第10位:恋はママならない/片桐兼春[秋田書店:ヤングチャンピオンコミックス]
何度も言うようにラブコメには「地味で平凡で冴えない男」を受け入れるようなヒロインが登場する。そしてそのヒロインは特別に慈愛に満ちた女性でなければならない。と言ってもボランティアに熱心だとかマザーテレサのような考えを持っている女性ではない(そんな女性はむしろお断りだ)。主人公(=読者)をほとんど無自覚、無目的に受け入れる女性でなければならない。
もちろんそのようなヒロインを用意する事は至難の業であるが、では「母親」という存在を使えばどうなるか。即ち、我が子に対して無限の母性(愛情)を注ぐ母親が、その無限の愛情の中に性的なものが含まれていたとしたら…となると話は日本ラブコメ大賞成年編に行ってしまうのだが、とにかく主人公(大学生、20歳前後)は友人の母親ヒロイン(41)に目をつけるのであり、二次元であるから41歳のヒロインは熟女としての魅力を帯びつつ母性的な優しさを醸し出しつつどう見ても20代なのであり、ヒロインにとって主人公は息子の友人なのであるから、最初から好感度が高いわけである。そしてラブコメであるから主人公は友人の姉に無理やり好意を向けられつつも(「私のおっぱい両手で揉んだ」ので「主人公君を好きになっちゃったんだもん!」)母ヒロインからも満更でもない好意を向けられるのであり、紆余曲折を経て友人も友人姉も主人公と母ヒロインのために動き、主人公と母ヒロインの物語は1巻完結で小じんまりと終わるのであった。
本作は熟女ヒロインとしての魅力を帯びつつどう見ても20代な身体を主人公(=読者)が堪能して快楽を貪る、というところまでいかなかったのでこの順位となったが、それでも主人公(=読者)にとってヒロインは大幅に年上であり、子供に優しい母親であり、しかし「寸分の狂いもなくかわいい」「ワキと横乳とブラが見えてすげーエロ」であるから主人公(=読者)は大いに癒されラブコメとしての魅力も保証され、しかし母ヒロインは「そういう経験がない」という初々しさも描かれているので主人公(=読者)の加虐性を煽る事にも成功し、優れたラブコメとなったのであった。ここまで用意されたなら、「恋人同士なのにいつまでも『○○さん』は寂しいわ」「これからもいっぱいいっぱい、色んなことしてあげる」というセリフにも素直に悶える事ができよう。いいものだ。
「お前が出たところに俺は入る!」
9位:民法改正~日本は一夫多妻制になった~/あかほりさとる・竹内桜[白泉社:JETS COMICS]
さて原作はあかほりさとるであり、この男のおかげで90年代のラブコメは間違った方向に行ってしまったわけで、俺などこの男に何度煮え湯を飲まされたかわからない。しかしまあ、このような男に踊らされたのだから90年代など所詮大したことはなかったのだ…という事でもういいではないか。今や2018年も終わり2019年なのだ。
というわけで本作でもその間違った方向、つまり「主人公を人間味のない『いい人』」にしてしまう」という間違いを部分的に犯してしまっているが(「酔っ払いの絡みなら問題ないだろ」「悪い人はいないって思いたいだけなのかもね」)、そうは言っても主人公は安月給サラリーマン(「毎日残業も厭わず働いていますが一向に給料も反映されません」「主人公、これしか稼いでないの!?」)なので、90年代によくいた「勇気・熱血・友情」を備えた唾棄すべき人間ではないので良しとしてやろう。世界のラブコメ王は寛大なのだ。
