家族のように華やかに

 そうであるからして既に5月であるが、俺といえば相変わらずラブコメの尻を追い掛け回しエロゲーに欲情し秋葉原を縦横無尽に駆け回る日々を続けるのみである。過去へと傾斜し未来の一切を無視してただ義務的に会社に行きとにかく自分に厄介事が振りかからぬようできるだけ楽をして金を稼ぐことを最近は意識的に行っており、これでもまだクビにならないのだから相当呑気な会社と言える。一人暮らしの自由を謳歌し東京を自らの文法にて編集しまさに順風満帆な日々を送っている風に見えるが、一方で絶えず違和感を感じていることも事実である。即ち現在の会社の業務に特に熱心になることもなく、野望を抱くこともなく、ただ休日に自身の快楽を最大限叶えるにはどうしたらいいか考えるだけの毎日を送るのは何故だろうか。
 簡単なことだ。俺は何か不都合があれば、いつでも田舎に帰ってやる(居場所は他にもある)と思っているのである。だからこそこのような醜態が日々営まれるのであり、俺自身それを至極まっとうな考えだと感じていたのだ。ついこの間までは。
     
 以前、俺は「いつか家族と本当に別れてしまう時が来るその時のために準備をしなければならない」と言ったが(2005年11月27日参照)、一時の感傷と思っていたこの考えは日を追うごとに胸の奥に刻まれるようになった。
親元を離れ故郷を離れこの東京で社会人として社会生活を送ると常に考えるのは将来の自分の姿である。果たして俺は本当に一生独身でいる気なのだろうか。もちろん相手のある事なので俺一人ではどうしようもないが、しかしこの先10年後20年後父や母は死ぬだろうし妹もどこかに嫁ぐのだろう。現在俺が「いつでも田舎に帰ってやる」と強がっているのはいつでも最後は家族に守ってもらえると思っているということであり、いやそもそも58と52という初老の両親に守ってもらおうなどという阿呆な考えをする俺が阿呆なのだがとにかくそのような現在の俺の心の糧である家族がなくなり一人となった時俺はどうなるのだろうか。友人などいらぬ恋人などいらぬと大人のふりをしておきながら最初に離れるはずの家族には未だ心の整理がついていない俺も俺だが、しかし40歳50歳となってまだ独身というのはどうなのだろうか。
 そこまで考えて次に浮かぶのは家族との別離についてである。俺は今でも信じられないし本当のところ信じてないのだが、父や母やもしかしたら妹さえも死ぬかもしれないのである。そんな事を言ったら俺も死ぬかもしれないのだがそれもひっくるめて俺には「死」というものがよくわからないのである。だがこうして大都会でひっそりと生きていると夜ふとした瞬間に「死」というものが俺の前を通り過ぎることがあるのだ。午前2時か3時にふと目が覚めた瞬間に真っ暗闇のなかで蠢くのはあれは確かに「死」であり、なるほど死というのは確かに俺の周りに存在するのだと感心さえしてしまうのだが、だがそれが何だというのだろう。わからない。
 いやいや死ぬことはどうでもいいのではないか。幽霊であろうが妖怪であろうが家族と話ができ一緒に笑うことができればいいのであり、本当に悲しいのは「もう二度と会えない」ことだ。母や父や妹ともう二度と話すこともできないとすれば、それはもうこの世の地獄としか言いようがないではないか。そもそも俺が働く理由は二つしかないのだ。一つは俺のラブコメ政治的人生を華やかにするため(書籍DVD等購入費を稼ぐため)、もう一つが家族に楽をさせるためである。そのうちの半分が失われるということは俺のモチベーションが半減するということではないか。しかしそのようにモチベーションが半減することのないよう俺と同じ若者たちはその頃既に自分で家族を持っているのである。そこでまたしても問題は「俺は一生独身でいるのだろうか」と、ふりだしに戻るのである。
 どうも言葉遊びみたいになってきたが、俺は今「家族」について極めて真剣に語っているのである。かつて俺を育て愛を与えてくれた家族、たとえ世界中を敵に回しても我が家族だけは俺の味方となってくれるだろうと信じることができる家族という存在は何だろうか。いずれはなくなってしまうだろうこの世で一番大切な家族を守るのは大人になった俺の責務だと思うし、そのような家族を自分の手で作ることができるのならばそれは幸せというものではないだろうかとも思うのである。妹に彼氏ができたと言われると複雑な気持ちになる俺は、GWとなりまたしても兵庫県の糞田舎に帰るのである。どんなに東京が便利で居心地がよくても俺の故郷はあそこなのである。もし俺が死ぬ時は、その時は、故郷でひっそりと死にたい。