スターリン秘録/斉藤勉[扶桑社:扶桑社文庫]

スターリン秘録 (扶桑社文庫)

スターリン秘録 (扶桑社文庫)

 アドルフ・ヒトラーに対して「二十世紀の大悪魔」とこの世の限りの罵詈雑言を浴びせるくせに、ヒトラー以上の大殺戮を行ったヨシフ・スターリンについては臭いものに蓋をするように触れたがらない人が多いことを昔から不思議に思っていた。第二次世界大戦のドキュメンタリー映像等によく出てくるヒトラーの派手なパフォーマンスは時に滑稽ですらあるが、万事控えめなスターリンが情け容赦なく大粛清を行ったという事実に本質的な恐怖を感じるからかもしれない。しかしながらこの男によって世界は東西冷戦体制となり、それにより悲劇は繰り返された。その影響力はヒトラーの並みではない。
 1922年の共産党書記長就任から1953年の死去までの31年間ソ連の実権を握り、世界を戦争と陰謀の渦に巻き込んだ男について簡潔に書くことは難しい。大粛清、独ソ戦、日ソ中立条約、ヤルタ・ポツダム会談、ベルリン封鎖朝鮮戦争のそれぞれの詳細を追うだけで人生を棒に振るだけの時間が費やされてしまうからであるが、本書ではスターリンによる歴史の経過を大まかに述べてから今まで語られることのなかった「秘録」に言及することで、読者は常に情報量に圧倒されることなく読むことができ、また第二次世界大戦を本格的に勉強しようとする俺にとって大変いいものであった。
 1917年の11月革命でロシアに新政権(ソビエト政権)が生まれ、最高権力を手にしたレーニンの秘書役として裏方活動に徹しながらスターリンは次第に権力奪取を目指して1922年には共産党書記長に就任するが、当時それは「事務方の責任者」程度の認識でしかなかった。ところが盗聴システムを設置し、病に倒れたレーニンの間隙を縫うように全権を掌握、レーニンの死後は宿敵・トロツキーの追放を皮切りに次々と政府・党・軍の幹部を逮捕、そして殺害していくのである。「わしの人生最大の楽しみは、敵を暴き、十分に準備して復讐し、それから安心して寝ることだ」と言い、政治的ライバル・盾ついた者・過去や粛正の秘密を知る者・恥をかかせた者をただひたすら「粛清」していく様子を読んでいると、もはや命の尊厳などゴミのようである。1939年に第18回党大会開かれたが、その時点で前回34年の第17回党大会に参加した代議員1966人中1108人が逮捕され、848人が銃殺されていた。また18回党大会で選出された中央委員と同候補139人のうち98人が銃殺された。いまだ正確な数字は不明だが、スターリン時代の30年間に有罪判決を受けた市民は4100万人だという(1937年の国勢調査によるソ連の人口は1億6200万人)。
 もはや感覚が麻痺してしまうほどの数の人民を殺し尽くし、スターリンはどんな国を作るつもりだったのだろうか。またスターリンが31年間ソ連帝国の実権を握った後、38年経ってその国そのものが崩壊した事実を我々はどう考えるべきか。所詮ソ連という国は絶えざる粛清と強制労働によって成り立っていたスターリンによる私物国家であり、その私物国家を守るために「社会主義」あるいは「共産党」という武器を使って世界各地に属国を作り上げ、形だけの「東側」連合体を完成させた時にはもう世界の半分がこの男の私物と化してしまったということなのだろうか。俺は恐ろしくなった。その後の歴史の犠牲は何だったのかということになる。まだまだこの男について知らなければならない。
     
(日ソ中立条約締結後、帰国する松岡外相に)スターリンの熱烈な送迎で、列車は一時間も遅れた。プラットホームで別れ際、スターリンは松岡を抱き寄せ、「我々は欧州とアジアで秩序を作っていきましょう。私たちはアジア人同士。一緒にいるべきです」と言った。スターリンは(アルコールが回って)フラフラの松岡が列車に乗り込むのを自ら手伝い、発車した列車をいつまでも見送り続けた。
   
