そんなに仮想通貨が好きなのか、管理職、銀座英雄伝説

2018年4月〜 

  • @shomotsubugyo 久しぶりに見させてもらいまして、そうそう、書物蔵さんのブログはこんな感じだったなあ、お互いコメント欄にエロだの何だの書いてたなあ…と思い出したりしました。 ま、色々ありましょうが、楽しくやって下さい。 posted at 22:34:50
  • 基本的に、フォローしてくれた方はこちらもフォローしますが、「仮想通過で儲けたければ」とか「副業紹介します」とかの変なアカウントは無視します。 「14歳です」「高2です」とかもありましたが…そんなんで定年退職やら残業やらがわかるのかね。そういう所がよくわからんね、ツイッターは。 posted at 22:56:55
    
  • 「ブログが基本でツイッターはおまけみたいなもん」って言ってた俺がブログの方を非公開とせざるを得ないのは忸怩たるものがあるけどね、いまだに例の「定年退職の人に聞いた〜」にリツイート等が飛んできているのでね、ちょっと慎重にならざるを得ないというか、会社の人が偶然見るかもしれんしなあ… posted at 22:57:38
  • やっぱり会社でも、30代以下だとツイッターやってる人多いからね。もちろん俺は「ツイッター?ああ、聞いた事はあるけどやってはないなあ」で通しているけどね、用心するに越した事はないですからな。大体ブログもツイッターも「普通の社会人が都会の片隅でコソコソやる」からいいんであってね。 posted at 23:04:55
    
  • 管理職になると残業代は基本的に出ないわけですが、これで気が楽になりましたね。 今までは他の管理職の人と残業していても「この人達は残業代出ないんだよなあ、でも俺は出るんだよなあ…」という感じの後ろめたさがあったんですが、はれて自分も管理職になったので、 posted at 00:14:31
  • @tarimo99 「あんた方も残業代出ないし俺も出ない、でも頑張ろう」という感じになって、何となくサラリーマンとしてワンランク上がったような気がするわけです。 ま、色々間違ってはいるわけですが、しょうがないよねえ、俺ただの平凡なサラリーマンやしねえ…。 posted at 00:18:53
                    
  • 昨日に引き続き「銀英伝」を見まして、ちょっと気になって調べてみたら、ヤンウェンリーは33歳で没、ラインハルトに至っては25歳で没でした。 で、俺は35歳…長生きはしたくないなあ、でも長生きしたからこそこうして新作を見る事ができたわけか。 人生色々ですなあ…。 posted at 23:34:25

YKK秘録/山崎拓[講談社]

