辞任の理由

 権力者は強くなければならない。そうでなければ側近や味方が離れてしまうからであり、政敵にやられてしまうからであり、また国民から支持されないからである。病気を抱えながらでは同情を誘う事はできるかもしれないが、国民の生命と財産を託すに足る人物とは映らない。そのためもし病気であれば徹底的に隠さなければならず、現在の政権とひ弱なマスコミの関係では隠す事は容易にできるはずである。しかし安部首相は白昼堂々、2回も物々しく病院を訪れた。これでは健康不安をわざわざ印象付ける事になるが、そこが政権側の狙いである。7年以上に渡り政権を握り、任期が残り1年を切ろうとしているのに経済は落ち込み、アメリカのトランプ大統領が再選されなければ外交はより一層難しくなり、史上最低の首相となる可能性がある。しかしそれら失政による辞任ではなく病気が理由の辞任であれば自分のダメージは少なくなり、次期政権は「本格政権」ではなく「緊急避難の政権」となるのだからスムーズに自分の政権と同じ路線を継承させる事ができ、状況によっては影響力を行使する事ができよう。そのため健康に不安があるように見せ、「病気なのだから辞めるのも仕方ない」という世論を醸成する事に力を注いできた。

 しかしながらこんなに早く辞めては影響力どころではない。これではいかにも重い病気という印象を国民に抱かせ、この先もし回復する事があっても、「またいつ再発するかわからない」人間に再び権力の座を与える事は不可能に近い。という事はそれほどまでにひどい状態にあるかもしれない。しかし第一次政権の時と違って辞意表明後も入院する事はなく執務可能だという。という事は体力面ではなく気力面での問題が辞任へと導いたと考えるのが自然である。

 安部政権は「やっている感」を出すばかりで成果がないというのはなるほどその通りだが、より正確に言えば、国家の行く末を左右し、且つ政治的な判断が必要となる課題については何もしてこなかったという事である。自身が言ったように拉致問題北方領土問題も憲法改正も今後の日本の運命を左右する大きな政治課題であり、それらは見事に宙ぶらりんの現状維持のまま終わったが、一方で安保法制や消費税増税東京オリンピックや、最近で言えば「GO TOキャンペーン」等の、アメリカや官僚や利権がらみの団体が積極的に動く政策については実現させているのである。言わば反対されるリスクを恐れ、国論を二分する論争に乗り込む勇気はなく、祖父・岸信介のような自主独立の気概はなく、ただ「官邸官僚」やその他側近たちに任せた政権運営を行っていたのであり、それでも非力な野党に助けられ選挙で負ける事はなかった。

 ところがコロナ禍にそのような手法は通用しない。憲法改正に勝るとも劣らない難しい政治課題が押し寄せるが、アベノマスク配布にしろ閣議決定した支給金の変更にしろことごとく失敗に終わる。そしてそれらは現状維持で宙ぶらりんのままにするわけにはいかない。森友、加計、桜を見る会、河合夫妻の買収容疑、等の問題は官僚に忖度させ関係者を買収すればいい話だが、ウイルスには通用しない。コロナさえなければ2020年の東京オリンピックに合わせてアベノミクスの成果を世界中にアピールし、在任記録が憲政史上となったところで「禅譲」等の次の一手を考える事も可能だったはずであるが、その目論見が崩れたのである。

 東京オリンピックは1年延期であり2021年7月時点であればまだ安部首相の任期内だが、今やこのコロナの猛威が1年以内に収束するとは誰も思わない。これから冬になればいよいよインフルエンザがやって来るのであり、東京オリンピックのための金と人手をコロナ対策に振り向ける事を国民は要求するであろう。それらに対して、「大きな政治課題を宙ぶらりんにしておく」政権が対応できるわけがなく、またその気力ももはやなくなったのであろう。だから辞任の理由は病気云々ではなく、そもそもが国民の生命と財産を任せるに足る首相ではなかったから辞任する事になったのである。