それはともかく民法改正により一夫多妻が可能になった世の中でたまたま遭遇した事故によりたまたま英雄となった主人公に与えられた一夫多妻制の権利の下で主人公には三人の女が群がるわけだが、そもそも主人公には事故に遭遇する前から彼女がいたわけであり、元々「人間味のない『いい人』」的な性格をしているのでラブコメの大原則である「主人公=読者」として主人公に感情移入するには少々難があるが、それでもこの順位となったのは資産家でもない「庶民」である主人公が一夫多妻的状況になった事による戸惑いを丁寧に描いているからで、ハーレムじゃ肉便器じゃと快楽のるつぼ的に処理せず、ヒロイン1(本命恋人)、ヒロイン2(良家のお嬢様)、ヒロイン3(病気の弟を支えるホステス)と平等に向き合い、支え、もしくは支えられ、一方で経済的な問題(安月給ながら三人の妻を抱えている)も描く事で現実味が出てきており、特に3巻で「一夫多妻を制度化する事により、どの妻から産まれた子供にも相続税が課される」等と急に現実的な話が出た事で「人間味のない『いい人』」という悪印象が薄らぎ、巻が進むほどに楽しくなってくるのであった。
もちろん二次元とは言え妻が3人もいて、その状態に妻達が納得するには理由が必要である。1巻完結の短期間ものなら曖昧に処理できても、複数巻の長編ならば「金」「快楽(性交渉による満足度)」といった明確な理由を提示しなければ「家族」として一つ屋根の下に住む事に違和感が発生するのであり、本作ではその違和感を消すためヒロインそれぞれが主人公に真剣に想いを吐き出し、それでいてシリアスにならない絶妙な間合い(下記参照)を描写する事で「家族」と「ハーレム」の均衡を保っており、こちらも巻が進むほどに安心して読む事ができた。ハーレムとは荒唐無稽なものだが、しかし工夫すれば十分読み応えがある。それがラブコメだ。
ヒロイン1「ヒロイン2が月・水、ヒロイン3が火・木でしょ、なら私は金・土・日でいいんじゃない」
ヒロイン2「何で週末独占なんですか!?」
ヒロイン2「(1度あたり3回ですか?)はい、私は若いんで、主人公さんも張り切ってくれたんだと思います」
ヒロイン3「あら、私の時はもうちょっと多かったような」
ヒロイン1「どういう事!?何でみんな軒並み私よりたくさんしてるのよっ」
8位:うちのヨメはん/小島巧[三月書房:ダッシュコミックス]
さて日本ラブコメ大賞恒例の「『古き良き時代』のラブコメ」シリーズ(2015年4位「まあ失礼ね」、2014年3位「追伸 二人の手紙物語」、20122013年12位「劣等生クラブ」他)、昨年・一昨年はサボってしまったが今年はちゃんと見つけてきました。見つけるのに毎年苦労するが、それでもやめないのはラブコメとは「女から相手にされないみすぼらしいオタクが、せめて二次元の中だけは相手にされたいという現実逃避」のためのものではない事を証明したいからであって、ラブコメとは名もない庶民でも主人公となる事ができ、周りが必ず振り返るような美人のヒロインとロマンスを繰り広げる事もできる、或いは美人なヒロインではないがそれなりにいいヒロイン(情が深い、献身的に尽くす、等)を得てそれなりに幸せになれる…という事を読者に提示する物語であり、そのような物語は昭和の昔から現存して当時の名もなき庶民達を鼓舞してきたのである。とは言えiPhoneやSNSにどっぷり浸かってしまった我々はもう昔には戻れない。しかし強制的に戻らされたら戻らされたで別に構わないような気もする。電話もTVも新聞も本屋もトルコもあるのだから、本作発行時の昭和56年にタイムスリップしたっていいではないか。
