大日本帝国の民主主義/坂野潤治・田原総一朗[小学館]

大日本帝国の民主主義

大日本帝国の民主主義

 

  大日本帝国にも民主主義はあった?

 あったに決まっとるだろう。何で大日本帝国議会ができたんだ普通選挙を採用したのだ。民主主義があったからだ。昭和20年までに選挙は何回も何回も行われたのだ。

 戦前から象徴天皇制のようなものだった?

 そりゃそうだろう。天皇が戦場の最前線で戦うのか。天皇が予算案を議会に提出するのか。天皇が裁判所で裁判官をやるのか。何もやらんだろう。やるのは天皇によって任命された軍人や官僚などだ。そして天皇はいちいち命令しない。もし命令した結果失敗したらどうする。天皇は責任を取って退位するのか。そんな事になってはいかんから何も口出さないで下さいと言うのが普通だろう。

 そもそもアメリカに勝てると思った人は少なかった?

 少ないというより、誰も勝てるとは思っていない。況や精神論では勝てない。しかし既に日本は満州や中国で多大な犠牲を払っている。そこに「ハル・ノート」を突きつけられる。やむを得ず戦って、すぐに和平に持ち込みたい。しかし日本人世論は「戦え戦え」である。もしここで何も得るものがなくやめてしまえば日露戦争後の日比谷焼き討ち事件の二の舞になる。

 と、ここまでは俺の考えであり本書の坂野教授も大体俺と似たような考えであるが、さすが近代史の泰斗だけあって明治から戦前までの複雑怪奇な大日本帝国の話がまるで居酒屋での気軽な話のようにスラスラとわかりやすく話されている。そしてそのわかりやすい話に乗ってズバリズバリと聞くのが「暴走老人より暴走的」な我らが田原総一朗であるから、まあ面白いの何ので結局1時間ほどで読み終えてしまった(まあ字も大きいし注釈も多いんですが)。

  

田原 あおりながら、最悪の事態は起きないと思っている。

坂野 アメリカたるものが、まさか日本と本気で戦争なんてしないだろうと日本人は思った。せめぎ合っても、どっかで終わるだろうと。

田原 なるほど。

坂野 だって、昭和19年の末から昭和20年の初めに集団疎開に行っていた小学六年生は、受験だからと言って疎開先から全員帰ってきて、受験勉強やるんですよ。中学校受験の。もうあと何か月で広島、長崎ですよ。それなのに、みんな集団疎開から帰ってきて、受験勉強していた。今みたいに義務教育ではないんですから。東京大空襲、深川で1万人死のうと、それが自分の明日だっていう感じは誰にも。

田原 ならない。

坂野 ちょっとノーテンキな国民でしょう。

田原 戦争突入しろ、と言いながら、そんな事なんてありえないと、みんなが思ってしまう。それで、いよいよ戦争だと。戦争中もいつかは終わると。そうこうしているうちに、どんどんエスカレートしていったと。

  

坂野 だから、原敬が西園寺首相の懐刀だった時は、総選挙の年には必ず政友会が権力を取ると。で、選挙が終わったら、はい、どうぞって桂太郎に返す。

田原 政権渡すんですか、政友会は。

坂野 で、四年後になると、選挙が近いから、返せと言って。だから、選挙すれば、政友会が必ず勝つ。

田原 勝つけども、政権は取らない。

坂野 政権は取るんです、短期に。総選挙の前に。

田原 短期だけ。で、その後は官僚達に返すわけですね。

坂野 返す。それで、唯一原敬が自分が総理になった時に、三年半ぐらい持ちます。なぜかと言ったら、第一次大戦後のあの好景気の時に、鉄道も作れます、大学も作れます、何でもできる時だから、ほとんど三年半ぐらいやった。それで、原敬は任期中に暗殺されてしまうんですけど、それがなかったら四年の任期終わった後に政権を返したでしょうね。

田原 そういうものですか。つまり、権力にはこだわらない。そのかわり、権力と取引はすると。

    

田原 今、自民党をはじめとする保守の人達が「伝統」と「文化」ということを盛んに言いますね。左翼は伝統と文化を軽視しているとか、文化と伝統を日本は失ってしまったと。伝統と文化が大事だと。自民党憲法改正案にも、中曽根さんはそれを前文には書きたかった。この「伝統」と「文化」って、何を指してるんでしょう。

