怪しい来客簿/色川武大[文藝春秋:文春文庫]

 どうも読みにくい小説だった。と言っても別に難解なわけではないし、ストーリーが面白くなかったわけでもない。むしろ話としては面白かった。周囲の「怪しい」人々や、戦前にいた「怪しい」有名人と作者が交錯する、或いは無気力でただ日々の過ぎゆくままに生きるしかなかった作者からすれば考えられない生き方をしていつの間にか去っていった様々な人達をできるだけ深刻にならないよう軽妙に描いているが、その「軽妙」さ自体が何となくどんよりとして、とは言え悲槍感は微塵も感じられず、それでも救われそうにないというか、例えば「明るさ」や「爽やかさ」からもうだいぶ遠いところにきてしまってこのまま少しずつ少しずつ元気がなくなって張りがなくなって死んでいくということをはっきりと認識して苦笑する以外に方法がない…時の哀しい(「悲しい」ではなく「哀しい」)気分に似ている。ここまで来てしまったんだからしょうがねえや、なに、今まで何とかこの歳まで生きてこれたんだからこれからだって何とか生きていけるだろうよ…と開き直った時に自然と笑みがこぼれるという風な「濁った、疲れた、泥にまみれた」感覚が本作から感じられよう。

 日本が戦争に向かって(つまり破滅に向かって)いた時に子供時代を過ごした作者には「立派な一生も愚かな一生もさして変わりはない。人間は悔いを残さないように努力し、その努力はそれなりに収穫があったようで、もちろんそれでいいのであるが、とことんのところではやはり変わらない。この世は自然の定理のみで何の愛矯もないのである」という考えがあり、子供の頃から上野・浅草界隈を目的もなく過ごしたり、昼夜問わず寝続けたり、賭博に身を任せ無頼をしたり、出版社界隈をさまよい歩いたりして、類は友を呼ぶというべきかあまり普通でない人達、いわゆる「小市民」からはかけ離れた人達と出逢い、特に劇的な場面があるわけでもなくそれらの人達の生き様を観察して、その人達の大半が作者より先に死んでいったり無頼であるはずの作者よりも無様な姿をさらしてどこかへ去ってしまうのであった。そしてその生き様を入念、且つ的確に描写する作者の目はなるほど客観的で優れたものであるが、それは「この世は自然の定理のみで何の愛矯もない」という考えによる諦めからの「客観的な視点」であって、軽快に瑞々しく彼らを描写しているわけではない。華やかなスターであろうが落ちぶれたスターであろうが、強くたくましい人間であろうが弱々しい人間であろうが、美人のお嬢様であろうがブサイクな娼婦であろうが、正常な人間であろうが狂人であろうが作者にとっては結局同じで、そう諦めておきながらやはりその「普通でない」ことに目を奪われ心を奪われ、どうすることもできないまま歳月が過ぎ去ってゆくということが各短編で繰り返し行われているというだけである。そこには救いもなければ決定的な悲劇もない。しかし滔々と、特別元気ではないがしんどそうなわけでもなく展開される文章の魅力に驚かされよう。常に透明で綺麗なものが人生ではない。時には濁った、汚れた、澱んだものが温かく懐かしく感じることだってあるのだ。それを本作は教えてくれよう。

   

 それで私たちは別れた。補導は私を常習と見なかったらしく、学校へ告げなかったようで、私はビクビクしながら登校したが、二、三日するとまたズル休みをしてしまう。何故あんなに学校がいやだったのか、確たる理由は何もわからない。幼いときも大きくなってからもまったく同じで、所定の容器へ身を入れようとすると身体がしびれたようになってしまう。

 登校の道で、ふっと横にそれたときの一瞬の快感。猛烈な頭痛が急に治ったようで、上野まで歩いていき公園の草叢の中で街が活気を呈してくるまでじっとしている。そうして浅草へ。楽な方へ楽な方へと流れていくのだが、そのくせ不安で心がいっぱいで、親の顔や学校の様子が頭から離れない。今、こうしているととりかえしがつかないところに身を置いているのだという焦燥で心をあぶられるようになって一日を過ごし、どうか自分の行為がバレないようにと神に祈りながら一散に家へ帰る。

    