YKK秘録

YKK秘録

 しかしながら政治家の自伝は難しい。俺も普通の読書家以上に政治家の自伝を読んでいる方だが、何せ政治家とは自分を正当化する、自分を有利・優位に導く事を長年に渡って続けてきた、というよりそういう生き方を余儀なくされた人種であるから、どうしても事実(真実)が歪められる可能性がある。特に気を付けなければならないのは「もう引退したから」と言って「ありのままに話そう」という言い方で、引退したからと言ってその政治家が俗世間から完全に離れたわけではなく、後継者や面倒を見なければならない(養わなければならない)連中を多数抱えているのが人の世の常というものである。むしろ引退して、つまり選挙の心配がなくなってしまえばこれまで以上に無責任に自分を正当化、有利・優位に導く事もあろう。
 「そうは言っても、例えば死期が迫ってきたので『後世に真実を遺したい』と告白する政治家もいるではないか。ああいうのは本当に、嘘偽りない真実だろう」という意見もあろうが、それはそうかもしれないが、そうでないかもしれない。なぜなら政治家は最終的に歴史に名を残すのであり、歴史に審判される。歴史の審判に耐えられるなら嘘偽りない真実を話すだろうし、耐えられないならそこに邪が入ってしまう。神ならぬ人の世の常である。
 という事で本書であるが、「YKK」とは90年代〜2000年代中頃まで日本の政界で知らぬ者はいない政治同盟であり、山崎拓(Y)・加藤紘一(K)・小泉純一郎(K)という卓越した政治家3人は派閥の領袖として一定の勢力を率いる(将来率いると周囲から見なされた)実力者であった。その3人が同盟を結ぶ事で与党である自民党に確固とした地位を築き、つまり日本政治自体に影響力を持っていた。90年代中頃から3人はそれぞれ大臣、自民党政調会長自民党幹事長等を歴任して権力の中枢を担うようになり、2001年には遂にこのYKKから小泉純一郎が首相の地位に就き、山崎拓自民党幹事長として(つまり政権ナンバー2として)小泉政権を支え、名実共に一時代を築く事になるわけだが、本書を記した山崎拓(Y)はできるだけ言い訳めいた事を排除してこの時代の政治状況(1989年の宇野内閣発足から2003年の総選挙まで)を簡潔に書いているというのが読後の感想である。人物評や対面した人達の表情、雰囲気、口調等について描かれている箇所もあるが、全体としてはやや報告書的に「○○首相と公邸で会談。○○○につき要請あり」「○○会議。○○○について議論。冒頭やや紛糾したものの○○に一任して了承」「○○候補の立会演説会にて演説」と記述されているところも多く、言い訳めいた事は感じられない反面、物足りなさも感じるが、さすがに「加藤の乱」(俺が政治に興味を持ったきっかけでもある)についての記述は当事者中の当事者であるから迫力が凄かった。またこの「加藤の乱」で負け戦とわかっていながら「盟友・加藤と長い友情を結んできたから」と負け戦に乗る覚悟を決め、その山崎の姿を見て「親分と一緒に討ち死にしよう」と言う同志の存在、そして「加藤の乱」後の小泉の有名な「YKKは友情と打算の二重奏だ。今日、私は友情で来たと皆さん思っているでしょうが、実は打算で来たんです」につながるところは鳥肌が立つほどの面白さであった。政局には政治の全てがあり、政治はどんな人間ドラマよりも面白い人間ドラマである。
 
 本会議場へと向かおうとする加藤を前に、私も腹をくくった。
「あんたと俺だけや。後は可哀相だから欠席でいい。俺とあんただけは出席しよう。そして党を割ろう。しょうがない。ここまで来たんだから」
 そう意気軒昂に話す加藤と私を載せたハイヤーが国会議事堂に到着する。
 議事堂の正面に着くと、あろうことか、加藤の口から信じられない言葉が発せられる。
「やっぱり戻ろう…」
 たしかに、政治家生命をかけた決断を前に逡巡する加藤の気持ちもわからないではない。弱気になる加藤に、私は、
「俺はどっちでもいいよ。あんたが突っ込むなら、俺も突っ込む」
 行くか引き返すかはあくまで加藤が決めること。そう考えていた私は、加藤と共にホテルオークラに戻ることにした。
(中略)
「拓さん、早く行け。何やってんだ。これであんたら欠席すると、2人とも政治生命を失うぞ」
 矢野は電話でこう発破をかけてくる。その言葉に私はその気になり、「行こう!」と加藤に声をかけ、再び国会議事堂に向かった。ところがここでまた加藤の心が折れ、2人とも欠席することになってしまった。
 結局、2度ホテルに戻ることになってしまった私は、全身の力が一気に抜けてしまい、ホテルが用意したソファで横になってしまった。
 すると三度、加藤が「拓さん、行こう」と言うではないか。私は、土壇場で二度くじけた加藤の弱気が伝播していた。
 「いや、俺はもう行かん。あんた一人で行ってくれ。三度目の正直というわけにもいかん」
 加藤は一人でホテルを出たが、案の定というべきか、すぐに戻って来た。
 
 12月11日(「加藤の乱」は11月20日)、気分がなかなか晴れぬまま、毎年恒例の私の誕生パーティが行われた。会の途中、呼んでいなかったはずの小泉が姿を現した。小泉はマイクを手に、「加藤の乱」での騒動を振り返った後、こんな言葉を残した。
「YKKは友情と打算の二重奏だ」
「皆さんは、私が友情でこの場に来たとお思いでしょうが、さに非ず打算で来たんですよ」
 参会者は呆気にとられたが、私だけは彼の言葉の意味を理解した。つまり「次は俺を頼むよ」ということだ。
 友であり、ライバルであり、時に政敵となりうる。「加藤の乱」を経たYKKを的確に表した言葉だと、妙に納得してしまった。

