ナチス追及/望田幸男[講談社:講談社現代新書]

ナチス追及―ドイツの戦後 (講談社現代新書)

ナチス追及―ドイツの戦後 (講談社現代新書)

 イッツ・ア・レジスタンス。即ちレジスタンス。今の俺に必要なのはレジスタンス=抵抗である。とにかく今年は色んな本を読みそして死ぬのだ(とか言って死なないくせに)。ラブコメ増量でそれ以外は倍増である。何といってもいつ死ぬかわからんし(とか言って死なないくせに)いつクビになるかわからんし(まあこれは大いにありえる)いつテロに遭うかわからんからな。兵を養うこと千日、用いるは一朝にあり。
 さて本書は第二次大戦後のドイツ及び世界におけるナチスの生き残りについて書かれたものである。ナチスの生き残りで逃亡を企てたものは世界の果てまで追われ償いを強制されたが、それはいわゆる「高級幹部たち」に限られ、一般の党員や下級将校レベルにはほとんど何の断罪もなかったという。むしろ冷戦が激しさを増すと「反共」のため旧ナチスの行政官などは大目に見られたというのはどこか日本の戦後と似ていよう。
 ヒトラーが歴史において常に注目されるのは彼が選挙によって合法的に政権を獲得したということである。そしてこれは「選挙原理主義者」とまで揶揄される俺にとって頭の痛い問題であるが、俺のことはともかく実際にヒトラーを選択したドイツ国民の自責の念は相当なものであることは容易に想像できよう。前述のように例え元ナチスとしての追及がなかったとしても「ヒトラーを選んだ国民」としての世界と未来からの追求は常にのしかかってくるわけであり、それがドイツの戦後史に絶えず影響を与えてきたことが本書から読み取れる。何せナチスというのは草の根的にドイツ国民に広がっていたのであり、父や祖父がナチス党員であったことから起こる「家庭内での戦争責任論争」は凄絶である。
 さて一方日本である。俺を含めた日本人が中国や韓国に加害者意識を持っていないのはそれが一般人とは違う「兵隊」によって行われた行為であり、「兵隊」はナチスのように草の根的国民運動的な支持を得ていないからである。且つナチスユダヤ人に対するような「無差別にして国家規模的な大量殺人」は決して行っていない。要するに悪いのは軍国主義と軍人であって一般の日本人は何にも悪くないどころか、軍人たちによって物資は統制され戦場に連れて行かれ最後には原爆まで呼び寄せられたのであって自分たちも被害者であるということなのである。
 ここにドイツと日本の違いがあるのであって、ナチスはドイツをナチス化したが、ナチスを模倣したとされる大政翼賛会は日本全体を大政翼賛会化することなど到底できなかったのである。当時の人々は町内会や自治会を通じて何らかの形で大政翼賛会につながっていたらしいのだが、日本人にナチス党員のような党の考えや思想に共鳴する者は皆無であった(そもそも「党」ではなく「会」というところに明らかな弱さがある)。いわば無自覚にして曖昧であり、仮に大政翼賛会に共鳴した人々がいたとしても政治の実権はあくまで陸軍が握っており何の意味もなかったであろう。それゆえ、日本人には「戦争に加担した」という意識が皆無なのである。そしてもちろん、軍部が実権を握ったことに対してマスコミや世論が沈黙の支持を与えたことは忘れて。
 「戦争犯罪」には、「平和に対する罪」と「人道に対する罪」がある。これは勝者の敗者に対する一方的な制裁であるニュルンベルグ裁判によって提唱されたものであるが、作者は裁判自体に疑問を呈しつつもこの考え方については「以後の国際紛争などはこの考えに基づき人道に対する罪などを国際的に糾弾する流れを作った」と評価している。なるほど確かにその通りかもしれぬ。しかし俺は問いたい。一体いつまで「戦後」は続くのか。或いは我々ドイツ人及び日本人は、たとえ千年経とうと過去に縛られなければならないのか、と。