 ミスだとしたら、私はこれまで他人のミスに対して寛大でなかったことは一度もなかった。その基本方針をまげるわけにはいかない。

 しかし同時に、自分であれ他人であれ、一度ミスをおかしたら、助けてくれるものは何もないのだという現実に誰でも直面してしまう。だから寛大にならざるを得ないのである。

 この世は自然の定理のみ。神仏など居ない。そんなことは数千万年前の人間にだってわかっておったことで、だから人間は神を造る必要があった。ミスったときに神のせいにできるから。心の外に裁判官をおけば、ミスった代償として罰がくだされ、量刑を得て、罪が帳消しになる。

闇将軍 野中広務と小沢一郎の正体/松田賢哉[講談社:講談社α文庫]

 読後の感想は「面白いと言えば面白いが、面白くないと言えば面白くない」であった。それもまた貴重な読書体験で、「面白い本」「面白くない本」に出会う事はあってもこういう矛盾を抱えた読み物に出会う事はなかなかない。結果オーライである。

 まず本書の面白い部分は野中広務と作者のオフレコ懇談で、野中らしい、ぶっきらぼうでありながら人間味がある喋り、幾多の権力闘争に遭遇した事による疲れとあきらめを出しつつもそれに立ち向かっていくしぶとさが感じられる。その野中の個性を作者自身気に入りつつも、「野中をみたくば小沢をみよ。小沢をみたくば野中をみよ」とまで言われる権力闘争を作者は露悪的に、やや嫌悪感を持ちつつ書いているものだから、「政治とは政局であり、権力闘争である」「国内の権力闘争に勝ってこそ国際社会での競争に勝つ事ができる」が持論の俺としては面白くない。また野中にしても小沢にしても地元では親戚や後援会関係者による利権と結びついた事件があり、その事件を丹念に取材している作者の努力は買うものの、悲しき人間社会ではいくら本人が高潔であったとしても周囲の人々が全て高潔であるわけがない。ましてや大派閥、大政党を切り盛りするのであるから、金(表の金も裏の金も)は多ければ多いほどよい。野中も小沢もそういう魑魅魍魎の世界で生きていくための覚悟をとっくの昔に決めた人間であり、覚悟を決めた人間は悪役でも何でもやるのである。そしてマスコミは「横暴な権力を批判する」ためにこの二人を上手に使ってきた。しかし今やそのような「マスコミにとって都合のいい悪役」はいなくなり、残ったのは妙に清潔でしかし空虚でよそよそしい政治家達である。

 話がそれたが、とにかく90年代の政治は

①「経世会支配」(~92年)

 が、経世会のドン・金丸信の失脚により

②「経世会の分裂」(92年)

 となり、経世会及び自民党を飛び出した小沢一郎による

③細川連立政権樹立・55年体制の崩壊(93年)

 となる。しかし小沢の強引な政権運営に反発した連立内反小沢派と自民党による

④村山自社さ政権(~96年)

 へ移行し、このあたりから野中が「自民党を絶対に野に下さない」ため本格的に政治の表へ出てくる。続く

⑤橋本政権(~98年)

 でも引き続き要職を務める野中は権力闘争の何たるかを知り、実行に移し、次の

⑥小渕政権(~00年)

 では官房長官となって、それまで「悪魔」と呼んでいた小沢一郎と手を組むという恐ろしい行動に出るのである。

 50歳前後でありながら権力を意のままに操り、二世議員且つ不器用な性格も相まってとにかく反感を買いやすい小沢と、その小沢を「経世会分裂の犯人」そして「悪魔」と憎み戦う野中との対比、しかもその野中は被差別部落出身で差別と長年戦ってきた闘士であるから、ジャーナリズムにとってこれほど扱いやすい材料はない。それに気付いた野中は積極的にマスコミを利用し情報を流し、一方小沢は徹底的にマスコミを無視し敵視する。しかし闇将軍の時代は長くは続かない。森政権で「影の総理」とまで言われた野中も小泉政権の誕生によって追いやられてしまう。小沢は去り、野中は死んだ。「闇将軍」がいなくなった今の政治は、ひたすら寒い…。

  

 反小沢の旗頭である野中は、私に対し、反小沢の心情をこう吐露していたものだ。

「小沢は人の前で幼児のように簡単に泣ける男だ。金丸さんが自民党副総裁を辞任した時も、小沢は派閥の会長の椅子が欲しくて、金丸さんの前でわんわん泣きながら、『自分が身体を張ってでも守ります。総裁室の前に座り込んでも守ります。だから、全てを自分に任せて下さい』と言っとった。小沢の涙にだまされてはいかん」

