インド現代史/賀来弓月[中央公論社:中公新書]

インド現代史―独立50年を検証する (中公新書)

インド現代史―独立50年を検証する (中公新書)

 うーん。本書を読み終えての第一の感想は「困った」であった。世界第二の人口を誇る大国・インドについて、政治・経済・外交から宗教・社会まで、現代インドの諸問題が具体的なデータや有識者の発言等を引用してひたすら紹介される本書であるが、詰め込み過ぎていささか冗長の感は否めず、従来から俺がインドに抱いていた「かまびすしい国」のイメージが強化されてしまった。しかし本書発売時の1998年に「21世紀前半にはインドが正真正銘の世界の超大国になることは確実」と誰が思っていただろう。21世紀前半を待つまでもなく2012年現在でインドは超大国になってしまったのであり、そのような国の過去の姿を辿る事は「凋落しつつある大国」である日本の参考となろう。とは言え本書はインドの諸問題をひたすら流れるままに書いていくという玉石混交のものであるからどう書いていいのか戸惑ってしまうが、まずインドの民主主義は非常に高度なものである。政権が選挙や政党の連合以外の非民主主義的な過程によって誕生したり変更させられたことは一度もなかった。また下層階級ほど政治に熱心で、政治を伝統的に祝祭的なものと感じ、選挙をカーニバルとしてその興奮を満喫するという国民性を持っている。ただしその弊害として大衆迎合主義や個人崇拝が色濃くなり、有権者に「おべっか」を使い、特定主義(排他主義)が蔓延して「社会一般の公共善がなくなって、国家の資源を特定の排他的な権益保護に移転する」政治が行われ、政権は「一党優位」でも「二大政党」でもない多数政党による連合に移行し(1998年現在)、政権は政党の連合工作によってお世辞にも安定したものとは言えない状況が続いているという。このあたりは日本政治も似たようなものだから他人事とは思えない。
 インドの偉大な指導者・ネルー首相の経済政策は「国家指令型混合経済」と呼ばれ、経済主体としての公共部門・民間部門を混合させながらも、国家が中心となって工業化や科学技術の浸透を図るものであった。これは独立後間もないインドでは民間企業の基盤が脆弱であったことから採用された措置であるが、容易に想像できるようにこれでは国家が公営企業の所有者・経営者・銀行(融資者)・主要な借り手(被融資者)・供給者・消費者の役割を担ってしまうことになって、公共企業の経営者と労働者の官僚化という問題が発生する。その後深刻化する財政赤字や冷戦終結によって1991年7月に「国家指令型混合経済から市場経済への移行」による経済改革に踏み切るのだが、本書発売当時である1998年にはまだ目立った成果は見えていない。特に公営企業改革は足踏み状態であり、これには後進諸カースト/サブ・カースト(OBCs)制度の人々が「逆差別措置」によって政府や公社に一定の地位とポストを占有してきたことから自由化に反対しているというインド独特の問題も絡み、予断を許さない状況が続いているのである。
 またインドの伝統的な外交政策が「非対称性」であるというのは有名な話であって、ガンジー大英帝国に対して「軍事力」で対抗するのではなく「非暴力という名の非在来的な武器」を持ち出すことによって戦いの空間を転換したのであり、それを発展させたのが「国連において安全保障理事会を外して総会を盛り立てる」戦略である。拒否権を持つ常任理事国と同じ空間にいても勝負は目に見えているから総会を主戦場にするという外交戦略は世界から高く評価された。しかしながら1998年5月にインドは地下核実験を決行し世界を驚かせた。それはインドが非対称性の論理ではなく現実のパワーゲームにおいて大国の地位を要求することを意味する。残念ながら外交問題について俺はあまり詳しくないが、パワーゲームにおける国の優位は常に「軍事力と経済力と技術力」であるのだから、2012年まさにインドは大国たる資格を堂々と主張できるわけである。
 以上、本書に述べられている諸問題のうち政治・経済・外交の概略を書いてきたが、このようにインドをめぐる悲観と楽観、肯定と否定を行き来しながらも作者は最後にこう述べ、インドの大国化を予見した。「インドの最大の強みは、途方もない巨大な層をなす優秀な知的な中産階級の存在である。何千万人にも達するようなこれらの知的階層は厚く、その数は世界の大抵の国の全人口よりも大きいのである」。