政局で選ぼう

 「政策論争をしてほしい」「政策で勝負しよう」という言葉をよく聞く。「政局ではなく政策で、具体的に論争しよう。各党のマニフェストを隅から隅まで読み込んで投票しよう」ということがさも正しいことのように語られているが、万人が納得するような政策など存在しない。自公が勝っても民主党が勝っても実施しようとする政策には必ず反対者が出現する。一口に反対とは言っても絶対反対から条件付き反対、または「反対派の側についた方が有利」だから表面的に反対を唱える者などが跋扈する。それらを調整するのは政治家の仕事である。官僚にできるのは優等生的な理屈付けだけで、調整という名の妥協・説得・恫喝・買収といった駆け引きができるのは政治家だけである。
 「官僚に頼らずに政策を作ることができる」政治家が優れているような風潮があるが、本来政策を立案し、複雑な法体系にその新たな政策を組み込むのは官僚の仕事のはずである。今は政治家が中途半端に政策立案に関与し、官僚による法技術的な反対で頓挫し、反対者が続出すれば嫌気がさして各方面への調整も官僚に丸投げするという状態である。全ては「政局」をコントロールしていないことから生じる。
 何度も言うが、この国は議院内閣制の国である。国会で過半数を制する勢力が首相を選び法律を決める。そのためには是が非でも選挙に勝たなければならない。選挙に勝って過半数を得なければ政策を実現することができないからである。「政治家は選挙のことばかり考えている」というが、選挙で議席を得なければ何もはじまらない。だから参議院過半数がない今の政権は思うように政策を実現できない。一昔前の自民党ならばここで民主党を分裂させるという大政局を演じただろうが、「政局はけしからん」というマスコミを恐れて何もできず、結局無為に時間だけが過ぎていくことになる。そこで与党は「野党が反対するから」「野党が審議拒否するから」と言って自らの責任ではないことをアピールするが、反対しない野党など存在するわけがない。反対しなければ野党の存在理由はなくなるからである。それに国内はともかく国際社会に向かって「野党の反対でできませんでした」などと言っては恥の上塗りもいいところである。自分の国の反対派を制御できないということは統治能力がないということであって、そんな国と話しても無駄となり、国際的な信用は著しく低下する。全ては「政局」をコントロールできないことから始まっている。
 学者や官僚が「正しい」と言う政策がそのまま通るわけがない。様々なレベルでの反対が渦巻き、マスコミが敵にまわる可能性もあろう。反対派への切り崩しのためにはきれいごとでは済まされない取引を行わなければならないし、一人でできることには限界があるから「派閥」という強い結束で結ばれたチームを使うことが必要不可欠となる。それら全てを「政局」と表現し、「権力闘争ばかりで不謹慎だ」と言うことが、その政策に反対する勢力(あるいは賛成する勢力)への援護射撃になり政局的意味合いを持つことに誰も気付いていない。そして「政治家は政局ばかり考えている」と言って政治家は萎縮し、国民からは姿の見えない官僚の出番となる。何度も言うが、自分たちが選んだ政治家を罵倒しても官僚が漁夫の利を得るだけであることにいい加減気付くべきであろう。2ちゃんねるに代表されるネットメディアではそれこそ政治家への罵倒が日常茶飯事的に飛び交っているが、それを見て官僚はご満悦に違いない。「東京地検が動くということはほぼクロで間違いない」などという言葉が普通に使われていることの恐ろしさを我々はしっかりと認識すべきである。
 
 総選挙がはじまり、各党は一斉に「政策能力」をアピールしている。政治家たちが官僚なみに法理論を理解し、法技術を駆使することができるのなら「政策能力がある」ということになろうが、そんなことは絶対にありえない。だとすれば選挙で我々が候補者・党を選ぶ基準は何か。どの候補者や党が「政局」に強いかである。政局をコントロールできなければどんな良い政策も実現しない。そして国内での権力闘争に勝ち抜くことができなければ、無政府状態にある国際社会とグローバル経済を生き抜くことはできない。アメリカやロシアや中国やEUから蔑まれ、糞小便をふっかけられても国益を勝ち取らなければならないのである。