司書宣言2 日本の黒い司書

 わりと評判がいいので司書の話を続けることにする。どうも3月20日の日記で俺の株はあがったようだ。コメントも多かったが、メールも5通来た。5通すべて女性(と本人は言っている)である。おお。そしてラブコメなんて書くなホモをけなす文章は書くなと言われた。ええとそれはまあそれとして、あそうだ跡部景吾って誰だ。いやとにかく前回は司書の社会的地位の低さは図書館の社会的地位の低さでありそれは民主主義の危機だみんな立ち上がれ日本図書館協会に入ろうええっ年会費9000円それは無理だと挫折した男の物語であったが、どうやら日本の図書館というのは先進国ではかなり低いレベルにあるらしい。というのはつまるところ予算の裏付けがほとんどないことからくるのであり、あの自由化の民営化の大御所であるアメリカ合衆国USAが一方で図書館学の世界的権威であり電話一本で株式市場やボーリングの歴史を教えてくれるほどの財政資源と人的資源を持っているのとは大違いである。情報政策というのは「国民が、入手したい情報をすばやく確実に収集でき、その情報を有効利用できるようにすること」にあるのだから、それは当然公共図書館に負うところが大きいはずなのに、である。大体情報化社会というが情報を一体どこに集めるというのだ。誰が情報を整理するというのだ。図書館しかないではないか。インターネットで「和姦」「愛のあるエロ」を検索しても何のことかわからんものばかり出るだろう(一度やってみてください)。
 たとえば保険外交員と交渉するときには保険に関する体系的な知識が必要であり、それを知るにはわざわざ金を出して本を買わずとも図書館に行って本を借りるもしくは司書に相談にのってもらえばいいのである。それがなければ、つまり図書館がなければまたは図書館があっても小説と漫画しかないようなところならばあるいは職員が図書館学の知識のない素人ならば、それは自らの身を守るための情報が得られないことになろう。大体金を持っている人だけが本を買える(自分に有利な情報を手に入れることができる)ということではあまりにも不公平ではないか。それはまあ日本は資本主義経済体制だから仕方がないという人がいるかもしれないが、では金持ちの家庭の子供は何でも本を買ってもらえて(情報が手に入って)そうでない家庭の子供は本を買ってもらえず、そのうえ図書館もなければどうなるというのだ。それは民主主義ではない。誰もが平等に知識を取得できるべきなのである。誰かが言っていたが、「自殺した経営者が欲しかった情報がもしかすると図書館にあったかもしれない」のである。にもかかわらず図書館意識の低い日本人は図書館に頼ることは滅多にないのである。
 世の中に流れる莫大な情報の洪水を束ね、必要な情報を提供できる者が必要なのだ。それが全ての情報政策の根幹なのである。情報の倉庫としての図書館があってこそ、そしてそれが無料であり誰もが利用できてなおかつその手助けをする職員がいてこその情報政策なのである。アメリカやその他の先進国がそのような情報政策の理念の下に図書館を運営しているのに比べ、おお日本のこのお寒い状況を見よ。まず図書館を「情報収集・情報利用の市民センター」として考える者がまずいない。たとえば年金制度や医療保険制度などはおえらいセンセイが新聞やテレビで言っていることを聞けばいいのであり、自分で調べるのは面倒である。実はその面倒を解消するために司書という「情報の専門家」がいるはずなのだが、現実は司書資格を持つ者が一人もいない図書館も珍しくないのであり、そのような者に日経テレコンや官報やMAGAZINEPLUSを扱えるわけがない。結果、やっぱり自分で調べるしかないんか、ああ面倒やな小説でも借りとけということで図書館は無料貸本屋になるのである。
 どうも自分で書いていてこの日本は大丈夫かという気になってきた。とにかく問題点を整理しよう。問題点は大きく四つである。「図書館そのものの財政的問題」「図書館職員の地位の問題」「日本の情報政策」「日本的政治風土」であるが、うわこんなもん書いてたら時間がいくらあっても足らんではないか。まあ駆け足で行きます。