一老政治家の回想/古島一雄[中央公論社:中公文庫]

一老政治家の回想 (1969年)

一老政治家の回想 (1969年)

 さて古島一雄という人物がいた。子どもの頃は非常に激しい性格の持ち主で学校に入っては放校されまた学校に入っては放校され…を繰り返し、やがて国粋主義雑誌「日本」の編集に加わって正岡子規を見出す等、なかなか愉快な人物だったらしいが、この人物の名が今でも残り続けているのはそんな事によるものではない。日本の近現代史を語る上で絶対に避けて通れない犬養毅(第29代内閣総理大臣)の側近であり参謀でありお守り役であったから残っているのである。
 では犬養毅とは何か。一般的には「『憲政の神様』と呼ばれた」「五・一五事件で殺された政治家」で説明がつくであろうが、犬養を語るのにそれではあまりにも内容がなさすぎる。犬養は1890年の第一回衆議院議員総選挙から五・一五事件で殺害されるその時まで衆議院議員であり、42年に渡って「国民から選ばれた政治家」であった。決して盤石とは言えない、大日本帝国憲法下の議会(と政党)を最後まで活動の拠点として、藩閥や軍部と戦い、ついには軍部の手で命を絶たれた、それが犬養毅である。犬養の死後の大日本帝国は軍部が支配する暗黒の時代へと突き進んで崩壊するのであり、もし犬養が五・一五事件を生き延びていたら大日本帝国の崩壊はなかったのではとも俺は思う。犬養は軍部が力を持つそもそもの始まりである満州事変を解決しようとしていたのであり、世界を敵に回すことになる満州国建国にも絶対反対であった。もちろん軍部や軍部寄りの政治家が犬養を妨害しようと画策したが、藩閥と戦い続けてきた「憲政の神様」である77歳の犬養には恐いものなど何もなかった。しかし憲政の神様は凶弾に倒れ、大日本帝国もまた倒れることになるのである。
 とは言え本書は古島一雄の回想録なので犬養以外の政治家も多数出てくる。犬養ほどの大物政治家となると「どこに行って、誰と会ったか」だけでニュースになって周りが騒いでしまうので犬養が他の政治家や官僚と連絡・相談する際は側近を通じて行わなければならず(これは今でもそうだが)、犬養の側近であった古島は「犬養の使い走り」と称して戦前日本の主要な政治家(尾崎行雄、松田正久、頭山満西園寺公望、床次竹次郎、加藤高明、三浦梧桜、等々)の間を渡り歩くのであり、俺のような政治マニアにはたまらない面白さであったが、その中でも特に面白かったのが原敬犬養毅との比較で、原も犬養も藩閥支配を憎み日本に政党政治を根付かせようという考えは一致していたが、それでもどうも噛み合わないのが人の世の不思議で、犬養はとにかく山県有朋を嫌っていたが原は山県に近づくどころか至れり尽くせりで政権を握ろうとしていた。憲政擁護運動で原が率いる立憲政友会と犬養の立憲国民党が共闘して藩閥と対決した時も、原にとって犬養の「断固妥協に非ず」など野暮の骨頂で、いつでも権力と手を握る用意ができていた。また原は地方に鉄道を建設するなどの利益誘導的手法で政友会の支持勢力を着実に固めていったが、犬養の主張はと言えば「普通選挙の断行、経済的軍備論、産業立国」で、とても政友会に対抗できるものではなかった。その犬養が原の死後に政友会の総裁となって原と同じようにテロに倒れるのだから、政治とはつくづく人間ドラマである。
 犬養の死後、無欲で地位も名声も興味がなかった犬養と同じく古島も政治的野心は何一つなく老いてゆくが、それでも戦後に幣原喜重郎吉田茂が首相を引き受けるのに一役買ったところを見ると、この男もなかなかの政治家であったと言える。そして明治・大正・昭和の政治も決して悪いところばかりではなかったという事がこの回想録を読んで再認識できよう。そして再認識した後は、今の政治を生きる我々がどうするかである。
   