「小沢は虚像がそのまま大きくなって、世間を歩いている男だな。だが、沈まない。金と人事を握っているからな」

「小沢という奴は、人を利用し、人をバックにものを言う。自分から泥をかぶろうとしないんだ。竹下派の時は金丸さん、竹下さんをバックにものを言っていた。恩義のある人を裏切った。田中角栄さんを裏切り、竹下さんを足げにし、金丸さんを地獄に落とし、人前ではさめざめと涙を流す『ジジ殺し』。それに皆乗せられ、日本の政治を誤らせてきた」

    

 ある全国紙政治部デスクは言う。

「野中は化け物なんだ。55年体制的発想でとらえようとすると間違える。野中は矛盾のかたまりと考えればいい。右から見れば左、左から見れば右。今回の『日の丸・君が代』も法制化には突き進むが、義務化には反対する。右から見ても野中はけしからん、左から見ても野中はけしからんとなる。しかし、野中はそれでいいと言うんだ。弱者を重視する政策もやるが、国家主義的な政策もやる。それが野中のバランス感覚。イデオロギーのない化け物なんだ」

 大いなる矛盾を平気で抱え込む男・野中はこう口にしている。

「戦後50年の負のトゲを抜くんだ」

 野中にとって政治とは何なのかを、本人にただした事がある。その時、野中は一瞬身構えるようにして、こう答えたものだ。

「この国が20世紀にやり残した事を、禍根のないようにやり遂げる。それが自分らの世代の責任だ」

 大仰だが、中身がない。

 どんな国家間で、どんなデッサンを描いているのか、野中は語る事をしなかった。言葉がなかった。ただ、日々の状況にどう立ち向かっていくのかと問えば、野中は誰よりも雄弁に答える。

何もしないアメリカ、何もしない中国

 ロシアがついにウクライナを攻撃した。ロシアは「特別軍事攻撃」、即ち「戦争ではない」と主張しているが、現地での有様はまさしく戦争そのものである。そして戦争はある日突然起こるのではなく、徐々にそこへと至る。それまで積み上げてきた外交の失敗が戦争となるのである。また戦争には莫大なコストが発生する。国民の生死、経済的な苦境、社会的な混乱、等に見舞われよう。だからよほどの事がない限り戦争に訴える事はないが、それでもプーチン大統領率いるロシアは戦争を選び、予想通りロシアは国際社会から最大級の非難と嫌悪を浴びせられている。それでもロシアは怯まず、核攻撃も辞さないと言い、実際にウクライナにある原発(但し周辺施設)さえも攻撃して一歩も引かない。今やプーチンは狂人扱いされているが、一方で「民主主義国」のリーダーであるアメリカは早々に恐れをなして何もしない。

 もちろんプーチン核兵器強硬姿勢が脅しである事をアメリカはわかっている。核兵器が使用されればロシアもアメリカもヨーロッパもアジアも壊滅的な大惨事となる。しかし「民主主義国」のリーダーであれば、「専制主義」の国からの高圧的な脅しには屈しない、或いはいざとなれば自らが仲介に名乗り出る事が期待されるが、対するバイデン大統領はウクライナへの連帯や支持を繰り返し強調するだけで「アメリカ軍はウクライナへは行かない」事も強調する。「アメリカ・ウクライナ連合軍」或いは「NATOウクライナ連合軍」はない、ウクライナは自力でロシアと頑張って戦え、アメリカは何もしないと強調しているのであり、もはやアメリカは「民主主義国」のリーダーではない事がはっきりした。今は口にしないが、ウクライナのゼレンスキー大統領は腸が煮えくり返っているのではないか。

 いや違う、アメリカはロシアに対して強力な経済制裁を行ったという反論があるかもしれないが、「SWIFT」はロシアの全ての銀行における国際金融網を遮断していない。資源エネルギー大国であるロシアからの資源輸入が完全に断たれたら石油・ガス等の価格が更に高騰するからとの理由らしいが、それならば遮断していない銀行を経由すればいいのだから互いに時間と手間がかかるだけで制裁とはならない。また仮にロシアの全ての銀行を遮断すれば石油・ガス等の価格高騰により世界経済が大混乱をきたす恐れがある。今はウクライナの悲劇に目を奪われていても自国の経済状況によってはアメリカやEUがどう出るかは予断を許さない。今、プーチンは国際社会のみならずロシア国内でも反戦デモ等で批判にさらされているが、残念ながら国内でのプーチン体制は盤石であり、長期戦になればロシア側に有利になる可能性もある。そしてバイデン大統領は「NATO加盟国が攻撃されたらアメリカは反撃する」が、ウクライナ単独であれば何もしないのである。むしろプーチンに対して「ウクライナだけにしておけ」とサインを送っているように見える。

