国家の敵、国民の敵

 衆議院議員任期満了の半年前に野党第一党党首の秘書が突然逮捕されてから3年が過ぎ、「警察は犯罪者を捕まえる組織だが、検察はそうではない」ことがよくわかった。検察は犯罪者ではなく「国家の敵」を捕まえる組織であった。そしてその「国家の敵」とは誰かを決めるのも検察で、現在の国家の体制(官僚主導の体制)を変革しようとする者をなりふり構わず捕まえて葬り去ることが目的の組織が検察であった。それならば証拠の改ざんを行うことも一応の辻褄は合う。検察とはそういうことをする組織なのである。
 検察を「巨悪に立ち向かう正義の組織」と国民に錯覚させたのはロッキード事件であるが、裁判では田中角栄が存命中の1審・2審で有罪となったはずが田中の死後に最高裁収賄の証拠として提出された「嘱託尋問調書」の証拠能力そのものを否定しているのである。検察が法と証拠に基づいて悪を糺す組織ではなく「でっち上げ」によって敵を陥れる組織であることは昔からなのであり、それでもこの国では検察が「正義」で、「国家の敵」を捕まえるために今回は嘘の捜査報告書を作成し、検察審査会を使って強制起訴に持ち込む手法が使われたというそれだけの話である。
 しかし検察が「国家の敵」と見なす人物を捕まえるためにはどんな事も厭わないのであれば(つまり無罪の人間でも有罪にするのであれば)、検察は「国民の敵」である。その「国民の敵」に立ち向かうためには国民の代表である政治家と、「言論の自由」を標榜するマスコミが一致団結する必要があるが、ほとんどの政治家もマスコミも相変わらず「小沢の同義的責任」を唱えるだけで検察と戦うつもりはなかった(ただ「信頼回復を」「自助努力を」と遠吠えるのみでは話にならない)。つまり彼らも「国民の敵」であることが明らかになった。今回の裁判の意義はそこにあるのである。
 検察は「国家の敵」を倒すのが目的の組織であるから、無罪判決が出たところで控訴して裁判を継続させることも何ら不思議ではない。検察は「次こそ裁判で有罪を勝ち取る」と意気込んでいるわけではない。裁判を継続させ、小沢に対するネガティブな情報を引き続きリークすることで、「国家の敵」である小沢の政治生命を絶つことが目的なのである。自民党一党支配の温床であった中選挙区制度を小選挙区制度に変更し、政府委員制度を廃止し、「官僚支配からの脱却」を掲げて政権交代を成し遂げた小沢は旧来の国家体制に生きる者からすれば「国家の敵」であろう。
 そうすると「西松献金事件」や「陸山会事件」によって小沢に対する風当たりが強くなればなるほど民主党政治が自民党政治と変わらぬ(旧来の政治体制と変わらぬ)劣化を辿っていったのはまさに検察の思惑通りと言えるが、国民にとってはとんでもない話である。現在急速に地方首長に期待が集まっているのは「民主党自民党と変わらなかった」ことを多くの国民が「とんでもない」と思っているからで、その思いがある限り「国家の敵」と「国民の敵」の戦いは今後も続き、民主・自民を巻き込んだ政界再編が将来必ず起こるであろう。嘆く必要はない。長い間「正義の味方」として君臨した検察の化けの皮が剥がれようとしているのであり、手始めに次の総選挙ではその検察の味方をする「国民の敵」を落選させればいいだけの話である。