坂野 わからない。だって、僕が言ってきたように、徳富蘇峰も言ってきたように、鎌倉幕府の頃から日本は象徴天皇制なんだから。伝統と言っても、それは靖国神社にはない。伝統は象徴天皇制で、嫌になるほどなあなあの世界なんです。

田原 なあなあの世界。象徴天皇というのはなあなあの世界ですね。

坂野 そうです。

田原 いささかも論理的ではない。

坂野 理論的ではない。その中に、保守の人達は教育勅語を持ってきて、ここに日本の文化と伝統が書いていると。なあなあの世界だから、逆に教育勅語を作ったわけでしょう。みんな一生懸命になって。憲法には万世一系も書き込んだんです。だから、日本人に彼らが言うような伝統はないんですよ。

日本政治の決算 角栄VS小泉/早野透[講談社:講談社現代新書]

日本政治の決算 (講談社現代新書)

日本政治の決算 (講談社現代新書)

  • 作者:早野 透
  • 発売日: 2003/12/21
  • メディア: 新書
 

  2003年。「自民党をぶっ壊す」と言いながら自民党総裁となった小泉は自民党政治、日本政治、いや日本そのものを変えつつあった。軽武装経済重点主義、政・官・業の癒着、年功序列、玉虫色、もたれあい、なあなあ、等、等、戦後の日本を支えてきたそれらがいまや限界を迎えている事を日本人は薄々わかっていた。しかし世界第二位の経済大国へと押し上げたそれら「日本人らしさ」を否定する事はできない。否定できないが限界を迎えている事はわかっている。どうする。このままではジリ貧である。そこにやってきた小泉純一郎と「構造改革」という言葉に日本人は熱狂した。日本を支えてきた「構造」そのものを改革する!それは限界が来ている今の日本の「構造」を改革し、鬱屈した思いを抱える我々を爽快にしてくれる良薬となるに違いない。拍手喝采はいつまでも続く。それが世界が羨む中流社会を崩壊させ、弱肉強食の格差社会へと繋がる事にほとんどの日本人は気付かなかった。いや、本当は気付ていたのかもしれない。しかしそれはそれだ、誰かが何とかしてくれるはずだ。

 話は2003年、いや更に10年前の1993年へと巻き戻る。この年の8月に自民党55年体制が崩壊し細川内閣が成立し、12月には田中角栄が死去した。角栄脳梗塞で倒れた1985年に既に「政治的には死んで」いたが、戦後日本の繁栄の象徴である角栄の「本当の死」は細川内閣成立と合わせて時代の転換を日本人に鮮やかに印象付けた。吉田・岸・池田が築き、田中角栄によって完成された戦後日本の見事な統治システム、それは「政治とは生活だ」。国民に三度の飯を保証し、外国との間に争いを起こさず、国民の邪魔になる小石を丹念に拾い、岩を砕いて道をあける。それだけでよい。箸の上げ下ろしには口出さない。だから道路が必要なら道路を作る。公共事業が必要なら公共事業をやる。補助金が必要なら補助金を出す。狭い国土にいかに均等に政治の恩恵を与えるか、である。しかしそれらは税金である。税金による利益誘導、それはどうなんだという声があちこちから膨れ上がるが、田中は意に介さない。「利益誘導はけしからんと言うが、東京の人間は冬に越後に来て屋根の雪下ろしをやってくれるのか。雪国の人間は死ねばいいんだと?馬鹿を言うな」「借金したって日本は大丈夫さ、日本人は働き者だから日本経済は永久に発展していくさ」。