 なおもう一つの大国である中国も今は何もしていないが、アメリカの姿勢がはっきりした以上、溺れる者は藁をもつかむでロシアと特別な関係にある中国に仲介を依頼する可能性もあり、そうなれば中国は国際社会のヒーロー、リーダーになってしまう。それでもアメリは何もしない、いや、できない。もはやアメリカには他国に力を振り向ける余裕がない事は昨年のアフガニスタン撤退で明らかになった。タリバンが再びアフガニスタンを制圧する事を知ってなお撤退したのである。これでは「台湾有事」が起こってもアメリカがどうするかは目に見えている。「中国は核兵器を持っているから」と言って台湾を助けない事も十分考えられよう。更に言えばロシア、中国、北朝鮮核兵器を持っているのであり、それらを隣国に持つ日本はどうなるか。所詮は「自分の国は自分で守る」しかない。ウクライナのように。

また、嘘八百! 明治編/天野祐吉[文藝春秋:文春文庫ビジュアル版]

 見よ、この商品を!

 この広告を!

 天下に名立たる〇〇博士が絶対に保証する素晴らしき薬! 

 宮内省御用達の光輝く食材! 

 陸軍省海軍省御用達の特上酒! 

 日清(日露)の兵隊さん達も愛用した勝利の煙草!

 …というのが明治の広告のパターン①ですが、これらは男性諸君の客層をイメージしたものでして、花も恥じらう明治の女性達を対象としたパターン②になると、

 夫人各位!

 この白粉にて美しくなられよ!

 美人となる秘訣はこの化粧水の愛用なり!

 〇〇洗い粉(石鹸)は男女老幼を問わず経済上家庭の必要品なり!

 という事で、やはり権力・権威に弱い男どもと違い女性は本質を見ているので肩書を振りかざす(〇〇博士だの宮内省だの)事はないものの、新聞という文明社会の発明、その新聞に載る商品広告という華で押して押して押しまくれ、誇大広告も嘘八百も何のその、とにかく派手に、或いは見る者の目を引く事にのみ集中する明治時代の広告魂を見せつけられると平成・令和の人間たる俺はページをめくるたびに押しまくられ胸焼けがして辟易するのであった。

 そもそも広告とは何なのか。人は必要があるから食べ物飲み物を買い、薬を買い、日用品を買い、娯楽品を買うのである。しかし煙草一つ取ってもその種類は数多くある。その中でただ一つを買う場合、何を基準にして選ぶか。もちろんうまい煙草である。ではうまい煙草とは何だ。嘘八百、じゃなかった八百もの種類の中から選ぶのか。一体どれほどの金がかかるのか、いや所詮は一箱三銭だから800×3銭で2,400銭つまり24円あればいいから何とかなろう、しかし八百もあるのだ、1日に1箱ずつ買ったとしても800日つまり2年以上かかる。今ある800の煙草の799個目が2年経ってもまだ存在している保証はない。ではどうするのだ、明治日本を背負って立つこの俺が真にうまい煙草の味を知らずして、近所の売店で売ってある煙草を喫んで満足するのか。誰か教えてくれ、本当にうまい煙草、世界に冠たる大日本帝国を背負って立つ俺にふさわしい煙草を…は。何と。「宮内省御用達」とな。「陸軍省及び海軍省御用達」とな。「日清(日露)の兵隊さん達もこれ一本で心機一転、これぞ帝国日本の礎なり」。これ、これ、これだ。俺にふさわしいのはこういうものなのだ。なにそれとうまいまずいは関係ない? 何を言うておるか、うまいまずいは所詮は俺が決める事、それに世の中にとんでもなくうまい煙草などあるものか、もしあったとしてもそんなものはとんでもなく高いか、すぐになくなってしまうかだ。そのために財産を使い果たすのか、短い人生をその煙草を獲得する戦いに費やすのか、馬鹿も休み休み言いたまえ。とんでもなくまずくなければよい、とんでもなく高くなければよいのだ。つまり何でもいいのだ。しかし何でもいいとは言え何でもいいわけではない。頓智ではない。何でもいいとは言いつつその中から何かしらの理由があってその煙草を選ぶのである。その理由は自分で考えなくてもよい。広告がその理由を教えてくれよう。はっはっは、オシャレで素敵など些末な事よ、人生は短い、人はその道の探究者にはなれない、広告におんぶにだっこでよいのだ、嘘八百大いに結構。       

