ヒトラーの抬頭 ワイマール・デモクラシーの悲劇/山口定[朝日新聞社:朝日文庫]

ヒトラーの抬頭―ワイマール・デモクラシーの悲劇 (朝日文庫)

ヒトラーの抬頭―ワイマール・デモクラシーの悲劇 (朝日文庫)

 第二次世界大戦を巻き起こしユダヤ人大虐殺を行ったヒトラーが、ドイツにおいて合法的に政権を獲得した(つまり民衆に支持された)ことは人類が永遠に記憶しなければならない汚点である。なぜヒトラーは民主主義国家のドイツで首相となれたのか。それはヒトラー個人のカリスマ性だけで説明できるものではなく、わずか18年しか続かなかったドイツ民主共和国(ワイマール共和国)の脆弱性にもその原因があるというのが本書の主張である。つまりワイマール体制とそれを支える人々がもっと強固なものであったなら、その後の悲劇を防ぐことも不可能ではなかったのである。
 ワイマール共和国はその始まりからして非常に「せっかち」なものだった。1918年秋、第一次世界大戦でのドイツ帝国の敗北は目に見えていたが、それでも「総力戦」の名の下にドイツの政治権力は軍部にあって、皇帝、帝国宰相、政党幹部、大資本家は軍事独裁を甘受していた。だが11月9日に「平和・自由・パン」のプラカードを掲げた大量の労働者たちのデモが発生、警官は武器を捨て、兵士たちは兵営の門を開いてこれに合流するか、或いは中立を宣言した。これに素早く反応したのが社会民主党の幹部たちで、もしここでこの労働者蜂起に反対するようなことがあれば旧体制として見捨てられ政治生命を失うことになり、またこれ以上労働者の蜂起が増加するようなことがあればロシア革命の二の舞にもなろう。社会民主党幹部のシャイデマンは独断で「共和国」の宣言を行い、一瞬にしてドイツ帝国ドイツ民主共和国へと変貌を遂げたのである。
 しかしながら「『共和国』の宣言」だけではドイツを統治する実質的な権力構成は何ら変わらなかった。何よりドイツ帝国の軍部の力は社会民主党よりも絶大なもので、また労働者による革命の危機が現実味を帯びている状況において同党は軍部との提携なしに政権を維持できなかった。「地球上で最も自由で、民主的な憲法」を採択した後もこの構図は変わらず、これがワイマール体制を脆弱なものにしていくのである。
 その後ドイツを驚異的なインフレが襲うが、これとヒトラーの抬頭は関係がない。ヒトラーは1923年11月の「ビアホール一揆」に失敗して刑務所に入るも快適な生活を保障された上にわずか9ヶ月で釈放(1924年12月)されるが、その頃のドイツはインフレの収束と共にワイマール体制が根付くかと思われていた。だが「不吉な底流」は目の届かないところで確実に動いていて、一つは社会民主党やその他の民主主義勢力が相変わらず軍部に対して何の力も持ち得ず、国防軍が密かに再軍備を図っていたことであり、もう一つはヒトラーが「党と突撃隊の最高指導者にして国民社会主義ドイツ労働者党議長」として党組織の頂点に立ち、「合法路線」に徹して組織の整備と拡充を図っていたことであった。もちろんこの「合法路線」という言葉は「(政権を獲得するまでは)合法」という意味で、後にヒトラー内閣の宣伝相となるゲッペルスはこう言っている。「我々は、議会制度が提供する特権を利用して議会政治を打倒する」「ちょうど狼が羊の群れに入っていくように、我々は議会に入っていく」。