話がそれたが、「ふたりエッチ」等に代表される夫婦ものラブコメは別に目新しいものではない。それどころか歴史は古くて、昭和30~40年代の週刊誌や「漫画読本」を読んでいると「倦怠期の夫婦の夜の生活、こうすればもっと刺激的に」等の記事が載っていて、平成の時代に生きる俺の方がびっくりする。しかし昔は適齢期になれば結婚するのが当たり前で、且つ不倫など考えもしなかったから夫婦仲良くセックスする、倦怠期を乗り切るために工夫する事が即ち家庭の平和だったのだ。それがおかしくなり始めたのは高度経済成長が終わって中流意識が完成して浮かれ騒ぎの時代へと入った80年代後半からだが、それはともかく「純情可憐でセクシーで、明眸皓歯でグラマーで、おきゃんだけれどハイセンス」なヨメはんは今日も安月給の旦那さんに報いようと夜のお勤めに精を出すのであり、時には仕事(及び仕事上の付き合い)の疲れで元気がない旦那さんのためにきわどい下着・きわどいシチュエーション等を提案し(「最近マンネリ気味だから、ポルノ映画でも見てきて」「お隣の夫婦は二人の愛の記録を撮っているんですって。私達も…」)、旦那さんはそれに応えたり逃げたりして、かくも平和に安穏に夫婦生活は行われていく…というそれだけの漫画が本作であるが、この夫婦に横たわる安定感をどう表現したらよいか。「普通に暮らしていれば結婚できる」「不倫や離婚など考える事さえない」「給料は安い、おエラい人の考えている事はわからない、でもまあ悪い事さえしなければ何とか楽しく暮らしていけるだろう」という時代の中で日本人は安穏を味わっておけば良かったのだ。まだラブコメという言葉がなかった時代にもラブコメは確かにあったのだ。しかし今やそんな時代は過ぎた。いつの日かラブコメは「女から相手にされないみすぼらしいオタクが、せめて二次元の中だけは相手にされたいという現実逃避」として駆逐されるだろう。もちろん俺は最後まで戦い抜くが、ああ、昔は良かったなあ。
7位:初情事まであと1時間/ノッツ[KADOKAWA:MFコミックスフラッパーシリーズ
さて大事な事なので何度も言うが、ラブコメとは「地味で平凡で冴えない男」に対してヒロインの方から積極的に身を寄せてくる事が基本となる。つまり情事(性交渉)においてもヒロインが主導権を握る事になる。と言っても女性上位であってはいけない(騎上位の事を言っているのではない)。
ではなぜ男が主導権を持ってはいけないかと言えばそこにリスクが発生するからで、リスクとは、
①レイプ犯として訴えられる
②これから先、「自分(=男)から性交渉を持ちかけた」として常に相手(=女)に対して負い目を感じなければならない(自分がこの女を傷物にした)
③「自分(=男)から性交渉を持ちかけた」ことにより、パワーバランス的に不利になる(あなたが私を傷物にしたのだから私の言う事を聞いて当然だ)
のどれかであり、情事(性交渉)の前段階でこれらのリスクを払拭しなければ主人公(=男=読者)は安心して情事へと移れない。即ち、
①両者合意の上での情事である(レイプにはならない)。
②ヒロイン側から性交渉を持ちかける(或いは主人公から性交渉を持ちかけるよう、ヒロイン側が仕向ける)
③ヒロイン側から性交渉を持ちかける(或いは主人公から性交渉を持ちかけるよう、ヒロイン側が仕向ける)事により、今後も主人公側にパワーバランス上の有利さが保証される(ヒロインが性交渉をしたいと言ったから性交渉へと発展したのであって、こちらは負い目を感じずにすむ。或いはこの先、他に魅力的な女ができた場合にはその女もハーレムに引きずり込む事ができる)。
が必要となってくるが、いざ情事(性交渉)となればそのあたりを一つ一つ点検する事もなくうやむやのまま性交渉へと流れ、結果主人公側が後悔する事もしばしばある。しかし本作は「情事までの1時間前~直前」にストーリーが限定され、しかもそれが「初情事」、何度も身体を重ねている状態ではなく恋人同士となって(或いは出会って)直後の初情事なのだから、①~③を検討する時間は十分にあるという、実にラブコメ的なものであった。