 犬養は憲政擁護会の宣言で「断固妥協を排す」と一本釘をさして置いたものの、政友会はきわどいところで、いつなん時妥協に宙返りせぬともかぎらず、九仞の功を一簣に虧く結果になるかも知れぬという点を常に心配していた。犬養はこの提携を一時のものとせず、多年希望する民党合同を実現したいと考えていたのである。そこである時ひそかに原、松田、岡崎の三人と芝の三縁亭で会談し、「従来、政・国両党が連合すればかならず閥族を制圧し得たが、そうすると閥族はきっと両党を引き離し、一方と妥協して、命脈をつなぐという歴史を繰り返して来た。今度の提携もきっと離れる時が来る、よってこの際両党を併合して完全に共同の敵を倒し、政党内閣の基礎を固めようではないか」と民党大合同を説いた。原は口を緘して片言も洩らさず、松田は一席の座談で決められる問題ではないから、西園寺総裁の意見を聞いた上で確答すると言った。その時原が犬養の年齢を問うたが、犬養は原より一つ年長なのである。原が特にこれを聞いた一事で、犬養は直覚的に合同のできないことを感じたと後日語ったことがある。原は松田が年長で、順序から言えば松田の時代になることを気にしていた。その上にまた年長の犬養と一緒になってはたまらぬと考えたのであろう。
    
 初め、政友会は当然山本(権兵衛)が援助を求めて来るものと期待していたが、山本はシーメンス事件で満身創痍の時、政友会の取った冷淡な態度に不満を持っているので、手を下げてまで入閣を求めようとはしなかった。一方、憲政会に対しては、山本が第一次内閣の時加藤の入閣を勧めたくらいだが、シーメンス事件で彼を盗賊のように罵った者は憲政会の前身の同志会である。これに対して与党を要望するのは山本の誇りが許さない。だから加藤が身代わりを出すと言ってもそのままにしていた。その時僕は旧識の樺山資英(この内閣の書記官長となった人)から組閣の情報を手に入れていたが、犬養にも入閣の交渉があったので、富士見の高原で自適している犬養に連絡を取ると、前年からの約束で名古屋の福沢桃介に招かれていていない。そこで急電を打って帰京を促し、僕は犬養の帰京を沼津の駅まで出迎え、午前三時過ぎていたが、やっとのことで寝台に寝ている犬養を探し出し、喫煙室に誘い出して山本の意向を伝えると、眠そうな目をこすりながら「普選で勝負しよう」とただ一言である。これは山本内閣が普選を実施する誠意があれば入閣するという意味だ。
     
 ところが、(犬養引退後の)その補欠選挙に当たって一番困ったのは岡山の選挙区だ。選挙と言えば「犬養毅」とだけしか書いたことのない人達で、それが突然引退したとなると、自分らの国宝の存在がなくなる。これは真面目に驚いた。どうしたらよかろう。先生が言い出したことを我々が止めたって思い返すことはあるまいと、百方相談の結果、これは仕方がない、先生を再選しようじゃないか。先生に内緒でやればいい、我々が勝手に選挙をしようとそういう段取りにした。ところが、困ったことには選挙承諾書が必要で、本人が承諾せぬ以上は駄目だ。選挙承諾書には判が要る。そこで選挙人が工夫して、どうせ先生に判を捺してくれと頼んでも先生が捺す気遣いはない。仕方がないから偽判をこしらえて、そして先生の所へ持って行って、先生の眼の前で捺そうじゃないか。そうするより仕方がないと言って、総代が偽印を持って十人ばかり連れ立って来て、「実はこういう勝手な事をしました。先生の御趣意に背くけれども、我々は何としても先生以外にない、この国宝的存在を失うことは我々の国の者が承知せん、我々は総代としてこうして参りましたが、承諾書の一件になって困ってしまって偽印をこしらえました。せめて偽印を先生の前で捺させて下さい。これは偽印だと言って先生が承知せられんということになると、我々は仕方がないから監獄へ行きます」と言っておどかした。これには犬養も大弱りに弱り、それほどに言うならというのでとうとうそのままになってしまい、犬養はまた議員に選挙されたが、行くところがないから政友会に入ろうということになって政友会に留まったわけだ。
       