 1993年、田中角栄によって完成された日本のシステムは田中が死んだ後も受け継がれていた。しかし海の向こうで冷戦が終了する。バブルが終わり日本経済は沈む。世界第二位の経済大国となった日本と日本人の間に「政治とは生活だ」の理想は徐々に薄れ、漫然と既得権益に政、官、業がしがみつくようになっていた。このままではいけない、自民党自体に緊張感がなくなってしまった、アメリカやイギリスのように二大政党制の中で政党に緊張をもたらさなければならないと立ち上がったのは田中角栄の弟子である小沢一郎である。1993年、同じく田中角栄の弟子達である羽田孜渡部恒三奥田敬和を引き連れて自民党を飛び出した小沢に日本新党を設立した細川護熙という幸運なカードが舞い込んだ。新党さきがけなどという青臭い連中もいたがやむを得ない、自民党が永遠に権力を握り続ける五十五年体制を壊すためだ。それに対抗したのも田中角栄の弟子達、梶山静六橋本龍太郎小渕恵三、そして竹下登である。自民党を壊すという激烈な手を使うのならこちらは細川・小沢連合から社会党を引きはがすのだ。政界は百鬼夜行、本物とお調子者が入り混じって熱を帯びる。

 田中角栄が完成させた安定的な昭和式日本システムに変わる平成式日本システムのため、田中角栄の弟子達が奔走する。力尽きた村山富市に変わって首相となった橋本龍太郎小渕恵三が悪戦苦闘する中で、小沢一郎も政党を作っては壊し、野党から与党へ、与党から野党へと悪戦苦闘する。しかし日本経済は「失われた十年」のフェーズに入り、いよいよ雲行きが怪しくなってきた。まだ平成式日本システムは完成されない。それはなぜか。昭和式日本システムを生んだ自民党的なもの、そして田中角栄的なものが日本全体に跋扈しているからだ。竹下登梶山静六小渕恵三といった弟子達が鬼籍に入り、角福戦争から幾歳月、2000年には森喜朗が、そして2001年には小泉純一郎が首相となる。「自民党をぶっ壊す」、それは「田中角栄による自民党的昭和式日本システム」を壊す事である。新時代が始まった。人々は熱狂的に小泉を支持した…。

 というわけでやはり田中角栄が絡むとどうしても口調が扇情的になってしまいますのでこのへんにしておきますが、政治とは「不安に満ち、試行錯誤を繰り返し、失敗を重ねながら、しかし体の中に未来を覚える」ものであり、「血が燃え血が逆流するようなドラマ」なのだ。だから政治は面白い。生涯興味が尽きる事はありません。

それでも田中角栄は不滅である/内海賢二[講談社]

それでも田中角栄は不滅である

それでも田中角栄は不滅である

 

 さて皆さんもお気付きの通り俺は親・田中角栄、田中シンパである。なので田中角栄と名のつく本はついつい買って読んでしまう。とは言えあからさまに田中礼賛本ばかり読んでいると飽きてくるので田中に批判的な本も読む。そこで本書であるが、タイトルを見れば明らかに田中礼賛本の匂いがするが刊行年月は「1986年2月」とある。1986年2月と言えば竹下・金丸の創政会結成による田中派分裂と田中角栄倒れる、が同時に起きた1985年2月からちょうど一年が経った時であって、田中は娘・真紀子の手によって半ば強引に政界の第一線から離脱させられ、私邸でリハビリに励んでいた時である。あれだけ華やかで豪勢で、田中支配の象徴だった元日の「目白詣で」も1986年の元日にはなくなってしまった。もはや田中の復帰は百に一つもないだろう、しかしそれまで長きに渡り「田中派支配」が常識だった自民党、いや日本政治は突然の主役不在に戸惑っている。そこで長年「田中ウォッチャー」として田中角栄の動きを観察してきたジャーナリスト(?)である作者が、田中角栄的政治について改めて考察しようとしたのが本書である。

 とは言えジャーナリスト(?)である作者の著書はこれ一冊のみ(国立国会図書館サーチ他で検索済み)であり、内容も新聞記事や週刊誌・月刊誌記事を寄せ集めてそれらをうまくまとめたという程度で、政治の裏の裏にせまる、というような迫力は感じられない。俺の推測だが、新聞記者か田中派に近い関係者、が小遣い稼ぎに偽名を使って書いたのだろう。とは言え天下の講談社発行なだけあって、あからさまな田中礼賛本ではない。冷静に、田中支配という事実とその背景を追っており、当時の政治・政局についてのまとめ、参考にはなる。

