それでも田中角栄は不滅である/内海賢二[講談社]

それでも田中角栄は不滅である

それでも田中角栄は不滅である

 

 さて皆さんもお気付きの通り俺は親・田中角栄、田中シンパである。なので田中角栄と名のつく本はついつい買って読んでしまう。とは言えあからさまに田中礼賛本ばかり読んでいると飽きてくるので田中に批判的な本も読む。そこで本書であるが、タイトルを見れば明らかに田中礼賛本の匂いがするが刊行年月は「1986年2月」とある。1986年2月と言えば竹下・金丸の創政会結成による田中派分裂と田中角栄倒れる、が同時に起きた1985年2月からちょうど一年が経った時であって、田中は娘・真紀子の手によって半ば強引に政界の第一線から離脱させられ、私邸でリハビリに励んでいた時である。あれだけ華やかで豪勢で、田中支配の象徴だった元日の「目白詣で」も1986年の元日にはなくなってしまった。もはや田中の復帰は百に一つもないだろう、しかしそれまで長きに渡り「田中派支配」が常識だった自民党、いや日本政治は突然の主役不在に戸惑っている。そこで長年「田中ウォッチャー」として田中角栄の動きを観察してきたジャーナリスト(?)である作者が、田中角栄的政治について改めて考察しようとしたのが本書である。

 とは言えジャーナリスト(?)である作者の著書はこれ一冊のみ(国立国会図書館サーチ他で検索済み)であり、内容も新聞記事や週刊誌・月刊誌記事を寄せ集めてそれらをうまくまとめたという程度で、政治の裏の裏にせまる、というような迫力は感じられない。俺の推測だが、新聞記者か田中派に近い関係者、が小遣い稼ぎに偽名を使って書いたのだろう。とは言え天下の講談社発行なだけあって、あからさまな田中礼賛本ではない。冷静に、田中支配という事実とその背景を追っており、当時の政治・政局についてのまとめ、参考にはなる。

 田中が金脈問題によって首相を辞任したのは1974年12月であり、その時田中はまだ56歳であった。ライバルである三木武夫67歳、福田赳夫69歳、大平正芳64歳。中曽根康弘は同じ56歳であるが、風見鶏稼業が災いして党内の人気はゼロである。自分にはまだ若さと体力があり、総理総裁の座を下りたものの自民党最大派閥を擁している。数年の間おとなしくしていれば復活のチャンスは十分にあるはずであり、その時こそ過密と過疎を同時に解消する「日本列島改造論」に再チャレンジしたい。

 しかしロッキード事件は全てを狂わせる。身に覚えがない、自分は潔白だと裁判へと突き進むが、世論の非難は鳴りやまず、田中派のみならず自民党そのものが崩壊の危機に立たされ、やむなく田中は離党、一介の無所属議員となる。しかしいつの日か必ず汚名を晴らし、再び首相の座を射止めてみせる。そのため田中が選択したのは飽くなき派閥膨張作戦である。国会議員の数は衆議院511・参議院252の763議席であるから(当時)、過半数の382議席を取った政党が政権を担う事ができる。という事はその382議席の更に過半数である192議席を確保すればその政党を意のままにする事ができる。数こそが力である。1977年12月には76人しかいなかった(衆45、参31)田中派はその後「木曜クラブ」と衣替えした段階(1980年10月)で93人となり、更に無派閥・中間派を積極的に受け入れる事で以下のように勢力を拡大する。

・1980年12月…101人

・1981年12月…108人

・1982年12月…109人

・1983年12月…115人

・1984年12月…121人

 そうして田中が倒れる直前の1985年2月には123人にまで膨れ上がった。他派閥にとっては脅威である。もちろん田中派以外の全派閥が団結すれば田中派を跳ね返す事は形式的には可能だが、田中の強力なカリスマ性、「党人派の皮をかぶった官僚派」とまで言われるほど官僚機構に食い込んでいる安定感、角福戦争での連戦連勝(ポスト佐藤での田中の勝利、自民党総裁選における大平の勝利、四十日抗争逃げ切りによる第二次大平政権発足、ポスト鈴木での中曽根の圧勝、等)を前にして今や向かうところ敵なし、入会希望者はひっきりなしであった。

 しかし田中派支配は盤石に見えて徐々に変質していく。田中派結成当初に参加した議員たちは田中角栄という強烈な個性とオーラに魅了され馳せ参じた「直参」であるが、次第に田中そのものよりも総合病院・田中派に魅力を感じて田中派に草鞋を脱ぐ「外様」が増えていき、派閥拡大に意欲を燃やす大将によって派内にその「外様」は増えていく一方であった。一つの組織に百人を超える人間達が集まり、しかも皆が選挙を勝ち抜いてきた「一国一城の主」達である。「直参」にプライドがあるように「外様」にもプライドがある。微妙な力関係・人間関係は風通しの悪さとなり、それは円滑な組織運営を妨げる。1985年、田中は66歳になっていた。総理総裁を目指す竹下登も60歳を超えた。憑かれたように派閥拡大に執念を燃やす角栄は一つの選挙区に田中派の候補者同士を競合させ当選させるという「角・角戦争」まで許容する。その角栄に忠告できない田中の側近たち。時は来た。田中を長年支えてきた竹下・金丸、田中派「直参」である橋本龍太郎小渕恵三梶山静六小沢一郎羽田孜、等がいよいよ行動を起こす。「跡目相続人に竹下を認めよ」。田中角栄の時代が終わりを迎えようとしていたのである…。

 と、田中角栄の事になるといやでも筆が進んでしまうのでいけませんが、この当時の「田中そのものよりも総合病院・田中派に魅力を感じて田中派に草鞋を脱ぐ」動きについて詳しく書かれているところが感情的な田中礼賛本・田中批判本にはない優れた部分であります。いつかは俺も田中角栄をめぐる政治史を物にしたいと考えておりまして、その時はまた本書を読み直す事になるでしょう。