野坂昭如ルネサンス(5)とむらい師たち[岩波書店:岩波現代文庫]

 2008年1月4日、青春と思い出と愛憎渦巻く三宮のジュンク堂書店三宮店でこれを買ったはいいが読み終わったのはずっと遅れてたった今、これが俺の流儀と思えば別段何も感じはせぬが世に溢れる賢い人たちは一体どうしているのかしらんと一層空しきマイライフ。大体堂々と「私の趣味は読書です。特に好きなのは講談社ノベルスのミステリーかな」とか言う奴の多いことゴミの如く、いくら俺が阿呆んだらあんなもんただの漫画の生き写しやがなと電子空間で叫んだところで何も変わらんのやからとこれもまた何も感じない。あの金持ち大学生の、暇やから些細なことで悩んでみましたとか言うとるような奴らにこういう本を読ましてやりたいんやけどなあ。スマートです、オシャレです、スイーツです。何やそら。俺とは住む世界が違うんやなあ。
 この本を読むのに大体3週間ぐらいかかったのは仕事のほうが忙しくて結局日曜日しか読む日がなかったからで、その仕事いうんも何や知らん手間ばっかり増えよっていくらかは責任ちゅうか任されてはおるんやからそうなったんやろうけど俺はそんな幹部候補生日本経済を引っ張るエリートサラリーマンとかいう柄ちゃうからやらんでもええんやけど例えていうならジェットコースターに乗ってしもたみたいな感じでもうどないもならへんわけや。手遅れっちゅうかもう周りは猫の手も借りたいわけやから人間扱いされへんけどとりあえず人間の俺はとにかく働けっちゅうわけであって、まあ日が変わるまで残業して電車なくなったらタクシーで家まで帰ってそのタクシー代は経費で落とせるわけやから俺も何とかサラリーマンっちゅうわけか。阿呆くさ。
 皆が皆臭いものに蓋をするごとくの葬式に耐えられぬは隠亡の息子である主人公、ほんまの死と死顔を見せたる、人はみんな死んでそらもうグロテスクに滅茶苦茶になるんやけど、それがあるから生きていけるんやんかと何せ隠亡の息子やから怖い者知らずにどんどん話は転がってなるほど60年代末の血気盛ん破壊衝動満載の全共闘世代が夢中になるのも無理はない。何や知らん、全てがうまくいってみんな優しくて争いとか諍いが全然あらへんように装って実は裏にものすごいドロドロのえらいもんがあるのにそれに気付かんようにしよる大人が腹立ってしゃあなかったわけやな、若き団塊の世代は。
 思い起こせば7年前の2001年に高校を出たばかりの阿呆んだらの俺は梅田のまんだらけに行ってそのまさに60年代末の「ガロ」とか「週刊少年マガジン」とか買っとったわけであって、何でそんなもん買ったか言うたらその時の俺も破壊衝動満載やったからで、そしてご存知の通りその年の秋には第一次大病戦争の大戦争が始まるっちゅうことでうやむやになってああ思い出したくない忘れたいいや忘れたらあかん。
 結局いつものように何が言いたいんかわからんからさっさと切り上げますが、この本みたいにヤケクソの破れかぶれの世にたんまり溢れる汚い現実っちゅうのを書いた文学っちゅうのんか小説って言うのかわからんけどそういうのをどんどん残すべきだと思うので天下の岩波様が何をとち狂ったかやり出したこの野坂昭如ルネサンス、非常に宜しいおまんがな。そういやこの岩波現代文庫、俺が高校三年の時に創刊してそん時筒井康隆の「文学部唯野教授」を売りよってほほうまたえらいどぎついことしますなあと息巻いたもんですわ。
 ほんま、俺かて滅茶苦茶やって死んだるで。などなど言って気が付けば大きく深く黒い穴。じっと見つめるうち見えてきたのは何と何と…。