 田中が金脈問題によって首相を辞任したのは1974年12月であり、その時田中はまだ56歳であった。ライバルである三木武夫67歳、福田赳夫69歳、大平正芳64歳。中曽根康弘は同じ56歳であるが、風見鶏稼業が災いして党内の人気はゼロである。自分にはまだ若さと体力があり、総理総裁の座を下りたものの自民党最大派閥を擁している。数年の間おとなしくしていれば復活のチャンスは十分にあるはずであり、その時こそ過密と過疎を同時に解消する「日本列島改造論」に再チャレンジしたい。

 しかしロッキード事件は全てを狂わせる。身に覚えがない、自分は潔白だと裁判へと突き進むが、世論の非難は鳴りやまず、田中派のみならず自民党そのものが崩壊の危機に立たされ、やむなく田中は離党、一介の無所属議員となる。しかしいつの日か必ず汚名を晴らし、再び首相の座を射止めてみせる。そのため田中が選択したのは飽くなき派閥膨張作戦である。国会議員の数は衆議院511・参議院252の763議席であるから(当時)、過半数の382議席を取った政党が政権を担う事ができる。という事はその382議席の更に過半数である192議席を確保すればその政党を意のままにする事ができる。数こそが力である。1977年12月には76人しかいなかった(衆45、参31)田中派はその後「木曜クラブ」と衣替えした段階(1980年10月)で93人となり、更に無派閥・中間派を積極的に受け入れる事で以下のように勢力を拡大する。

・1980年12月…101人

・1981年12月…108人

・1982年12月…109人

・1983年12月…115人

・1984年12月…121人

 そうして田中が倒れる直前の1985年2月には123人にまで膨れ上がった。他派閥にとっては脅威である。もちろん田中派以外の全派閥が団結すれば田中派を跳ね返す事は形式的には可能だが、田中の強力なカリスマ性、「党人派の皮をかぶった官僚派」とまで言われるほど官僚機構に食い込んでいる安定感、角福戦争での連戦連勝(ポスト佐藤での田中の勝利、自民党総裁選における大平の勝利、四十日抗争逃げ切りによる第二次大平政権発足、ポスト鈴木での中曽根の圧勝、等)を前にして今や向かうところ敵なし、入会希望者はひっきりなしであった。

 しかし田中派支配は盤石に見えて徐々に変質していく。田中派結成当初に参加した議員たちは田中角栄という強烈な個性とオーラに魅了され馳せ参じた「直参」であるが、次第に田中そのものよりも総合病院・田中派に魅力を感じて田中派に草鞋を脱ぐ「外様」が増えていき、派閥拡大に意欲を燃やす大将によって派内にその「外様」は増えていく一方であった。一つの組織に百人を超える人間達が集まり、しかも皆が選挙を勝ち抜いてきた「一国一城の主」達である。「直参」にプライドがあるように「外様」にもプライドがある。微妙な力関係・人間関係は風通しの悪さとなり、それは円滑な組織運営を妨げる。1985年、田中は66歳になっていた。総理総裁を目指す竹下登も60歳を超えた。憑かれたように派閥拡大に執念を燃やす角栄は一つの選挙区に田中派の候補者同士を競合させ当選させるという「角・角戦争」まで許容する。その角栄に忠告できない田中の側近たち。時は来た。田中を長年支えてきた竹下・金丸、田中派「直参」である橋本龍太郎小渕恵三梶山静六小沢一郎羽田孜、等がいよいよ行動を起こす。「跡目相続人に竹下を認めよ」。田中角栄の時代が終わりを迎えようとしていたのである…。

 と、田中角栄の事になるといやでも筆が進んでしまうのでいけませんが、この当時の「田中そのものよりも総合病院・田中派に魅力を感じて田中派に草鞋を脱ぐ」動きについて詳しく書かれているところが感情的な田中礼賛本・田中批判本にはない優れた部分であります。いつかは俺も田中角栄をめぐる政治史を物にしたいと考えておりまして、その時はまた本書を読み直す事になるでしょう。

本のリストの本/南陀桜綾繁・書物蔵・鈴木潤・林哲夫・正木香子[創元社]

本のリストの本

本のリストの本

 