 この「不吉な底流」に気付くことなく、1929年10月のウォール街大恐慌によりドイツ経済は失速、失業率は信じられない数字となった(1929年:14%→1930:22%→1931:34%→1932:44%)。もはや手の施しようのない経済状況の中で社会民主党は軍部や野党(極右のナチスから極左共産党まで)の猛反発や大統領(かつてのドイツ帝国軍部の将軍)の信頼を失い、「政権を担当して自らの危機打開の道を見出そうとする意欲がなくなって」しまうのである。そして1930年3月に成立したブリューニング内閣からは議会制デモクラシーにのっとって各政党間の話し合いによって内閣が誕生するのではなく、軍部の工作によって内閣が生まれることになる。「議会が階級対立によって引き裂かれ、首相の選任や正常な立法活動の遂行の任にたえなくなっている現在では、大統領がこれに代わって首相を決定し、緊急命令による立法活動を行うのは当然である」というのが政党を排除する理由であるが、その実態は「80歳を超えた元帝政軍部元帥の大統領と、それを取り巻く軍首脳、高級官僚、大資本家たちによる独裁」でしかなかった。いよいよワイマール共和国の崩壊が始まったのである…。
 長々と歴史の歩みを書いても仕方がないのでこのあたりにしておくが、本書において注目すべきはヒトラーではなく、ワイマール・デモクラシーを守ることができなかった社会民主党であろう。同党はブリューニング内閣の政策について断固として反対することは最後までしなかった。ブリューニング内閣が議会政治を無視して成立したものだとしても、それはヒトラーナチスに比べれば「より小さな悪」であり、ヒトラーの政権掌握を防ぐためにはこれを支持することもやむを得ないと判断してこの時期を無気力に過ごすしかなかった。だがブリューニング内閣はもはや政権の実権を握っておらず、実質的な権力は国防軍にあり、その国防軍の実力者シュライヒャーはヒトラーと秘密交渉をしていた。社会民主党がやるべき事はただ一つ、国防軍を解体して文民統制の下で首相や国防省が彼らをコントロールすることであったが、もはや時既に遅く何ら有効な手は打てなかった。ブリューニング内閣が倒れ、ヒトラーが大統領選挙で敗れても同党は抵抗らしい抵抗もできず、選挙民の支持はナチスへと急激に移っていく。それを作者は「当時の社会民主主義にとりついていた伝統的な思考様式による呪縛」と指摘して次のように要約している。現在の我々が読んでも非常に示唆に富んでいよう。
 一、制度主義的な発想による組織至上主義もしくは組織保守主義。そこでは現存組織への安住が行動を呪縛する。二、議会主義や法治国家に対する制度主義的信仰。そこでは、形式主義的思考が危機における行動を呪縛する。三、階統制(ヒエラルヒー)的思考。そこでは、組織や指導者や「上から」の指示が来なければ、行動できなくなる。四、進化論的進歩信仰。そこでは、「歴史は必ず進歩をもたらし」、「理性は必ず勝利する」という信仰が奈落への予知能力を麻痺させる。五、啓蒙主義人道主義。そこでは、「理性」もしくは「精神の優位」に対する楽観主義的信仰が、暴力による攻撃を前に途方に暮れさせることになる。六、歴史的類推思考。そこでは、過去の歴史的事例の分析が目前の現状分析によって代えられ、「歴史の教訓」を語ること以上に、分析が進まない。
 1933年1月30日にヒトラーは首相に就任。直後の3月の選挙ではナチスだけでは過半数は獲得できず(647議席中288議席)、社会民主党は120議席共産党は81議席を獲得し善戦したが、ヒトラーは議会に「四年間の独裁権を彼に与えることを要求した授権法」を提出、社会民主党の反対も空しく、ナチス及び親ナチスの政党の賛成多数によって可決される。6月3日には「一部のグループの反逆罪にあたる行動を放置した」として社会民主党の活動を全面的に禁止する命令を出した。そして7月14日には「政党の新設を禁止する法律」が出され、これ以後政党は「国民社会主義ドイツ労働者党」ただ一つしか存在を許されず、新たに政党の結成を企てる者は六ヶ月から三年の禁錮に処せられることになった。ドイツ民主共和国は終わり、ヒトラー率いる「ドイツ第三帝国」が始まった。