日本のゆくえ

 第二次世界大戦で活躍したイギリス首相・チャーチルは「民主主義は最悪の政治体制だ」と言い、「それでも他の政治体制よりマシだ」と言った。なぜなら国民が選んだ政治指導者がどんなに最悪なことをしてもそれは自分たちのせいであるとあきらめもつくが、選挙で選んだわけでもない政治指導者に最悪なことをされてはたまらないからである。ところが日本では選挙で選ばれた国会議員より官僚が信用される。特に検察を「正義」として信用し、検察が睨んだ相手は「悪」とされる。そう言えば、戦前においても軍人は「清廉潔白」とされ、政治家は金に汚いとされた。次第に軍部は政党政治を否定し、政党内の親軍派と結託することによって実権を握っていった。本当は政党が与野党共闘して軍部と対決しなければならなかったのだと気づいたのは戦後になってからだった。
 「官僚たちの夏」の例を出すまでもなく、官僚にとっては国家を運営していくのは官僚でなければならない。そのためには情報を独占しなければならず、官僚の言うことを聞く政治家にだけ情報を与えて自分たちの盾となるよう手なずけることが必要となる。そのため官僚組織に頼らずに情報を入手するルートを持つ政治家がいれば官僚にとって敵になろう。独自の人脈、独自のデータによって政策や法律を遂行されると官僚の地位は低下するからである。長く政権を維持し続けてきた自民党が独自のシンクタンクを持たなかったのは官僚組織に頼ればそれで事足りたからであり、官僚としても自分たちの情報を政治家に明らかにすることなく自民党の陰に隠れてその地位を保持することができた。
 官僚に頼ることなく情報を集めるためには一にも二にも金がなければならない。対価なくして情報を与えるようなお人好しは地球上のどこにも存在しない。「なぜ政治にお金がかかるか」と言えば独自に情報を集めなければならないからで、もちろん官僚におんぶにだっこしてもらうのであればそんなに金はいらない。いわゆる「あまり政治に金をかけていない人たち」というのは官僚組織に頼るだけの人たちであり、国会審議の質問事項も全て官僚に作ってもらう人たちである。集金能力は政治家の力量を示すバロメーターであって、しかしながら賄賂をもらってはいけないから、お金の出し入れはオープンにして常に国民に監視されていなければならない。それが世界の民主主義の常識である。
 ところが日本では「政治団体や企業からお金をもらった」とちゃんと報告しただけで騒がれる。その企業の利益になるよう計らい、国民の利益に反することをするかもしれないからである。政治家は「国民のために」働かなければならないのだから、特定の企業や団体に左右されてはいけないというのである。そうなると企業や団体や、あるいは一個人は政治活動をしてはいけないということになる。それは「国民」全体ではないからである。では日本では政治活動の自由はないのかと言えば、「ある」のである。
 世の中には政治・行政に対して様々な意見がある。「老人の医療費を安くしろ」「スポーツ発展のためにスポーツ関係に予算をつけろ」「高速道路を安くしろ」「タバコの税を上げろ」「公衆便所をもっと増やせ」「もっと日本の伝統を大切にしろ」「再販維持制度をなくせ」「NHKを民営化しろ」「郵便局を国営化しろ」という意見の下に賛同者が集まり、彼らは特定の議員を応援したり、政治献金を出したり、自ら立候補して自分たちの考えを立法化することができる。ただしそのためには議会の過半数を得なければならないので、反対する人たちを説得し、自分たちも妥協して調整が図られ、めでたく法律は成立する。民主主義の当然の風景であるが、日本だとこれは「悪」とされる。「国民全体ではなく、特定の団体のため」に行われたからであり、その証拠に政治献金が行われているではないかとなる。もちろんこのように仕向けているのは官僚で、なぜならこれでは国家を運営するのが官僚ではなくなってしまうからである。官僚が国家国民全体を俯瞰して決定するのが正しいのだと彼らは本気で信じているし、国民も自分たちが政権を変えることによって政策が変わるという主権の重みに戸惑っている。そしてマスコミはただ検察からのリークを垂れ流し、有罪が確定していない者をさも大悪人のように仕立て上げる。高度経済成長と冷戦によって支えられた偶然の時代であればそれでも問題はなかったが、今やこの国を引っ張るのはあくまで政治家と国民の強い意思でなければならないと思うのは本当に俺だけなのだろうか。今問われているのは小沢一郎政治団体にとどまるものではなく、議会制民主主義の国としての日本のゆくえそのものなのである。