  生活や仕事で必要となる以上の本を読む人、いわゆる「度を越した読書家」「本の虫」「書痴」等々、言い方は色々あるが、そういう種類の人が世の中には一定数いるわけだが、そういう人達が本を読むスピードがべらぼうに早いわけではない。ごく一部の特殊な人だけが次から次へと本を読む事ができ内容を頭にインプットできるのであって、それ以外の大部分の人達にそんな能力はなく、且つ働いているのだから、一日で一冊か二冊読むのが関の山である。しかしそういう人に限って次から次へと本を買う。読んでいない本(積読本)が家にたんまりとあるのに性懲りもなく本屋や古本屋に行って「面白そうだ」「何となく気になる」「昔買ったかもしれんが家のどこにあるかわからんのでとりあえず買っとけ」等々の理由で買うのである。

 しかし本屋古本屋で買うのは所詮は視界に入った範囲のものであって、視界に入らなかったもの、或いは売り切れ・絶版になったもので「面白そうだ」「何となく気になる」「昔買ったかもしれんが家のどこにあるかわからんのでとりあえず買った方がいい」本があるのかもしれない。そのため「度を越した読書家」「本の虫」「書痴」は新聞・雑誌に紹介されている本をチェックしたりメモしたりするが、それらは新刊に限定されているから片手落ちである。新刊ではない、場合によっては絶版になっているもので、しかし「面白そうだ」「何となく気になる」「昔買ったかもしれんが家のどこにあるかわからんのでとりあえず買った方がいい」本が世の中にはあるのである。「度を越した読書家」「本の虫」「書痴」はなぜかそう信じている。そのため「好きな作家の著作を全て読む」ためにその作家の全著作リストを見るのであり、「好きなジャンルや分野、興味のあるジャンルや分野の本を全て読む」ために関連する書誌・年鑑等を見るのである。

 そのようにして「度を越した読書家」「本の虫」「書痴」は、「本のリスト」にどことなく愛着を覚え、次第に色んなリストを見たい気もしてくる。「好きな作家の愛読書」や「落ち込んだ時に読めば気分が晴れる本」といったオーソドックスなリストもいいが、もっとニッチでマイナーなリスト、或いはこれまでにない切り口のリストも見てみたい。そうしてまだ出会っていない、しかし「面白そうだ」「何となく気になる」「昔買ったかもしれんが家のどこにあるかわからんのでまだ出会ってないのでとりあえず買った方がいい」本がある事を知れば、「度を越した読書家」「本の虫」「書痴」は喜ぶのである。

 というわけで前置きが長くなったが本書は「度を越した読書家」「本の虫」「書痴」にとっては実に楽しい本であった。「名曲喫茶に積まれていた本のリスト」「新潟県を舞台にした文学作品のリスト」「本好きの子供、そして大人も一緒に読みたい本のリスト」「(戦時中に)国が価格設定した古本のリスト」「戦前の新聞雑誌全てのリスト」等によって、面白そうだ、何となく気になる、或いはそういうテーマだから出会う事ができた本が載せられており、ワクワク感がたまらない。またそのリストの背景にその人の人生の一部分が投影されている場合もあり(「ランボーがアフリカで母親にせがんだ本のリスト」「戦没学生達の手記に残された本のリスト」等)、本と人が長い年月をかけて築いてきた信頼関係の強さを感じる事ができよう。本は所詮、本でしかないのに、その選択の前提、手法、或いは思い入れによって、リストに載った時に魅力的に輝いてしまうのである。何とまあ不思議な事だが、それが本と人がここまで共存共栄できた理由なのだ。「〇〇に関する本のリスト」…いい響きですねえ。

   

 というわけで俺も「私を作った十冊の本たち(リスト)」を作ってみました。高校・大学時代以来繰り返し読んでいる本で、①②が政治、③~⑤が筒井康隆及びSF、⑥~⑨がラブコメ、⑩がその他です。

①「田中角栄VS竹下登鈴木棟一講談社講談社+α文庫)

②「小説 吉田学校」「小説 永田町の争闘」戸川猪佐武角川書店(角川文庫)

③「脱走と追跡のサンバ筒井康隆角川書店(角川文庫)

④「虚航船団」筒井康隆、新潮社

⑤「SFアドベンチャー徳間書店

⑥「ふたりエッチ」克・亜紀、白泉社(JETS COMICS)