 彼はまた常に「順境とか逆境とかいうことは他人から見たことで、自分で順境が楽しいとも思わず逆境が苦しいとも思わぬものに取っては順境も逆境もないはずだ。鳥から見れば水中の魚は逆境であろう。魚から見れば空中の鳥は逆境であろう。目的さえしっかりと立っておれば、その目的に突き進んでいく途中の難関を突破することはむしろ愉快である。登山をしたものはこの気持ちはすぐ分かるはずだ。自分は多年世間のいわゆる逆境におった時代が多かったが、別に苦しいと思ったこともない。自分が目的を定めて一心不乱にやっておれば家族も自然その感化を受くるものだ」と言った。
 彼は道義にもとづく信念を行動の基準としておった。この物指にあてはめて判断するから如何なる大事が起こっても、如何なる咄嗟の場合にもピタリピタリと決してゆく。彼は党員の離合集散のある場合に「利害の打算に迷って居る連中は打っちゃっておけ」と言った。殊に彼が天賦の聡明は直ぐに問題の核心をつかむと同時にその落着の見透しをつけておった。従って彼は天下の大事を茶呑話の間に決したり、問題の多寡をくくって至極無造作に片付けた。これがために知らぬ人からは本気かしらとあやぶまれたり、中にも入念者は頼りないように感じて不平を訴えたものさえあった。政友会の総裁になってからはなるべく多数の意見を聞くようなふりをしておったが、それでも腹の中では、政党の総裁ほど実際専制のものはないと思うておった。平素はただウムウムと聞き流して好々爺然としておったが、いざ最後の一点となると頑として聞かなかった。久原が協力で失敗したり、軍部が警戒しだしたのもこれがためであった。

公共図書館の冒険 未来につながるヒストリー/柳与志夫・田村俊作編[みすず書房]

