはせ参じた子分達の肉声を活き活きと伝えている。失敗と挫折に揉まれながらも位人臣を極めた2人の生きざま、「闇将軍として君臨した田中と『大統領的首相』という特異な手法を使って長期政権を築いた中曽根」「総理になるまでが良かった田中、総理になってからが良かった中曽根」と、その切り口も面白い。もちろん俺は田中シンパだが、中曽根もすごい政治家だった事は間違いない。この二人の他に三木武夫福田赳夫大平正芳、がいて、それぞれの派閥にはまた個性豊かな政治家がたくさんいたのだ。そして戦後の日本はとびきり面白いものとなり、焼け跡から驚異の復活を遂げたのだ。いやあ、政治って本当にいいものですねえ。

    

早野 退陣への道筋が敷かれた、その先で待ち受けていたのが「文藝春秋」の報道だ。例の立花隆の「田中角栄研究」と、児玉隆也の「寂しき越山会の女王」。僕ら番記者角栄に話を聞かねばとまとわりついたんだが…。

松田 文春の「ぶ」の字を言っただけで「なにぃっ!」って一喝されたよ。その後、角サンは階段を二段跳びで駆け上がって、執務室に消えていった事を鮮明に覚えている。

 当時は社会部を経験したばかりの記者だったから、「文春」の記事の事は聞いておかなきゃいけないと思い込んでいたのに、自分で自分をみっともないなと思った。

早野 番記者も何回か食い下がったけど、「そんな事、知らん!」の一点張りでね。ところが、外国人記者クラブで締め上げられて。角サンも外人には弱かったのかなあ。

松田 あの時は、中心になって質問する幹事社が、当時共産圏のハンガリーだった。それで遠慮がないというか、いきなり「今、話題の総理大臣です」なんて言って、容赦なく「文春」の記事の事ばかり質問した。

      

松田 実は角栄も児玉(誉志夫)と付き合おうとしたが、佐藤栄作から「直接関わるのはやめろ」と言われたようだ。

早野 中曽根はロッキード事件をめぐって、国会で証人喚問を受けたよね。

松田 現職議員では初めてだった。社会党から児玉との関係を追及されているね。でも結局、「自分の手も魂も汚れていない」と全面否定、事件としても立件されなかった。

早野 何か中曽根って、「怪しい右」とか「怪しい闇」とつながっている印象があるけど、ロッキードにしろリクルートにしろ、尻尾を出さずにうまく乗り切ったね。姑息に逃げたというより、堂々と乗り切った感じがする。

近代出版研究 創刊号/近代出版研究所[皓星社]

 本の内容ではなく本そのもの、或いは本に関わった人、会社、成立した業界や産業、流通、意識、当時の常識非常識、法律、等、等、本好き読書好きであれば気になる事は無数にある。しかし何となく気になるだけで綿密に調べるだけの時間も金もない、ついでに能力も人脈もない、狭い家には積読の本が溢れている(だから狭いのだ)、まあいいか、どこかで誰かが調べてくれるだろう…という事で本書を手に取ったが、この雑誌は実に良かった。まず精神的に良いのであって、いかにも専門的、ニッチな題材(「『立ち読み』はいつから始まり、受容され、また排除されたか」「図書館はいつから図書館と呼ばれるようになったか」)を取り上げながら、それらの題材を取り上げる時に特有の、中途半端に知っている人を切り捨てるような傲慢さがなく、しかしながら内容は総花的・初歩的な薄い内容ではないマニア向け、或いは本好き読書好きを引き込む魅力を確保しており、これは編者の手腕によるものであろう。また俺のような周辺の更に周辺の人間、意味もなく地方の図書館やブックオフ等に行っては悦に入っている人間、国会図書館の新聞資料室で昔の新聞の政局記事を読んではニヤニヤしている人間(本書にも似たような人がいたが)に何となく仲間意識を覚えさせるような、いやらしい? 本でもあった。

 本書の内容はどれも面白い又は読み応えがあるが、特に「立ち読み」の歴史が圧巻で、「購入意思不明瞭な状態での閲覧行為」が明治時代には非難されていたが(「アナタ其雑誌をお買ひになるのですか」と詰責したものであつた)、やがて販売促進になると黙認され、更に「書店」で「雑誌」を売る、という流通革新も加わり、雑誌や漫画雑誌などの「短期間で読めるコンテンツ」が興勢を極める中で一般化していった事を丁寧に説明している。また「デジタル時代に入って、雑誌の娯楽的、暇つぶし的役割が薄まった」事による「雑誌の時代の終わり」をも証明し、「電子書籍で繰り広げられる電脳『立ち読み』は、囲い込まれ、必ず課金に応じるはずのジェントルマン向けのもの」であるから、それはあたかも戦前、一部のエリート(大学生)が「丸善の二階」で自由に読む事を許されていたような一部のみのサービスと似ており、「立ち読み」の終わりは、庶民が「雑誌などの軽い読み物」を気楽に読め知識を吸収できていた時代の終わりでもある事も示唆している。「歴史は繰り返す」とは政治政局を見続けてきた俺の持論であるが、戦前のような格差社会がまた繰り返されるのかもしれない。

 本書は、何となく常識的に当たり前に考えているようで実はよく知らない事や、昔は当たり前だったが今はそうではない事を調べる事の面白さと快感を教えてくれよう。今や常識となっているコンビニコミックも電子コミックも昔は存在しなかったのであり、とにかく今は昔の名作は片っ端からコンビニコミック化・電子化されているから今の若い人は「昔の名作」を読む事に苦労しないが、その昔(と言っても90年代後半まで)はそうではないから漫画は「娯楽の最前線」として価値があり、皆が夢中になったのである。しかし今や漫画は文字通り吐いて捨てるほど、そしていついかなる時でも読めるものになり、スマホゲーム等に地位を譲る事になった…という話も残しておくべきかもしれない。

   

 近頃の出版屋なるものは五百を以て一版とせるに非ずや、甚しきは二百部を以て一版とし初版千部を刷るに奥付だけ五版に分ちて発行さるるものあり、滑稽なるは初版と五版が同時に発売さるる事なり