もちろん本作のカップルの形態は多種多様であり、ラブコメ的に相容れないものもあるが(積極的な男と消極的なヒロイン)、どちらかと言えば男(=主人公=読者)は「どうすればスムーズに、つまり女を傷つけず、かと言って淡々と終わらず快楽を最大限に享受できるか、または自分が童貞である事を隠して性交渉できるか」悩み戸惑う一方で、女(=ヒロイン)の方は悩んではいるものの「主人公が好きだから、まあヤッてしまってもいいだろう」とアタックする展開が多い(「酔ったフリしてスキを見せる!」「童貞でも童貞でなくても先輩の魅力は変わりません」「お休みのチューして」「意識してほしくてやったんだよ」「相変わらずガード堅いですねえ、でもそういうところも好きですよ」「ウガウガウガウガガウガ…」)ので、やはり結果的にラブコメ的なのであった。それでいい。ラブコメの形は色々なのである。
6位:ギャルごはん/太陽まりい[白泉社:JETS COMICS]
さてこれからやたらと「ギャル」が出てくるので、「ギャル」というものを整理する必要がある。35歳の俺にとってギャルな女子高生とは即ち「約20年前(90年代後半)の自分が高校生だった時に見聞きしたギャル」でしかないからであり、時は流れ平成も終わろうとしている現在、ギャルの姿も形態もすっかり変わってしまったからである。とは言えギャルであろうが非ギャルであろうが女子高生は女子高生である。そんな彼女達の特徴だが、昔は
①いわゆるジャニーズ系に代表されるアイドルに夢中
②スポーツができる男か、イケメンに夢中
の2点しかなかった。そのためほとんどの男子高校生(昔の俺も含め)にとって、すぐそこにいる女子高生は「すぐそこにいるのに遥か遠い存在」でしかなかった。しかし時は流れ平成も終わろうとする頃、何かが変わってしまって女子高生は以下に分類できるようになった。それは
①いわゆるジャニーズ系に代表されるアイドルに夢中
②アニメ・漫画・ゲームオタク(腐女子を含む)
③ギャル
であって、もちろん「①と②」型、「①と③」型もあろうが、③のみの女子高生も存在するようになり、本作のヒロインはその単独③型である。つまり「スポーツができる男か、イケメンに夢中」な女子高生はいなくなり、代わりに「②アニメ・漫画・ゲームオタク(腐女子を含む)」が出てきた。そして「いわゆるジャニーズ系に代表されるアイドルに夢中」にも「アニメ・漫画・ゲームオタク(腐女子を含む)」にも属さない女子高生、即ちギャルが出てきたのであり、そこで「地味で平凡で冴えない男」というラブコメ主人公との接触が可能となり、やむなく料理せざるを得なくなったギャルヒロインは教師としての使命に燃える主人公の誠実さに触れて惹かれていき、そこはギャルであるから(服装は常に胸元を強調)果敢にアタックし、そのアタック力は女子高生ならではのパワー並びに純粋さが溢れ(下記参照)、「ジャニーズ系に代表されるアイドルに夢中」或いは「スポーツができる男か、イケメンに夢中」な人間にありがちな「いわゆるジャニーズ系、スポーツができる男・イケメン、以外は全てキモイ」と言った露骨な差別意識がないところに爽やかさも感じられるのであって、主人公(=読者)はヒロインの積極さを存分に味わう事ができよう。
しかしながら主人公は教師なので立場上ガードは堅くならざるを得ず、また正ヒロインの対比として登場する副ヒロイン(真面目な委員長タイプ)が脇役以上の存在感を出しているため上記のギャルの特徴が薄まっているところも惜しい(はっきりとハーレム展開になるならともかく、非ギャルに焦点が当たる事でギャルの出番及びギャルの魅力が減っている)。しかし優れたラブコメである。今夜はギャルに乾杯!