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鳳仙花/中上健次[小学館:小学館文庫]

 背表紙に「匂い立つ『母の物語』」と書かれてあるが、読後は『女』の物語の印象が強い。まだ肉体の目覚めを知らぬ少女がやがて三人の男と関係を持ち、五人の子供を女手一つで育てなければならなくなる流転の人生は「女」が持つ荒々しさと弱さをあぶり出すようで、読んでいて息苦しくなるほどだった。私生児として生まれ、絶えず潮鳴りが響くのどかな田舎町で育った美しい少女は恐ろしげで得体のしれない街に奉公して、女の肉体の味を覚えて「女」になり、3人の男の子供を身籠って「母」になるが、女になり母になることそのものが業である、或いはとても悲しいことである、とさえ思える描写を繰り返しながらもこの女主人公には美しさが保たれている。満州事変前の昭和6年から朝鮮戦争が始まる昭和25年までの時代を生きた彼女には現代ではとうに失われた「女であることの悲しみ」がある。しかし、だからこそ美しいのであった。

 奉公を始めた頃の少女だった主人公は「風呂に入っている時、荒げた男衆らの声が聴こえてくる時」が嫌で、「湯をはじく肌や膨らみはじめた乳房がおぞましい」と感じるほどであった。しかし淡い恋心を抱いていた義兄に死なれ、自分の周囲で起きる出来事も大人たちの行いも自分一人ではどうしようもないという不安な生活の中である男と出会い、女として成長していくが、自分が住む街は恐ろしい事がたくさん起きる得体の知れないものであることに変わりはなかった。いくら涙を流しても誰も救ってくれず、夫に先立たれた主人公は五人の子供を食わすために行商に精を出すことになるが、その時主人公は25歳であり、ここから「匂い立つ」女の姿が息苦しいほど読者に伝わってくるのである。子供達の日々の暮らしのために行商をして街から街へと歩き、未亡人の薄幸さが醸し出され、何かの拍子にそれが蠱惑的な妖しさになる。やがて夫とは違う男に抱かれるが、その時の主人公の肉体も精神もただ快楽を求めているわけではない。女であることを確認するかのように、夫に先立たれ女手一つで子供を育てていかなければならない自分の運命を直視するように身体を許すのであり、自分から積極的に身体をぶつけ淫らに振る舞っていてもその姿は凛としていて、男なら思わず目を見張ってしまう女の業が浮かび上がる。また3人目の男の子供を孕んだ主人公が「自分が孕みやすい身体で、孕んだ途端に体が動きやすく気がやわらぎ明るくなる性」であることを知って悲しむ描写があるが、そこにこそ主人公の人生が象徴されている。しかしこんなことが人生の象徴になるのだろうか、なるとしたら女というのは何という不思議な存在なのか。

 空襲や地震に遭いながらも女手一つで子供を育てていく主人公の姿は荒々しいようで弱々しい。3人目の男は夫や2人目の男とは比べ物にならないほど男っ気のない頼りない男で、一緒に暮らすことなど無理だと思いながらも子供を捨てて駆け落ちしようと迷い、一番下の子供と心中すれば何もかも解決すると考える。或いは行商して子供を立派に育てるからもう男と所帯は持たない、と決心した矢先にやはり男に会いたいと思う。30歳や35歳の女の盛りでは時々脈絡もなく乳が張ることがあって、それを恥ずかしいと思う時もあれば自分が淫蕩に身をまかす女になったようで自虐的に笑みがこぼれる。しかし読み進めば読み進むほどそれらの生き様が彼女を女として輝かせているのだと自然に思えてくる。気高く強く、脆く傷つきやすい女の存在が匂い立つほどに感じられ、表層的な美しさではない、深く沁み込む美しさを漲らせている。これこそ女の物語である。

   

 龍造がフサの肌に唇をつけ、龍造の手に張りのある肌の脂粉がついてしまうように思いながら、フサは龍造が奥の奥まで入りこもうとする度に、真っ赤に火のように燃え上がって男をたぶらかし誘っている蓮っ葉な女のような気がし、笑みを浮かべ、龍造のまだ青さの残っているような張りつめた喉首に舌を這わし、龍造の耳元にささやくようにあえぐ。

 フサは自分が龍造の背に彫った朱色の花の化身のような気がした。