ミカドの乱、ラブコメの船

 あっ。何ということだっ。Googleで「ラブコメ」を検索したら17件目でこの日記が出ると書いたが、今やってみたら(2月22日11時46分)20件目になっていた。なぜだ。いや大体MSNやYahooで検索したらこの日記なんて出てこないのだから出るだけマシか。どうせ俺のいうラブコメなんて世間でいうラブコメじゃないんだからな。しかし「主張が敵を作らないはずがない」(ラサさん発言録より引用)のだし、「堂々と否と言える勇気」(リョウコーさん発言録より引用)があってもいいはずだ。そんなわけで今日も俺は戦います。たとえ「ラブコメを捨てて政治一本でいけば」と言われても「本当はレズも好きなんでしょ?」などと言われてもだ、俺は俺が正しいと思う道を行くまでだ。俺という人間がここまで阿呆になれたのもラブコメのおかげなのだし、レズは大嫌いだ。レズなどというものは全てのラブコメにとっての敵なのだ。何だあの気持ちわるいアニメは。それでこの前そのアニメというか小説というかそうです今あなたが考えているあのマリアさんですがそれを少し罵倒したらまあものすごい荒らし嵐が来たんだよなあ。わははははははははははは。え。ホモでもレズでもラブコメはラブコメだと。わかりました。では俺はここに高らかに宣言します。同性愛に反対する。まあそれも一つの意見ということで。
 ラブコメの一番の魅力というのはこの、「平凡以下の何者でもない者」が「非凡な事件に巻き込まれ」、更には「非凡なキャラクターと物語を展開」し、作品展開における主導権を「平凡にして弱いと思われた男が握る」ことにあるのだが、最近そのような漫画・小説・ゲームが激減してかわりに「美男子」だとか「ナンパ野郎のスケベ野郎」だとか「初対面の女にいきなり話しかける男」だとか「気味が悪いほどのいい人」等その他その他が主人公な作品ばかりが目につく。あと、「平凡な大学生だが柔道三段の腕前」とかね。一体それの何が平凡なんだ。平凡というのはそれはもう俺のような世間から糞蛆ゴミ汚物のように扱われている人間のことを言うのであって。は。それはお前の被害妄想自意識過剰だと。はははこれは手厳しいですなあ。はは。
 しかしよく考えれば俺を100%満足させるラブコメなど俺が自分で作り出すより他ないではないか。おおそんな事はできない。政治論文ならともかく俺には文章の才がないからだ。と考えて俺はドエライものを思いついてしまったのだ。その物語はもちろんラブコメだが舞台は何と皇室なのだ。つまり日本国の象徴たる天皇の子供が女のみであるとすると、現在の法では男しか天皇になれないから誰か外から娘の夫になる人物を募集せねばならなくなり、もしその男が天皇の娘にして長女である女と結婚すれば次期天皇はその男になる(現在の日本の皇室典範には「天皇及び皇族は、養子をすることができない」と明記されているが)という、ああこんな事書いて大丈夫かな、しかし天皇の娘には既に思いを寄せていた男がおり当然ラブコメの論理からいってその男は平凡にして冴えない男になるがそこで宮内庁、皇室、政府、マスコミ、そして当の本人をめぐって上へ下への大騒動になるのである。ああ書いちまった。しかしこのような話は別に目新しいものではなく、たとえば「ローマの休日」がある。まああれもラブコメといえばラブコメだな。大体面白い映画というのは昔のものばかりであって、「独裁者」とか「アパートの鍵貸します」とか「駅馬車」とか。で、ええと、とりあえず危ない話を続けます。
 天皇制について、あの、話します。はい。あの天皇制ですね。どういう天皇制かというと、「日本国の象徴」である位置に天皇がいるわけですね。そこで問題になるのが「象徴」の意味であって、俺には「日本国および日本国民統合の象徴」というものがいまいちよくわからないのである。日本国民の象徴というのならそれこそ選挙によって選ばれた内閣総理大臣の方が国民に直結していると思うのだが、いかんこんな事を書いていてはまた荒らし嵐が。いやとにかく書くが、少なくとも天皇制が今の日本に必要か否かを俺は問いたいのである。天皇制を維持することによって一体我々の何が保障されるのであろう。平成16年度の宮内庁関係予算は177億であり、当然我々の税金によって捻出されたものである。