「ウチら付き合っちゃう?あたし意外と尽くすよ」
「あたしの水着姿にドキドキしちゃった?」
「今日は惚れ直しちゃった…なんてね」
「このまま料理上手になったら将来料理人なれるかな?それか主人公のお嫁さんとか?料理上手なギャル嫁って良くない?」
「主人公のお嫁に行く準備はバッチリだね」
5位:今宵、妻が。/佐野タカシ[日本文芸社:NICHIBUN COMICS]
さて何度も言うようにラブコメとは通常「地味で平凡で冴えない男(=主人公=読者)」と「美人で可愛くて胸もでかくてスタイルが良くてその他完璧な女(=ヒロイン)」が結ばれ、つまり結婚するところで終了となる。そして「こんな地味で平凡な男でも、こんな美人で可愛くて云々な女と結婚できる」のだ、良かった良かった、と癒され、励まされ、希望が持てるのである。そして晴れて夫婦となり社会的に公認された存在となったのだから、どれだけ変態的な性生活を送ろうが誰からも文句を言えない、しかもラブコメのセオリーに則ってヒロイン(妻)は主人公(=読者=夫)にぞっこんなのだから何の問題もない。日々ケダモノになればよいのである。
しかしそうは言っても世の中は危険がいっぱいであって、それだけ魅力的なヒロインなのだから人妻となっても男の視線からは逃れられない。むしろ毎日の性生活が充実すればするほど女体としての存在感が増し、乾いた部分がなくなり、淫猥の香りがするわけで、しかし悲しいかな男は社会に出て働かなければならず、会社や上司やその他世の中の理不尽なあらゆるものと戦わなければならず、性欲丸出しの高校生ではないのだから24時間365日淫乱な妻の要求に応えるわけにはいかない。しかし淫乱な妻の要求に応えなければどうなるか。もしかしたらもしかしたらもしかしたら、他の男の手に落ちるかもしれない、世の中は何が起こるかわからないのだ…という事で主人公(33歳)は暴走し妻(23歳、とびきりの美人)を組み敷くわけであった。
妄想の中をさまよう夫(=主人公=読者)は「妄想の中の妻の淫らな姿」を思い描くうちに現実の妻との区別がつかなくなって嫉妬に悶え苦しみ(「その清楚で清純な良妻の仮面の下に、そんな淫らな願望を飼っていたとは…!」「俺は、お前の全てが俺のモノでなければ我慢ならん小者なのだ!」「清楚ぶった化けの皮を今から剥がしてくれるわ!」)、自分(=夫=主人公=読者)なしでは生きていけない身体にしてやろうと激しく妻の身体にその欲望を放出し更に放出し、そのような夫(=主人公=読者)の要求に応えるべく妻もまた淫らに応える事で(首輪、青姦、スクール水着、欲情メスサンタ)夫(=主人公=読者)は大いなる安心感と支配欲を満たす事ができるのであるが、しかしそうすると妻はますます淫らに輝くのであり、嫉妬に狂う夫はやはり全てのエネルギーを持って妻の身体を征服するのであった。
つまりこの一連の流れ自体が夫婦二人のプレイなのであり、いささか変態的とも言えるが、しかし夫婦であるから牧歌的ですらある。また幾多の性交渉の中で妻は夫に強く身体を攻められる(責められる)事に悦びさえ見出すが(「下さいっ、欲情妻にお仕置きしてっ」「卑しくて恥ずかしい、至らない妻でごめんなさい」)、それによっていかに妻が夫に依存しているかを読者(=夫=主人公)は認識する事ができ、優位に立てるどころか支配の感覚すら味わうことができよう。通常の恋人関係で「支配の関係」となるとタブーの感覚が浮上し身構えてしまうが、夫婦という社会的に認められた関係であればタブーを感じることはなく、しかしケダモノのように性交渉に没頭でき、夫婦の絆は強固になるのである。なるほど「結婚がゴールインではない」とはよく言ったものだ。
4位:やんちゃギャルの安城さん/加藤雄一[少年画報社:YKコミックス]
