恐怖/筒井康隆[文藝春秋]

恐怖

恐怖

 う、うーん。熱狂的筒井康隆ファンとなって既に10年は経ち、とにかく筒井の本ならばどんな本でも無条件に消化していった俺であるが今回は少し消化不良気味である。というか不満である。別に本書の内容に不満があるわけではない。全頁数が200頁にも満たないから筒井党の一員である俺など光より早く読んでしまって拍子抜けしてしまっただけなのだが、それに加え1頁あたりの文字数も普通の本より少ない気がする。あのやたらとどでかい文字に比べればまだマシだが(あれが普通の大きさだって?世も末だ)、こんなことをされると誰も本なんて読まなくなるよ。昔の本みたいに1頁にびっしりと文字が並べられてあってそれを難なく読めるようになった時こそ読書人としての人生が花開くのだからな。
 まあそんなことはともかく本書であるが作家や画家や建築評論家などの文化人が集まる地方都市で連続殺人事件が起こるのだが、殺されたのはどちらも文化人であった。そしてどうして文化人が連続して殺されたのかというと「明治時代に立てられた税務署の建物が取り壊されることに文化人たちが反対し、市はしかたなく保存を決定し、補修のための準備を進めているところわずか震度2の地震で建物は崩壊、建物の中にいた税務署職員37人が死んだ。死んだ職員の遺族たちは取り壊しに反対した文化人たちを恨み」、特に強硬に取り壊しに反対した2名が殺されたということが不気味な噂として広がり出すのである。そうなると取り壊し反対運動に熱心だったわけではないが参加者として名を連ねていた主人公もまた殺される危険性があるわけで、何せ容疑者は100名を超す職員の遺族であり出会う人間全てが容疑者かもしれないという恐怖に主人公は呑み込まれてしまうのである。次から次へと湧き出る「恐怖」という感情と、それを必死で忘れ去ろうと友人と話し、酒を飲み、仕事に集中し、いつの間にか手に入れた不気味な人形に話しかけるという異常な日々が繰り返されるうちに主人公は発狂するのだが、その展開が違和感なく静かに自然に描写され、決まり文句ではあるがお見事と言うしかない。「発狂することが自明な状況」を描き切れる小説家が他にいるだろうか。やはり筒井はすごかったのだ。
 「恐怖は、その源流を生命の発生にまでたどることのできる生物学的現象だ。どんな下等な動物でも危険を察知することができ、敵に出会えば逃げるように、恐怖ははるか生命の歴史をさかのぼって動物がえんえんと持ち続けてきた感情であって、恐怖を発生させる神経の回路は、進化とともに複雑化し、維持されてきた」「恐怖こそは、性衝動より以前から存在する根源的な本能と言えるのだ。性の欲望なんぞは外敵その他からもたらされる恐怖を日常的な行為に没入することで一時的にでも忘れ、気を休めようとするだけのものに過ぎない。生殖行為とは、死に怯え、死を恐れ、常に死に直面している自身の分身である子孫を残して少しでも安心しようというだけのものだ」…。
 全裸のままリビングに仰向けに引っくり返り、笑い続けているところを隣人に発見された主人公は結局入院し、その間に連続殺人事件の犯人(やはり職員の遺族であった)が逮捕されたことを知って立ち直り、他の文化人たちは事件の影響で表立った文化活動ができずに去っていくのだが、この蛇足のような枚数調整のような最後のところが俺にはなぜかやたらと不気味であった。この文化人たちのほとんどは今回のような生命の危機に怯えることなく平穏に暮らせるだろう。だがある日突然思わぬところから事件に出くわし、出会ったが最後、外敵よりも恐ろしい自身の「恐怖」という感情が浮かび上がってくるかもしれないのである。むしろこのまま主人公が発狂してそのままフェード・アウトしてしまった方がその唐突感ゆえに読む者も現実感を感じなかったであろうが、こうなってしまった以上もう駄目である。怖いものか。怖いものか。そんな恐怖など俺には訪れるわけがない。わけがないが、もし来てしまったらその時はどうする。いやそんな事を考えることさえ阿呆らしい。阿呆らしい。阿呆らしい。わは。わははは。わはははははははははははははははははははははは。
 ちなみに筒井氏の作品というのは今でも70年代以前のドタバタものが根強く支持されていて、80年代以降の「純文学」的作品は評論家等の玄人には評判が良くても一般にはさほど支持されていないようだが(という印象を俺は持っているのだが、筒井ファン仲間という知り合いはいませんので間違っているかもしれません)、俺はどちらかというと80年代以降の方が好きである。70年代以前の派手なドタバタはもちろんないが、簡潔で無駄のない文章でサラリととんでもないドタバタが書かれるあの味わいは麻薬的ですらある。というわけで今後も筒井康隆を読み続けよう。