 何度か書いた事だが俺は司書になって図書館で働きたかった。そのため大学はわざわざ司書資格課程のある大学を選んで、司書資格を取るために夜間入学のくせに昼の授業にも出てずいぶんと嫌な思いもした。とは言えその図書館司書課程の授業で教授達は「図書館司書はただ黙って本の整理をすればいいのではない、あらゆる利用者のニーズに応えなければならない」「今後は本のみならず様々なメディア、特にコンピューターやインターネットを駆使して情報の専門家とならなければならない」「情報が社会を支配する中で、図書館司書は社会の先頭に立つ事になる」等、兵庫県糞田舎に生息する半ひきこもりの人間にとっては恐ろしい言葉を投げかけ、俺は早々に図書館司書の道を断念する事になった(但し司書資格は取ったので、俺は有資格者なのですよ)。
 それから月日は流れ俺も社会人・サラリーマンとしてそれなりの経験を積みつつ日本図書館協会の会員になったりこのブログやツイッターを通じて現役の図書館員の方とやり取りをしてわずかながらも図書館と関わりを持っているわけだが、一方で図書館の地位は低下し続け、日本図書館協会その他の図書館業界は地位低下に反発しつつも有効な対策が打てず現状に甘んじている…というのが「普通の図書館利用者・図書館好きよりも図書館全般について詳しい、しかし純然たる外部の人間」たる俺の印象である。しかしこのまま図書館の地位が低下し続ければ人口減と財政難によって図書館がなくなってしまう可能性も否定できず、それはかつて図書館で青春の一時期を過ごし、癒され、今もなお居心地の良さを感じて各図書館を訪れる俺にとって他人事ではない。
 しかしながら図書館は今や社会的に認知されている。どこの地方の市町村にも図書館は当たり前にあり、これらを廃止するとなれば、今まで当たり前にあったものが急になくなるのだから反対の声は上がろう。しかし例えば「図書館に係る経費・人件費を削減する」「民間に委託してコストを下げる」であれば逆に反対の声は上がらず「図書館が存続するためにはそのような事はどんどんやって欲しい」とすら言われる。なぜなら図書館を管理・運営する司書の重要性が認知されていないからであって、それについて今までは主に制度的な側面から言及されてきたが(司書は一定の授業を受ければ誰でもなれる、そもそも図書館長が司書資格を持っていなくてもよい、等)、本書第5章では「小説・漫画・ドラマ等で描かれた図書館員」について言及され、その中で図書館員は「本が好きなら誰でも楽しくできる」「司書資格を持っていて専門的な能力があるから務まるとは描かれない」のであり、そのようなイメージが図書館に詳しくない人間の目に触れ、再生産され、「それなら(司書など)いらない、人件費はアルバイト並みに安くていい」という考えに繋がるのも容易な事である。
 ではなぜ「(図書館の仕事は)誰でもできる」と一般の人々から見えるかと言えば、戦後の図書館サービスが「貸出サービス中心」となったからで(第6章)、図書館は資料(地域・郷土資料含む)の整理・保存、住民からの調べ物相談、といった専門性が必要なサービスよりも「貸出サービス」を優先するべきという考えが打ち出され(「中小レポート」「市民の図書館」等)、この思想・理念が業務運営においても効率的(「本を開架で揃えておけば後は住民が本を選択するだけであり、戦前のように書庫へ本を取りに行く手間はいらない」「本を借りるだけなら、閲覧室はいらない」等)であった事もあり、日本全国の各図書館で受け入れられ、図書館はまず第一に「本を無料で借りられる」ところとなった。しかしそうなると「図書館の仕事」イコール「本の貸し出し業務」と住民には映り、レンタルビデオの手続きやスーパーマーケットのレジと同じに思われる事も自然であった。そして「レンタルビデオの手続きやスーパーマーケットのレジ」と同じ(と思われている)であればそのようなものに売上を奪われている(もしくは売上を奪われる原因の一つになり得る)出版業界が黙ってはおらず、「無料貨本屋論争」となって地位の低下に一役買っているわけであるが、一方アメリカでは図書館大会時に「出版社が来場した図書館員に本を売り込んでいる」(第1章)ほどの図書館文化が花開いている。戦後日本の図書館(及び司書制度)がどこで間違えたかを考えなければならない時がそろそろ来ていると言えよう。
 しかし、繰り返すになるが、今の図書館は社会的に認知されている。なぜなら利用者は必要な本を必要な時に読む事ができ、それによって健康で文化的な生活を送る事ができるからである。もしくは「図書館」という空間で、日常の喧騒を忘れ、静かに時を過ごす事で、やはり健康で文化的な生活を送る一助となっている。図書館は必要なのである。しかし図書館に何を置いて司書は何をするのか(図書館及び司書がやらなければならない事)、図書館に何を置かないで司書は何をしないのか(図書館及び司書がやる必要のない事)を整理する事なく、ひたすら「貸出サービス」を推し進める事でここまで来てしまった事は否定できないのではないか。戦前において図書館は「図書」の館であり娯楽雑誌や大衆雑誌は読めず「雑誌回読会」などに頼るしかなかったし、「大衆に迎合する俗書(雑誌の他、小説や漫画)」は選書から排除されていた(第2章)。それが戦後は一転して「利用者のどんな求めにも答えなければなりません」となったはいいが、ではベストセラー小説やどんな種類の漫画も(俺がラブコメ大賞で言及するような「エロではないが、非エロでもない」漫画)全面的に受け入れるのかと言えば中途半端な状態で現在も図書館に置かれ、一部の図書館ではリクエスト制度の暴走といった事態にまで発展し、出版社が言いたい放題できる隙を与えてしまっている。一方で図書館における本の物流システム(書架に並ぶまで)は効率的に整備されたが(第3章)、その成功体験が身についてしまったのか、電子書籍・デジタルコンテンツへの動きは鈍い(特に地方の中小図書館)等、等、図書館のみならず経済・社会そのものが大きく変わろうとしている現在、図書館が「何をやろうとして、何ができて、何ができなかったのか」そして「何をしなかったのか」を整理してくれる本書は、必ずや未来の図書館のヒントとなるだろう。