またしても「ギャル」の登場であるが、6位との違いは本作の方がギャルの持つ突破力が上である事で、6位で述べたように「女子高生」の中の「ギャル」の中に、「ジャニーズやイケメン」的なものに興味がない人種が現われたのである。これは画期的な事であって、それによってギャルの非常識さと「地味で平凡で冴えない男(=主人公)にもガンガンアピールする」がリンクする事になった。つまり本来なら「女子高生はジャニーズ、イケメン、スポーツができる男しか認識しない。それ以外の男は全てキモイもの扱いする」が常識であったが、ギャルは非常識な存在であるから、それら常識の逆を行くのである。その昔、ルーズソックスやガングロなどのおかしなファッションが流行した時も彼女らは「別に他人にどう言われてもいい、どうでもいい」と意に介さなかった。だから「地味で平凡で冴えない男(=主人公)と仲良くする」という、一昔前の女子高生ならば考えられなかった「おかしな事」も、「別に他人にどう言われてもいい、どうでもいい」のである。
つまりギャルの非常識さという突破力がラブコメとリンクしたのであり、6位の場合ヒロインの相手(=主人公=読者)は教師(大人)であったが、本作のヒロインの相手(=主人公=読者)は同級生でクラスの日陰側の人間、「要領悪くて勉強くらいしかやる事のない情けない」人間であり、ギャルはそんな主人公に興味津々にやってきてはちょっかいを出し、主人公は嬉し恥ずかしの青春を送るのであった。
何度も言うようにラブコメとはヒロイン側が積極的に出なければならない。なぜなら主人公(=読者)は「地味で平凡で冴えない男」であるから、積極的に女にアタックするわけにはいかない。しかしそれでは彼女ができず、灰色の青春となってしまう。そのため本作ではギャルヒロイン側から主人公(=読者)に話しかける事から始まり、ちょっかいをかけることになり、買い物に付き合う(デートする)事になり、「今日、ウチに泊まりなよ」と言われるのであり、屋上で二人だけで水着になるのであり、夏祭りデートする事になり、主人公(=読者)は戸惑い表面上は迷惑な風を装いながら、しかし満更でもないのであった。またヒロインは「人目を気にしない非常識なギャル」であるから、「人目を気にしない非常識なギャルだから振り回されてもしょうがない」として自身(=主人公=読者)の下心を納得させるのも容易であって、読者は歓喜しつつ、失われた青春を十二分に取り戻す事ができよう(具体的には下記参照)。素晴らしい。ラブコメとは希望であり癒しであり、救済なのである。女子高生でジャニオタ・腐女子・ギャルの三択なら迷わずギャルを選ぼう。
「本当の事言ってくれたらキスしてあげるよー」
「せっかくだからこの状況楽しもうよー、カップルみたいにさー」
「けっこー料理とかするからね。隠し味とか入れちゃうし。主人公への愛情」
「(漫画を見て)この女の子の中でどの女の子が一番好きなのー」
「(下着の)フリフリのカワイー系でも、ヒモみたいなセクシー系でも、主人公の好きな下着つけてあげる」
「私と付き合ったらそういう事するつもりなんだ」
「あーあ、私のはじめて(初間接キス)主人公にあげちゃった」
「補講回避できたら、夏休みに私の事好きにしていいから」
「主人公は私が他の男を泊めて何をするのが嫌なのー」
「主人公の匂い嫌いじゃないかもー」
「私の胸、見たくなった?」
3位:Re:まりな/原田重光・瀬口たかひろ[白泉社:JETS COMICS]
さて何度もいうようにラブコメとは「空から女が降ってくる」ものでもある。なぜなら「地味で平凡で冴えない男」が「美人でかわいくて胸もでかくてスタイルも良くてとにかく完璧な女」を手に入れるためには想像を絶する努力と苦難を余儀なくされるが、しかしそれらの努力と苦難によっても手に入れる事はできない可能性が高い。つまり無駄な労力と時間を使い果たし、やがて朽ち果てて死んで行くのが現実であって、その悲劇を救うための「空から女が降ってくる」なのである。これによって悲劇の再生産を止める事ができる。日夜、会社に勉強に、その他社会の理不尽な現実と立ち向かう我々が、どうしてたかが女の機嫌を取るために粉骨砕身、捨て身の努力しなければならんのだ。だからこそ昔は「お見合い」というシステムがあり、男は仕事に邁進し社会を変える事ができたのだ。現代に生きる男達は内なる家庭をどう獲得するか、に相応のパワーを振り向けなければならないのだ、これは現代の悲劇だ…という事は置いといて本作だが、
①空から女(美人で爆乳)が降ってくる
②その女は「未来からやってきました」「未来では私とあなたは結婚しています、つまり私とあなたは夫婦です」
③「イチャイチャしましょう」