然らば俺も消費税を払いバイトの給料では所得税を引かれている以上発言する権利があろう。いまだ神秘のベールに身を隠しマスコミの鉄のカーテンによって厚く守られている皇室だが、彼らが一体何をしたというのか。実に何もしていないではないか。政府各省庁や県庁や国会や裁判所や郵便局や社会保険事務所や市役所と同じく税金によって成り立ち職員は国家公務員であるこの宮内庁だが、しかし一体何のためにあるのだ。「日本の文化や伝統を守る」ためにあると。ははあ。国の予算の半分が借金であるという未曾有のこの国ではもはや一円たりとも無駄遣いは許されず一円でも多く予算を削減することが肝要であるのにか。文化や伝統のためには借金まみれでもいいと言うのかね。時の首相は「聖域なき構造改革」を唱え、我が糞田舎においては生命線ともいえる郵便局をブチ壊そうとしているこの激流の国で、なぜ宮内庁や皇室をブチ壊そうとはしないのだ。「聖域なき」とは文字通り聖域がないから聖域がないのであろう。宮内庁関係予算は去年が177億、今年の政府予算案は176億である。おお。おお。それほどのお金が、その、歌会だか外遊だとかに使われるのか。俺にもくれ、ではなくて、今や郵便局や社会保険庁までブチ壊そうとするのであれば、当然皇室関係予算も削減してもいいはずではないか。もし郵便局がなくなれば俺の糞田舎の経済は崩壊するが、別に宮内庁がなくなっても困りはしないのである。それは真実だ。
 なに所詮は一日に回るカウンターが100から200の、「その他のアマチュアによる日記」の一つに過ぎんのだ。だからこそこのような事が書けるわけで、それこそ一日に1000人以上が訪れるような大サイトでは書けないことを書くことが俺のささやかな復讐。え。何に復讐するというのだ。まあ書き進めるが、とりあえずは「もっともっと宮内庁関係予算を削るべき」と言っておこう。大体そのような大金をよりにもよって国民の税金から巻き上げて恥ずかしくないのかね。ことにこの財政難の時代に、「予算を前年度比0.6%削減しました」と言って誰が納得するか。ああ、みんなそう思っているんだけどなあ。もっとイギリスみたく庶民的になれば誰も裏でコソコソと不平不満を言わずに済むのだがなあ。
 それにしても、「日本の文化や伝統、そして日本の歴史の素晴らしさを守るためにこそ天皇制は必要」という考えには少し首を傾げてしまう。第一文化や伝統というものは、国が手厚く保護して税金を搾り取って守らなければならないものなのかね。むしろそれほどの金をかけてやっと維持できるぐらい衰退しているような気がしてならんのである。文化や伝統というのはそれこそ国民庶民の支持があってこそ成り立つのであって、だからこそ豆まきや花見や七夕やお月見や年越しそばやあの胸糞悪いバレンタインデーの伝統が我々の生活から消えないのである。つまり国の補助がなくなってはたちまち消えてしまう伝統文化など本当の伝統文化ではないと言いたいのである。連綿と続く時代の中で常に人々の心を離さないのがいわゆる伝統であろう。そうであれば、つまり我々の心の中に天皇に対する尊敬の念が本当に存在するのであれば、たとえ宮内庁がなくなっても我々は天皇制をなくそうとは思わないはずであり、ことさら宮内庁という組織を作る必要はないのである。江戸幕府ができて200年以上歴代天皇は京都にひきこもっており、幕府は京都にいる天皇を無視し続けた。それでも天皇家は滅びなかったのである。この上予算を10%削減したところで何だというのだ。「単なるお金のあるなしよりももっと大事なことがある」という人には、「では我々は何を食って生きていけばいいのか」とでも言っておこう。この日本社会には爪で火を灯すような生活を送っている人はあまりに多く、国からの補助は極めて少ない。生活保護費はまさしく生きていくためのギリギリのラインしか支給されず、公共事業は減少の一途を辿り、何より激増する老年層に対する医療福祉費・医療福祉施設は貧弱に過ぎる。俺の住むような糞田舎ではそのような修羅場が日常茶飯事的に起こっている。そこに宮内庁関係予算176億などという言葉が目に入っては悲憤慷慨憤懣やるかたなし。俺は何かおかしな事を言っておるかね。