海がきこえる/氷室冴子[徳間書店:徳間文庫]

海がきこえる (徳間文庫)

海がきこえる (徳間文庫)

 さて本作については色々と思い出がある。まず本作のアニメ版を、中学一年の頃だからたぶん1995年頃だったと思うが見たことがある。どこにでもいる田舎の平凡な高校生がふとした事から美人の同級生と東京に行くことになるという展開に、まだ恋愛のレの字も知らず「ドラえもん」ばかり見ていた幼い俺はとにかくもうドキドキしながら見たものだ。そして最後にヒロインが「東京に会いたい人がいるんだ。その人はね、お風呂で寝る人なんだよ」と言うシーンなどもうかわいいやら切なくなるやらドキドキするやらで今でも鮮明に覚えている。
 その後小説版を読んだのはそれから4年後の1999年春頃でこの時のことも鮮明に覚えている。今も俺を苦しめる耳鳴り等の発作が起こって精神状態やら肉体状態やらがとにかく最悪だった時にどういうわけか明石市立図書館で借りて読んだからで、もう俺の人生はお先真っ暗で人並みの青春を送るどころか20歳まで生きられるかどうかも疑わしいと日々煩悶していた時に本書を読み、その清々しい青春劇にほんの少し救われた気がしてこれは是非買わねばならないとメモ帳兼日記帳のようなものに書き記した時のことも昨日のことのように覚えている。
 是非買わねばならないと言いながら買うのが10年後になるとは当時の俺も思わなかったが、今や社会人となった俺は10年ぶりに本書を読み、またしても感動することになった。要するに本作は俺の人生において非常に大切なものであったのだ。それに気付くのに15年ぐらいかかったわけで、いや全く長生きはするものですね。
 しかしながら読後感が10年前に読んだ時と違うのも事実で、10年前はとにかくこのどこにでもいる平凡な主人公とヒロインの、何かを伝えようとしてなかなか伝えることのできない不器用さとじれったさに胸が焦げるような切なさを感じたものだが、10年後に再び読んでみると何とも言えず優しい気分に浸ることができた。少年少女が大人の男と女に脱皮しようとする様子が何とも微笑ましく、また懐かしい。もちろん俺には本作にあるような甘酸っぱい経験などしたことはないが、小さな事件に遭遇して揺れ動く主人公の心理にはどこか懐かしさを感じてしまう。これは俺だけではあるまい。
 本作のストーリー要素である「地方の高校を舞台にした主人公とヒロイン」「何となく意識しながらも恋人関係にはならない」「大学生となり、東京へ行き、世間や大人の世界を垣間見る」というのはかつて紹介した「描きかけのラブレター」(日本ラブコメ大賞2008・2位)と似ているし、そもそもTVドラマ等でよく見かけるありふれた設定であろう。しかし本作の特徴はとにかく性的な描写が一切出てこないことで、恋愛小説なのだから接吻ぐらい出てもおかしくないはずだが展開されるのは地方の純朴な少年にとっては未知の存在である少女の一瞬の輝きであり、その少女が少女なりに精一杯生きている瞬間の刹那の可憐さである。作者が女だからということもあるのだろうが、安易に性的な関係に入り込むことなく丁寧に少年少女の戸惑いと爽やかさを描くことでより綺麗に仕上がっているのである。
 作者は女であるはずだが、男の主人公の語りや心理は俺が読むところほとんど違和感がない。のみならず、東京で一人暮らしをする若者の希望に満ち溢れた様子が行間から滲み出ていて、そこにヒロインや東京で出会った女友達が登場することで華やかさが追加され、それでも性的な描写を注意深く避けることで読む者を優しい気持ちにさせているのであって、これは作者のテクニックというよりはこの作品自体がそうさせているというのが正しいだろう。俺は本書を読んでそのように優しく懐かしい気持ちに浸り、一度も腹が立たなかった。いつもの俺ならば「何が恋愛じゃ。気取るな。阿呆め」となるところだが、主人公とヒロインのお世辞にも「恋愛」とは言えない不器用なやり取りは「甘酸っぱさ」で満ちており、その「甘酸っぱさ」はどんなに暗い青春を送った者でも一度は体験したことのある懐かしき香りである。「甘酸っぱさ」を読者に淡々と提示し、結末もはっきりと主人公とヒロインが結ばれるわけでもないがそれでも二人だけの親密な空間を作り上げながらフェード・アウトすることでいつまでもその清らかさと瑞々しさを保持することに成功しており、それはやはり作者の力量云々ではなく、この作品がそうすることを欲していたからそうなったとしか言えない。とにかく俺にとって大切な作品である。
  
 駅舎が見えてきたとき、里伽子がふいに腕をからめてきて、もっと歩こうと言い出した。たしかに夏の暑さも夕方になると落ちついて、ぼんやり歩くにはいい感じだった。
 僕はあやふやな地理感覚を総動員して、車道の池袋方面というやつを横目で睨みながら、歩いた。里伽子はてんから、方向など気にしていないようだった。
「あたし、杜崎くんが好きなのかもしれない」
 ふいに里伽子が言った。僕は立ち止まるわけにもいかず、そうかといってさすがに胸にズンと来たので、思わず足を早めてしまった。
 車道にはひっきりなしに車が走り、歩道には僕らの他にも、仕事帰りのサラリーマンやらOLやらが歩いていた。
「これってヘンね。高知にいたときだって、杜崎くんはあたしを好きなんじゃないかと気がついてて、どうってことなかったのに。どうして今になって、こんなこと思うのかな」
「それはきっと」
 と僕はなるべく普通に聞こえるように、用心深く言った。
「武藤は今、淋しいからだよ。せっかく東京に戻ってきたのに、うまく居場所が見つからなくて、淋しいんだ。だから、溺れる者はワラをもつかむってやつで、僕で手を打とうとしてんだよ」
「ずいぶん、きっぱり言い切っちゃうのね。あたしが杜崎くんを好きっていうの、思い違いなの?」
「きっと、そうだよ」
 僕はあやふやに言ってから、また歩き出した。里伽子はそれでも腕を離さず、まるで意地になっているみたいに、ぴったりとついて歩いてきた。