という事で、「空から女が降ってくる」だけでなく、その後の関係についても徹底した省略が行われているのであった。苦しみと痛みを経由して得られる幸せの「苦しみと痛み」の部分を省略して、その先にある幸せだけを享受しようというのだから大変なものであるが、しかしラブコメならそれも許されるのである。
とにかくヒロインは「既成事実です」「(未来の)あなたが言い出した事なんですよ」という事で「ごはんを一緒に食べる事、お風呂に一緒に入る事、一つの布団で一緒に寝る事」「朝起きたらおはようのチュウ、帰ってきたらお帰りなさいのチュウ、寝る前にはおやすみなさいのチュウ、毎日何かにつけて10回はキスしてました」「たとえ夫婦でもたまには口に出して伝えないと、愛してるって」「夫婦喧嘩をする時はイチャイチャしながらしましょう」として主人公(=読者)とイチャイチャする事を最優先にするのであり、他人であった男女がそこまでの関係を構築するには大変な努力が必要であるが、しかし主人公(=読者)はそれを何のコストも払わずに得られるのであり、本来なら迷わず1位とすべきだが、ここからが16歳童貞高校生主人公の限界で、「未来の俺を好きになったから今の俺も好きだ、じゃなくて今の俺のままお前(=ヒロイン)を振り向かせてやる」として「捨てるべき童貞が守るべき童貞に、抱えているコンプレックスが自らのアイデンティティそのものになってしまっている」、つまり主人公はこじらせ童貞となってしまうのであった。惜しい、実に惜しいが、しかしそこはラブコメなのでヒロインはやはり主人公(=読者)の傍を片時も離れず、キスの嵐が降りかかるのである。読者は主人公となってその嵐に身を任せよう。ラブコメは全てを包み込んでくれるのである。
2位:間くんは選べない/板倉梓[双葉社:ACTION COMICS]
さて普段「ラブコメとはハーレムが基本」「複数のヒロイン達が主人公を取り合う、争奪戦を繰り広げる事が基本」とは言っているものの、もちろんそれは二次元世界の話であって、実際の現実でありえるのは複数の女にいい顔をする、もしくは同時並行的に付き合うという「二股」ぐらいなものであろう。しかし「二股」というのは男側(=主人公=読者)のみの事情(都合、勝手)によるもので女側(=ヒロイン)は合意していないのだから、いわゆる「ゲスの所業」となる。
しかし世の男にとっては危険ながらこれほど魅力的なものもない。なぜなら「美人で可愛くて胸も大きくてスタイルも良くてとにかく完璧」な女はこの広い世の中にわんさかいるのであり、そのうちの1人をゲットしたならば、それ以外の全ての「美人で可愛くて胸も大きくてスタイルも良くてとにかく完璧」な女をあきらめなければいけないからである。とは言え自分は他人とは違う、自分こそは「美人で可愛くて胸も大きくてスタイルも良くてとにかく完璧」な女を2人でも3人でも4人でも手に入れて見せる…と奮い立つのが悲しい男の性であって、二兎を追う者は一兎も得ず、あちらに色気を出せばあちらだけでなくこちらも逃げられるかもしれない、しかしいざその状態(二兎を同時に得るチャンス)に置かれたらどうなるか、特に本作の主人公のような「26歳・童貞」ながら少しの勇気と多くの幸運によってほぼ同時に別々の女から告白された人間がそのどちらかを「選ぶ」事などできるわけがないではないか…。
そのようにして主人公(=読者)は「同い年ながらバリバリのキャリアウーマン、仕事ができて大人の女性、美人で胸も大きい」彼女と「年下の現役女子高生、純粋で一途、自分(=主人公=読者)がすごく好きで、初々しくて守ってあげたくなる」彼女を手に入れたのであり、我が世の春を謳歌する(「恋人がいると世界が違って見える」「ただの夕日だってこんなに綺麗に見える」)のであり、両方の彼女とデートを重ね性交渉を重ね、いかに自分にとって両方の彼女の存在が贅沢なものかを痛感した主人公(=読者)は
①「二股」というのはどちらかが「本命」でどちらかが「浮気」である
②しかし自分にとってはどちらも「本命」である
③その証拠に、彼女Aと会っている時は彼女Aの事だけを考えており、彼女Bと会っている時は彼女Bの事だけを考えている
④つまり、彼女Aと彼女Bと同時並行的に付き合う事は自分の中で矛盾しない
⑤世間的な糾弾は自分が引き受けよう
