続々・日本のゆくえ

 この国では選挙をやるかやらないかという話になると必ず「選挙で政治空白を作るのは良くない」と言われる。国政選挙にしろ党首選にしろそれは国民が自らの権利を行使して政治に明確な「YES」と「NO」を示すことができる数少ない機会であり、やらないよりはやる方がいいと思うのだが、そう思うのは俺だけらしい。似たような論調に「政治家は選挙のことばかり考えている」というのもあるが、「政治家が選挙のことを考えず政策のことだけ」考えるようになるなど想像しただけで恐ろしい。
 いかに参議院が特殊な存在であっても、衆議院と並ぶ「国権の最高機関」であることに変わりはない。そしてその国政選挙で明確に「NO」を突きつけられた首相がなおも首相の地位にとどまることは制度的には可能でも議院内閣制の原理原則から言ってありえない。ところがマスコミによる世論調査等ではなぜか「菅首相で続投すべき」「辞めるべきではない」という声が6〜7割は占めている。どうもおかしいなと思っていたが、どうやら「(小沢が代表選に出馬して首相になるぐらいなら)菅首相が続投すべき」という意味であるらしい。我が国ではこれまでも民主主義のルールより個人的な好悪が優先されることが多々あったが、しかし選挙で負けた人間を擁護するというのは聞いたことがない。
 繰り返すが、選挙で負けた(不信任を突きつけられた)首相がなおも首相の座に居座るのはどう考えても異常である。それでもどうしても居座るというのならば改めて選挙を行って信任されるしかない。とは言え解散総選挙では政権を失いかねず、そのため民主党代表選挙が利用されることとなった。恐らく菅首相・執行部サイドは初めから代表選挙ありきで動いていたはずである。ところがそこに小沢が出馬するという情報が駆け巡った。小沢以外の人間ならば何ということもないが、魑魅魍魎の政界を生き抜いてきた小沢と戦って勝つ可能性はどんなに多く見積もっても50%である。TVをにぎわした8月中旬頃から代表選告示までのドタバタ騒ぎは全て小沢と手を結ぶか、それとも全面対決になだれ込むかの暗闘の一端であった。
 実は政局が大好きなマスコミは「もし小沢が負ければ政治生命を失う」と盛んに喧伝しているが、実態は全く逆である。菅は負ければ首相職から飛び降りることになるから絶対に負けられないのに対して、小沢は負けたとしても大差で敗れることはないであろうから党内で一定の影響力があることを証明することになろう。そして選挙前に「どちらが勝っても負けてもトロイカ体制で行く」ことは確約しているから、菅が勝ったとしても「小沢」陣営には三顧の礼で協力を仰がなければならない。最近珍しく愛想がいい小沢のにこやかさの裏にはそんな計算がある。
 今回の代表選の「小沢」対「反小沢」の対決を「自民党の総裁選のようだ」という声を聞くが、俺が考えるに今回の代表選はそのような生易しいものではない。自民党総裁選とは結局誰が勝っても負けても「自民党的政治」の継続が前提のコップの中の争いであったが、今回の代表選はやや乱暴に単純化すれば「国民の生活が第一」と「財政再建が第一」との戦いである。或いは「マニフェストを可能な限り忠実に実行する」か「財政状況を鑑みてマニフェストの修正も行う」かであり、「消費税増税に消極的」か「積極的」かである。また二人のパーソナリティーも「ダーティーだが実行力がある」と「クリーンだが実行力はない」と、何もかも二つに分けられるのである。そしてそのような二つの潮流は冷戦後の「失われた20年」を経て目指すべき日本の姿の選択肢である。今回の代表選はそのような歴史的な意味を持っており、そのため政界再編の芽を孕んでいると言える。民主党がこの二つの選択肢の中で揺れているように自民党も揺れている。それに気付いていないのは好悪の感情をむき出しにするマスコミのみである。
 9年前、日本社会を今日の状況に至らしめた小泉は総裁選によって誕生した。更に昔、日本政治において「田中支配」を決定付けたのも福田・大平による総裁選であった。この国では国政選挙ではなく政党の党首選挙がその後の日本のあり方を決めるのである。そこに日本政治の不幸と皮肉と、面白さがある。