 まず「図書館そのものの財政的問題」であるが、これは要するに金がないだけのことである。地方自治体財政は火の車と言われて久しいが、それにより購入する本(図書はもとより学術雑誌や各種専門新聞等)も少なくなり、パソコン・インターネット環境は貧弱になり(J−BISCや日経・朝日等の新聞記事検索等)、机や椅子等の設備が不十分であれば高齢者や障害者には利用しにくくなろう。要するに財政難によって市民の情報へのアクセス・パイプが減らされるのである。そうなると「望む情報が手に入らない=図書館は何のためにあるのか?」となり、図書館不要論が出てくるのである。実際のところこの地方自治体の財政難は全く解決の糸口すらつかめぬ難題であることは確かだが、しかし市民が何か物事を知ろうとする方法が金を出して本を買うだけではあまりにも不公平ではないか。図書館は何のためにあるのだ。
 次に「図書館職員の地位の問題」である。地方自治体としては財政上の観点から司書職の図書館員よりは一般職の職員を派遣した方が財政上及び人事上効率的であるということは前回「司書宣言1」でも書いたが、この効率優先主義により図書館に図書館のプロたる司書はおらず、必要な情報を探してくれる人もしくは情報検索の技術を持つ人がいないことになり、ただ情報(本・新聞・雑誌)が雑然と並べられているだけで「望む情報を手に入れようにもどうしていいかわからない」ことになるのである。これは前回言ったように図書館法を改正して司書の配置を義務化するしかないであろう。第一司書資格も持ってない者がよく平気で図書館職員などと言えるなあ恥ずかしくないのかと思うのである。
 しかし一番の問題はこの「日本の情報政策」にあるのであって、昨今では「情報をデジタル化」することが目的であるように言われているが、それは結局手段でしかないのである。情報政策とは本来、情報をデジタル化することによって情報へのアクセスを容易にし、生活空間をより便利な環境にしようということである。ということは、
(1)あらゆる情報を市民に提供すること
(2)その情報を適切に収集し処理すること
の二段階が必要になってこよう。そして(1)の、あらゆる情報をあまねく市民に提供する場こそは図書館、特に公共図書館となるのが自然な成り行きであるはずなのに、なぜか政府は「国民みんながインターネットをできるように」的な、ネジが一本抜けたようなわけのわからんことを強調するのである。そしてもし財政的な余裕があり蔵書やインターネット環境を豊富に揃えることができたとしても、司書がいなければ(2)の実行は不可能なのである。
 次の「日本的政治風土」は、まあ一番説明しやすいことではある。すなわち日本人というのは昔から「お上」や「えらいセンセイ」の言うとおりにして生きることを習慣とする政治的風土があり、難しいことは全部政治家や役人やマスコミや大学教授に任せておくのがよいとしてきた。だから自分で何かを調べたり情報を得ようとすることはなく、アメリカのように「知識や情報は市民のものである」という建国精神の下で情報提供機関的役割をする図書館と比べるのは無理があり、今まで通り文化教養機関としてまたは社会教育機関として(社会教育法第9条1項「図書館及び博物館は、社会教育のための機関とする」)運営していけばいいというものである。これはもう文化論や日本論の話であり、大変難しい。それにもし図書館を情報提供機関として位置付けるのであれば、もはやこの社会教育法を改正もしくは削除し、はっきりと「図書館は、社会教育及び情報提供のための機関とする」と規定するしかないのではあるまいか。何度も言うが、結局この日本の仕組みは全てあの権力亡者の跋扈する永田町で決まるのである。
 というわけでまたしても日本図書館協会の不甲斐なさを糾弾することになるのである。世論や政治家や文部科学省を相手にせずひたすら象牙の塔で威張りくさってどうするのだ。今すぐ腰を低くして圧力団体としてのロビイング活動をはじめなければ大変なことになるぞ。誰かが泥をかぶらなければならないのだ。まあ図書館が繁栄して困ることはないのであり、俺もできることなら司書としてどこか田舎の図書館で働きたいというのが本音である。それにしても日記を始めて1ヶ月以上経つがこれほど好意的なメールが来るとは思わなかった。なぜかこの日記の固定読者は女性の方が多いのであり(3月22日tarimo調べ)、女性及び腐女性の皆さんは大体において読書好きであり司書の資格を取っている方も多いらしい。「はじめてお前の日記を最初から最後まで読んでやったぞ」とか「お前もうラブコメとか言わんとこっちの事を書け」とか「えっ。お前司書資格取ったんか。うわ。あたい取ろう思とったのにお前なんかが取ったんやったらやめとくわ気持ち悪いっ」とかいうメールが来たのであります。で、ええとここまで書くのに1時間以上かかりまして、今日もマンガ喫茶30分400円で1200円。ああ。