汚名、拭われず

 検察の前代未聞の不祥事が新聞テレビ雑誌をにぎわしてもうだいぶ経つが、いまだにほとんどのマスコミが「最強の捜査機関に何が起こったのか」「巨悪を暴いてきた検察の失墜」と過去の検察が正義の味方であったかのような言い方をしているので毎度のことながら阿呆らしくて見るに堪えない。たしかNHKの特集番組だったと思うが、過去の検察の偉業を称えるためかスタジオの後ろの方にデカデカと田中角栄の写真のパネルを置いていて、検察を「正義の味方」たらしめたロッキード事件を想起させようとしているのだろうが、ロッキード事件で田中の有罪は確定していない。一審で有罪判決が出た後田中は即座に上告し、その後病に倒れ死亡したことから裁判所は被疑者死亡により公訴棄却としたが、2010年の現在においては誰もが田中を有罪扱いである。この国では有罪が確定するまでは「推定無罪」ではなく、無罪が確定するまで「推定有罪」なのである。田中角栄の秘書・早坂茂三は「汚名、拭われず」と嘆いた。
 さてそこで小沢一郎の問題になるが、検察が「不起訴」と判断すればその裁判にすら持ち込まれないわけであるから「推定無罪」ではなくただの「無罪」である。しかしながらこの国のマスコミと国民はかつて「一億玉砕」を叫んだほどのヒステリーを内に秘めているので全く問題にならない。検察からのリークによって「あいつは悪人だ、と言ってよい」とわかったが最後、罵詈雑言の限りを尽くすのである。それで気が晴れるだけならいいが、その間に政治が停滞し諸外国に見下され、一歩また一歩と国力が低下してゆくことに誰も気付かない。それでもこの国のマスコミは「検察の自浄努力に期待する」と言い、「正義を取り戻してほしい」と願っている。俺は最初それを悪い冗談か皮肉かと思ったが、本気でそう願っていることに気付いて、この国の国民にはなお「官尊民卑」が根強く残っていることを再認識させられた。
 このブログで何度も言ってきたように民主主義は最悪の制度である。独裁者が政治をやれば税金が高いのも物価が高いのも治安が悪いのも全て独裁者のせいにできるが、民主主義政治ではそうはいかない。「自分たち」が選んだのだから、次の選挙までは自分たちが選んだ人に政治を任すしかない。そうすると「いや自分はA党には投票していない」という人が必ず出てくるが、そういう人も多数に従わなければならないのが民主主義のルールである。よく「議論することが民主主義だ」と言う人がいるが、様々な人間の欲と野望が渦巻く社会にあって物事を前に進ませる(それもできるだけ早く)ためには多数決で決めるより他に方法はない。果てしない議論の応酬となって時間が無為に過ぎていっては元も子もないのであり、かように民主主義とは冷徹なものであるが、わが国ではそのような理解は皆無である。なぜかはよくわからない。
 以前「無縁社会」を取り上げたNHKのドキュメンタリーを見ていたら、司会者が厚生労働大臣に「このような無縁社会に対して行政はどう対応するのか」と言っていて、俺は開いた口が塞がらなかった。長い年月をかけてこの国を「無縁社会」にしたのは我々自身である。プライバシーを尊重し、近所付き合いを古いと否定し、ひたすら金と快楽を求めて今日の経済大国を作り上げた日本人たちの負の側面が「無縁社会」なのであって、政治家も官僚も誰一人「無縁社会を目指そう」とは言っていない。それでも人々は政治にそれを解決してもらおう、いや解決するべきだと本気で考えている。ひたすら「政治に我々の要求を叶えてもらう」ことしか考えていないのであるから、民主主義のルール云々など夢のまた夢であろう。
 話がそれたが、検察に代表される官僚の力の源泉は権限(法律)と予算である。そのため予算委員会で予算について審議されては困るから検察は情報をリークしてマスコミを煽り、予算委員会は「疑惑究明の場」となって官僚が作った予算案、官僚の力の源泉となる予算案は何一つ吟味されることなく成立するのである。代表選挙において小沢が「政治主導」で強調したのは「予算を、官僚にまかせず、政治家が責任をもって組み替える」ことであった。それを聞いて官僚たちは震え上がったに違いない。予算こそが官僚の力の源泉なのであり、それを政治家に踏み込まれては一大事である。
 ところが周知のように小沢はマスコミによる非難の嵐の中で敗れ、平均年齢が30歳という未熟な「市民」によって起訴されることとなった。全ては「推定有罪」として小沢をさも大悪人のように伝え続けるマスコミによるものであり、その姿勢はどうやら永遠に改まることはないようである。泉下の早坂茂三、そして田中角栄は「汚名、拭われず」と嘆いていることであろう。