スターリングラード攻防戦での)新たな指令は、最前線の後方に内務人民委員部(内務省)の「阻止部隊」を配置し、戦闘の恐怖から少しでも後退する将兵を情け容赦なく銃殺せよ――との指令である。「前方での死は名誉、後方の死は恥」というわけだ。
   
 スターリンヤルタ会談で一切、書類やメモに頼らず、その論争術と機敏さによって、レーニンが批判した彼の「粗暴さ」は魅力に変わった。チャーチルは彼と激しく論争していた時でさえ、そう感じていた。かくしてヤルタはスターリンにとって個人的な栄達の絶頂となった。
 彼もソ連も、かつて全世界にこれほど広範な称賛を呼んだことはなかった。彼の野心は満たされ、戦勝同盟国の他の二人の指導者、ルーズベルトチャーチルと並んで二十世紀の歴史に地位を占めたのである。
    
 ソ連軍はベルリン占領をはさみ、ブダペスト、ウィーン、プラハなどを次々に解放、中・東欧がスターリンの影響下に組み込まれていく気配に米英は強い懸念を抱き始めていた。クレムリンでは「英国の反動勢力がソ連の極東での影響力強化を阻止するため、日本との妥協的平和を欲している」との秘密文書が回覧された。
スターリンは、もし戦争が対日参戦前に終結すれば、米英はソ連参戦が条件になっていたヤルタ合意を放棄するのではないか、と恐れており、できるだけ早く(対日)軍事行動を起こすよう将校たちに圧力をかけていた」
 ヤルタで結束の絶頂を誇示していた米英ソの「反ヒトラー同盟」は、ドイツの降伏とアドルフ・ヒトラーの死で目標を失ったかのように実質的に形骸化し、この時点で戦後の東西冷戦の芽が吹き出してきていた。
     
「工業化は膨大な量のただ働きの労働力を必要とした。したがって収容所体制は著しく拡大していったのだ」
 スターリンの死の前後まで、ソ連全土を覆い尽くすほどに繁殖する収容所群は経済的必然性に基づく産物だった。つまり、有罪判決を受けて収容所に行くのではなく、はじめに「経済計画」があり、その要請で囚人という名の無償の労働力が故意に、限りなく生み出されて収容所にぶち込まれたのだ。
「裁判所の活動を決めたのは現実の犯罪者、あるいは嫌疑のある人々の数ではなく、経済関係の諸官庁の要請書だった。収容所はその従順な奴隷労働と全くの無料労働のために、二度と繰り返せないほど有益だった。国家は何としても収容所が欲しかったのだ。29年から全ての矯正労働施設が国家経済計画に組み込まれた。矯正労働収容所総管理本部(グラーグ)の学者たちは、飢えに苦しむ人たちの強制された労働は、世界一生産性が高いことを発見したのである」
      
「金鉱の作業班はたちどころに跡形もなく消えてしまう。一日に16時間の労働を強いられ、真冬に(金鉱の側の)零下60度の野外にテントを張って寝ることもあった。極寒と飢え、ボロ着に、若い男たちさえ20〜30日間で消耗し切ってしまう。失敗やノルマを達成できないと、永久凍土の中に作られた氷の壁の懲罰房にぶち込まれる。
 冬に働いた班は冬中にほぼ全員が死んで消え、夏には新しい班が来て、また消えていく。夏は夏で採金と川で重い金を洗う二つの過重労働が待っている。厳寒と過酷な労働で肺を侵され、咳をすると壊死した肺の真っ黒な細胞片が一緒に飛び出してくる。凍傷にかかった手足の指は医者がハサミで切り取る。激しい飢餓で、死体置き場の死体を切り刻んで食べた囚人もいた」