生涯忘れられない日

3月25日

  • @shomotsubugyo 女子会ですか? まさかまたデート? posted at 11:27:14
  • 新橋古本まつり(準備中) pic.twitter.com/iEF0DvUIQC posted at 18:33:07


  • 昨日買った本やら何やらを整理中、置き場所はないぞ、どうするんだ pic.twitter.com/VDVYlHgrFL posted at 21:07:36


  • 会社での話。 先月末、めでたく60歳で定年退職となった人で、割と仲がいいのにサシで飲んだ事はないのでと飲みに行きまして、その人のサラリーマン人生について話を聞いてきました。 posted at 21:48:06
  • その人曰く「昔、30年くらい前は、皆残業なんかしてなかった。定時の17時半とか18時には帰れていた。今思えば、とにかく人が多かった。でもそれが当たり前だった」 「残業なんて月に一度か二度くらいで、その時は会社からパンとか弁当が出た。だけど皆、それが当り前だと思っていた」 posted at 21:52:51
  • 「ところが20年くらい前から、徐々に残業というか、帰りが遅くなってきた。たぶん、1人1台、パソコンが支給されだした頃だと思う。今までは部に1台か2台、共通のパソコンがあったんだけど、1人1台になって、終わりというか、どこまでやればいいかの境い目がなくなってきた」 posted at 21:56:22
  • 「変な話だけど、残業が当たり前になってくると、それまで注文してきたパンとか弁当とか、頼みづらくなって、なくなってしまった」 「いつの間にか、残業するのが当たり前になっていた。それも何となくだよ。何となく、定時に帰るのが当たり前だったのが、今度は残業するのが当たり前になったわけだ」 posted at 21:58:49
  • 「昔は定時で帰れたっていうのは、別に生産性が良かったからとか社員が優秀だったからじゃなくて、人が多かったのと、今みたいに消費者とか投資家へのサービスがあまり意識されなかったから、適当にしてれば良かっただけ。でもそれが当たり前だったから、当時は何とも思わなかった」 posted at 22:02:53
  • 「年頃で独身の社員が男女で多数いたら、彼らが話したり飲んだりできるように、さりげなく場をセッティングしてやろうという雰囲気が昔の会社にはあった。でもそれも20年くらい前からなくなってしまった。セクハラとかが言われ出した頃だと思う。とにかくどんどん窮屈になっていった」 posted at 22:09:33
  • 「会社に限らず、社会全体が若い人にものすごく不寛容になっている。昔は若い人はとりあえず飲ませて遊ばせとけ、いずれ彼らも中年になったらちゃんと仕事するんだし、その時のために今は遊ばせておけって感じだったんだけど、今は若いうちから勉強だの英語だの仕事だので見ているこっちが辛い」 posted at 22:17:33
  • えっと…風呂からあがって歯磨きして、そろそろ寝ようとしたら…リツイートが30?いいねが40? こういう時どうするんだ、誰か教えてくれ。 posted at 00:13:32
  • 追加。 「例えば定時が17時半だとすると、17時半で終業のチャイムが鳴る。そして次に17時40分にチャイムが鳴る。残業開始のチャイムだ。つまり、17時半から10分は休みという事で、そういう事もチャイム一つで工夫していたわけだ。もちろん、皆それが当然だと思っていた」 posted at 00:57:25
  
3月26日
  
3月27日
  
3月28日
  • えーと、これ、俺には何の連絡もないんやけど…。 そんなもんなんですか? blog.esuteru.com/archives/90821… posted at 01:05:05
  • 3600、だいぶ落ち着いてきたので一安心。 いつものアホなツイートに戻りますよもう。 pic.twitter.com/Agv4OPFKd8 posted at 15:18:08


  • @tarimo99 3800か、頑張るなあ…。 というか、もうこれ俺のツイートじゃないって事でいいよ、俺のもんって感じがまるでせんわ。 posted at 22:25:06
  
3月29日〜