というやや強引な論法でスケコマシ街道をひた走る覚悟を決めるわけで、それによって読者は「複数の女を手に入れた」事による満足と征服欲を満たされるだけでなく、孤高の戦いに挑む男の気持をも味わう事ができるのであった。とは言え所詮は「地味で平凡で冴えない男」であるから綻びが出てきて(彼女Bが風呂場で彼女Aの髪の毛を発見、主人公「妹だよ」、彼女B「じゃあ妹さんに会わせて下さい」)、嘘を嘘で固めていく事で窮地に追い込まれていく主人公、やはり二股などするものではない…と読者は身に沁みて世にも恐ろしい最後(の手前)となるのであった。ラブコメは色んな事を教えてくれます。二兎を追う者は一兎も得ず。
1位:ギリギリアウト/ソウマトウ[KADOKAWA:電撃コミックスNEXT]
で、1位となりましたのでもう一度言いますが、ラブコメとは「地味で平凡で冴えない男」を主人公とするもので、それだけでよい。「地味で平凡で冴えない男」が主人公となれば、対するヒロインは「美人で積極的」になり、また主人公は「地味で平凡で冴えない」のだから自分から騒動・事件・事故を起こすわけでなく、周囲で自然に騒動・事件・事故が起こり、しかし主人公であるからその騒動・事件・事故に巻き込まれ、主人公はその騒動・事件・事故の鍵を握る重要な人物となるのである(主人公だから当然である)。そこで「騒動・事件・事故の鍵を握る重要な人物」だからと主人公を超能力者にしたり超人的能力を持つ者にしたり性格破綻者にしたりスケコマシにしたりすればラブコメとして失格なのであって、あくまで「地味で平凡で冴えない」というルールを踏まえた上でストーリーを展開させ活躍しなければならないのである。
とは言え主人公(=読者)を「被害者」にしてはならない。騒動・事件・事故に巻き込まれる事だけ見れば確かに主人公は被害者的な立ち位置にあるが、その後もずっと翻弄され続けていては主人公たる意味がない。あくまでストーリーの中心は主人公でなければならず、しかしくどいようだが「地味で平凡で冴えない」人間ではストーリーを引っ張る事はできないからヒロインの存在がクローズアップされ、しかしそのヒロインが常に主人公側を向いている事で、ヒロインの先にある主人公がクローズアップされるのである。そこさえ守ればラブコメは現代劇のみならずSFにもファンタジーにもミステリーにも時代劇にも通用する大変便利なものなのであるが、それはともかく本作はそのような「被害者」的な立ち位置としての主人公と、同時にヒロインを助ける存在としての主人公の描写が非常に行き届いていた。
ラブコメとは「地味で平凡で冴えない男」と「美人でスタイル抜群なヒロイン」というありえない組み合わせが懇意になるわけだが、懇意になるには理由が必要であって、その懇意になる理由はできるだけ普遍的、誰にでも起こり得る偶然的要素が大きいものであればあるほどよい。間違っても「主人公がイケメンだから」「スポーツができるから」「金持ちだから」等の特殊事情ではいけない。それでは主人公=読者の構図が成り立たず、その構図が成り立たなければラブコメは成立しない。そこで本作は「緊張するとお洩らしをする呪い」にかかってしまったヒロインが主人公と触れあう(手を繋ぐ等)事で尿意がおさまるという、何とそれだけで、主人公は何もする必要がないわけであるから普遍的であると言えよう。そしてヒロインは二次元のセオリーに則って美人で巨乳で学業スポーツ共に優秀なのであり、そんなヒロインが「目立たない場所を探すのが趣味」な主人公(=読者)の助けを必要として日々主人公に付きまとうのであり、それによって主人公の存在はクローズアップされ、「ヒロインに常に頼りにされている主人公って何なの?」という事でスポットライトを浴びるわけであるが、主人公は何もしていない(とりあえず手を繋げばヒロインの尿意がおさまる)のであり、しかしヒロインからは感謝され次第に異性として意識され(「呪いに対抗する私の守り神!」)、ヒロインのライバルである副ヒロインからも意識されるようになるのであり、上質なシチュエーションコメディとなるのであった。快楽にまみれたハーレムだけがラブコメなのではない。ラブコメの基本・原則を律義に守った本作こそ1位にふさわしい。素晴らしい。やっぱりラブコメっていいもんですねえ。