政治の季節

 「政治」は民主主義や選挙と関係なく行うことができる。いわゆる独裁者が元首となって行政権限を行使すればそれが政治である。そこまで極端な例を出すまでもなく、戦前の日本では天皇(や元老や重臣)による大命降下によって首相が選ばれている。
 また「民主主義」も選挙と関係なく行うことができる。いわゆる独裁者が自らの好みによって議会のメンバーを選び、そのメンバーによる多数決で物事を決定すればそれは民主主義である。
 しかし「選挙」はこれらと次元が違う。地位も名誉のない国民一人一人の票によってその国の最高権力を誰に託すかを選ぶことになる。つまり権力を国民が作るのである。
 そして今回の選挙結果は大変なものであって、明治維新以来この国の権力を握っていた官僚と手を結ぶことによって権力の恩恵を受けていた自民党を国民は完膚なきまでに倒したのである。国民は官僚と二人三脚の関係を持つ自民党より、官僚とは何の関係も無い野党に権力を与えたのである。予想されたとはいえ、この現実を突きつけられて官僚は今更ながら衝撃を受けているに違いない。権力を持っているのは自分たち官僚ではなく、国民であったことに気付いたからだ。
  
 政治はプロポーズに似ているとよく言われる。恋愛という遊びではなく結婚という人生の一大事では容姿や見栄だけでは女は決して判断しない。かと言って経済力が全てというわけでもない。途方も無い夢を語る男に走る女もいるし、母性本能をくすぐる男を選ぶ女もいる。
 AとBの2人の男がいて、Aは大企業の社長で、名門の出身で、どんな難問も解決できる自信に満ち溢れていた。もう1人の男Bも名門の出であったが、大企業を飛び出し、小さな企業を立ち上げて徐々に会社を大きくしていった。この男の会社もそれなりの規模であったが、将来は未知数であった。AとBが女に求婚して、Aは「Bでは君を幸せにできない。なぜならBにはこんなにも悪いところがあるからだ」とBの欠点を延々と述べた。Bは「自分の将来は本当のところどうなるかわからない。でもこういうことをやりたい」と将来の夢を語った。女は迷わずBと結婚した。
   
 今から20年前の1989年の参院選において、自民党過半数を割る大惨敗となり、その責任を取って退陣した宇野内閣に代わって海部内閣が発足した。自民党幹事長には小沢一郎が就いた。それからの20年において小沢は何度も政治生命の危機に見舞われながら与党と野党の立場で日本の政治の中枢であり続けた。時には首相を上回る権力を持ちながら、少数政党の悲哀も味わった。政策マニアの世間離れした坊ちゃん集団を体育会系の選挙至上体質へと転換させ、政権交代を実現させた。この男には師・田中角栄に匹敵する凄みがある。しかしながら決して首相や大臣のポストに就くことはない。早坂茂三が言うように、この男は「政治のプロ」であり、清濁併せ呑んで突き進む政治家を目を覆うばかりの低レベルなマスコミの前に出すことはもうできない。それが日本政治の現状である。
   
 今回の自民大敗で印象に残ったのは、多数の議員を率いる派閥領袖クラスが小選挙区で落選したが比例で復活当選した姿だった。本来比例復活枠というのはまだ選挙区での地盤は固まってないが将来のある若手を国会に送り出すための装置であったが、今回はそれら若手を押しのけてベテランが恥も外聞もなく比例に滑り込んだ。果たして若手を押しのけてベテランだけが残って党の建て直しができるのか甚だ疑問であるが、これほど今の自民党を象徴しているものはなかった。
 前回の郵政選挙の象徴とも言える小泉チルドレンの軒並みの落選は予想通りであった。彼女らはただ総選挙の勝利のための道具に過ぎず、国会で政府与党案に賛成票を投じる存在でしかなかった。新人なのだからそれは国会議員であろうが企業であろうが当然であり、そこから這い上がる努力を怠り、ただ小泉の威光に頼り、或いは支持率の高い政治家を担いでその波に乗ろうとすがる姿は痛々しかった。もちろんその愚を今度は民主党の新人が犯すであろうが、そのあたりを諌めることができるかが小沢の腕の見せ所である。
  
 繰り返すが、この国の権力は官僚が持っていた。だから官僚は手厚い保護を受け、情報を独占し、業界団体に金をばらまき、自民党を勝たせ続けた。冷戦が終わりグローバル経済が日本を襲っても官僚たちは「自分たちの策は間違ってないし、一生懸命やっている」と国民の声を聞くことなく、天下りのための特殊法人等にせっせと金を流し続けた。とうとう堪忍袋の緒が切れた国民は民主党を官僚組織に送りこむことに決めたのである。だから民主党は官僚組織と戦わざるを得ない。それが自らの権力の源泉だからである。戦うことをやめれば、権力の源泉を失い死に体となるだけだ。そして政権は自民党へ戻る。
   
 勝者は勝利の頂点に立ったその瞬間から敗北への道を辿る。盛者必衰、生者必滅、勝者はいつか敗者となり、敗者は勝者となる。かつて権勢を誇った者も敗者の烙印を押された者もその人生の前途は杳として知れない。そのようにして歴史は動いている。政治は恐ろしいほど凝縮された人間ドラマである。