- 作者: 立花隆
- 出版社/メーカー: 文藝春秋
- 発売日: 2002/08
- メディア: 単行本
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今、あれから6年の歳月が過ぎ、社会人としてそれなりの修羅場を経験し見事に押し潰されそうになっている状況のなかで幸運にも105円で本書を手に入れることができたわけであり本書を読んだわけである。そして作者が言うように、田中角栄を知らなければ日本政治の昔も今もそして未来も結局わからないということを再認識することができた。政治ジャーナリスト二大双璧と言えば田原総一朗と立花隆であり、俺はどちらかと言えば田原総一朗寄りなのだがやはり田中角栄関連となると田中と死闘を繰り広げた立花の方が内容に深みがある。
前にもいったように、政治学を齧った者としては過度の「ジャーナリスティック的」視点で政治を見ることは禁物であると考えている。政治学とは英語で言うとpolitical science、科学なのであるから、日本の風土や文化論から政治を理解することはあまりよろしくない。そこで俺は日本のいわゆる「欧米に較べれば劣った政治」というのは全て中選挙区制に起因すると述べたが、とにかくそのような考えを念頭に置いてもなお日本政治に不合理に巨大に永久に君臨するのが「田中角栄」なのである。
今国会でも話題になった「道路」の問題にしても、それを始めたのは田中角栄である。また改革が今まさに進行中といわれる公務員制度(つまり官僚制度)を利用し政治家(自民党)と官僚の関係(族議員や口利き、天下り)を確立したのも田中角栄である。以後の政治家は現在に至るまでこの田中角栄スタイルを真似るか、アンチ田中角栄となるかの二つしか基本的に存在せず、それほどまでに巨大な存在である田中角栄を政治的ではなく人間的な側面からも十分吟味するべきであるという本書の主張は大いに納得できよう。田中真紀子問題も結局は田中角栄がこの日本に残した遺産でしかないのである。
本書はインタビュアーとの語り下ろしという形式であり、話題も晩年の田中角栄の悲劇的結末から田中真紀子個人の性格のひどさ、佐藤昭と田中真紀子の戦争のような確執、田中金権政治の実態と当時の事情を知る人間にとっては大変面白いが一般的な予備知識のない人間にはあまり面白くないかもしれない。これは作者自身がもはや「田中一派との戦争」から身を引き、例えるならば復員した兵士が当時の戦争の状況を語りもはや敵への憎しみもそれほど持たず淡々と語る感じであるから仕方ないのだろう。田中角栄が残した軌跡は永遠に日本政治の底流となって存在するのであろうが、同時にそれは今となっては過去のことでもあるのだ。
田中角栄は全身がエネルギーの塊のような存在だったという。金欲も色欲も並外れに放出し、政調会長・大蔵大臣・幹事長と出世コースを歩むことによって人脈や情報収集能力や利害調整能力を天才的に昇華させた。一方で愛嬌や気配りや親しみや懐かしさを忘れることなく、作者でさえも「とにかくスケールが大きい男だった」と評価するほどの男が田中角栄であった。そして田中の秘書であり愛人であり、且つ「金庫番」として30年以上寄り添う相手がかの佐藤昭であり、それを間近で見てきたのが娘・真紀子である。父が父の愛人を公私ともに重要なパートナーとして重宝するのを一体娘はどういう風に見ていたのか。想像を絶するとしか言いようがなく、その後脳梗塞により倒れた角栄を巡って愛人と娘の立場は逆転し、真紀子は角栄を独占することになるわけである。その後角栄がその悲劇の晩年を終えた時も佐藤はお線香を立てるどころかかつて愛した男に近付くことすらできず、これもまた想像を絶する凄絶な人間ドラマとしか言いようがない。更に病状の角栄を前に手のひらを返すようにして時の権力は次世代である金丸・竹下・小沢へと移り、今まで父の威光によって守られてきた娘は権力闘争という「この世の地獄」を目の当たりにしてかの有名な「人間には三種類しかいない。敵か、家族か、使用人か」が生まれるのである。
他にもいかにしてこの日本経済が公共事業頼みのシャブ漬け経済になったのかそれも田中角栄のせいだ、田原総一朗の言う「ロッキード事件はアメリカの陰謀」をお前何を言うとるんじゃ阿呆かと反論するところも読みどころ満載であって、いやはやかつて政治ジャーナリストになりたかった人間としてこれほど興奮する本もなかなかあるまいな。政治は最も壮大な人間ドラマだ。