⑦「聖凡人伝」松本零士小学館小学館文庫)

「みゆき」あだち充小学館(少年ビックコミックス)

⑨「ストップ!ひばりくん!!」江口寿史双葉社双葉文庫

⑩「三四郎夏目漱石角川書店((角川文庫)

辞任の理由

 権力者は強くなければならない。そうでなければ側近や味方が離れてしまうからであり、政敵にやられてしまうからであり、また国民から支持されないからである。病気を抱えながらでは同情を誘う事はできるかもしれないが、国民の生命と財産を託すに足る人物とは映らない。そのためもし病気であれば徹底的に隠さなければならず、現在の政権とひ弱なマスコミの関係では隠す事は容易にできるはずである。しかし安部首相は白昼堂々、2回も物々しく病院を訪れた。これでは健康不安をわざわざ印象付ける事になるが、そこが政権側の狙いである。7年以上に渡り政権を握り、任期が残り1年を切ろうとしているのに経済は落ち込み、アメリカのトランプ大統領が再選されなければ外交はより一層難しくなり、史上最低の首相となる可能性がある。しかしそれら失政による辞任ではなく病気が理由の辞任であれば自分のダメージは少なくなり、次期政権は「本格政権」ではなく「緊急避難の政権」となるのだからスムーズに自分の政権と同じ路線を継承させる事ができ、状況によっては影響力を行使する事ができよう。そのため健康に不安があるように見せ、「病気なのだから辞めるのも仕方ない」という世論を醸成する事に力を注いできた。

 しかしながらこんなに早く辞めては影響力どころではない。これではいかにも重い病気という印象を国民に抱かせ、この先もし回復する事があっても、「またいつ再発するかわからない」人間に再び権力の座を与える事は不可能に近い。という事はそれほどまでにひどい状態にあるかもしれない。しかし第一次政権の時と違って辞意表明後も入院する事はなく執務可能だという。という事は体力面ではなく気力面での問題が辞任へと導いたと考えるのが自然である。

 安部政権は「やっている感」を出すばかりで成果がないというのはなるほどその通りだが、より正確に言えば、国家の行く末を左右し、且つ政治的な判断が必要となる課題については何もしてこなかったという事である。自身が言ったように拉致問題北方領土問題も憲法改正も今後の日本の運命を左右する大きな政治課題であり、それらは見事に宙ぶらりんの現状維持のまま終わったが、一方で安保法制や消費税増税東京オリンピックや、最近で言えば「GO TOキャンペーン」等の、アメリカや官僚や利権がらみの団体が積極的に動く政策については実現させているのである。言わば反対されるリスクを恐れ、国論を二分する論争に乗り込む勇気はなく、祖父・岸信介のような自主独立の気概はなく、ただ「官邸官僚」やその他側近たちに任せた政権運営を行っていたのであり、それでも非力な野党に助けられ選挙で負ける事はなかった。

 ところがコロナ禍にそのような手法は通用しない。憲法改正に勝るとも劣らない難しい政治課題が押し寄せるが、アベノマスク配布にしろ閣議決定した支給金の変更にしろことごとく失敗に終わる。そしてそれらは現状維持で宙ぶらりんのままにするわけにはいかない。森友、加計、桜を見る会、河合夫妻の買収容疑、等の問題は官僚に忖度させ関係者を買収すればいい話だが、ウイルスには通用しない。コロナさえなければ2020年の東京オリンピックに合わせてアベノミクスの成果を世界中にアピールし、在任記録が憲政史上となったところで「禅譲」等の次の一手を考える事も可能だったはずであるが、その目論見が崩れたのである。

 東京オリンピックは1年延期であり2021年7月時点であればまだ安部首相の任期内だが、今やこのコロナの猛威が1年以内に収束するとは誰も思わない。これから冬になればいよいよインフルエンザがやって来るのであり、東京オリンピックのための金と人手をコロナ対策に振り向ける事を国民は要求するであろう。それらに対して、「大きな政治課題を宙ぶらりんにしておく」政権が対応できるわけがなく、またその気力ももはやなくなったのであろう。だから辞任の理由は病気云々ではなく、そもそもが国民の生命と財産を任せるに足る首相ではなかったから辞任する事になったのである。