季節の終わり

 兵庫県の糞田舎から上京してきてかれこれ7ヶ月が過ぎた。この間永田町を闊歩し神保町を支配し秋葉原を破壊するという我が世の春を謳歌してきた俺であるが、その偉大にして変態たる俺には一つの絶対に避け得ない義務があった。この東京に居を移したことによって発生する義務が。それは兵庫県の糞田舎にいる我が家族・父母妹を東京に招待することであって、つい先日人ゴミが嫌いな父にヒステリー気味の母そして当世風の軽薄な格好をする妹三人はこの世界第二の都市東京に降り立ったのである。3人揃って京都より東に行ったことがないという筋金入りの田舎者、「そんなこと言ったって神戸とか大阪とか行ってるんだから大した違いはないだろう」と言う奴はまだ日本国の病理を知らない幸せ者である。田舎のムラ社会は厳として存在し、その世間に溶け込まざるを得なかった我々はもはや田舎を出ることはできないのだ。
 それはさておき、俺と違いごく普通の一般人である我が家族の、最初で最後かもしれない東京観光である。俺は家族の思うがままに浅草、靖国明治神宮、六本木、新宿、お台場へと彼らを連れていった。都会人ではない俺はやはり家族と一緒に行動することに安らぎを感じ、父母妹もやはり俺と一緒に行動できることに大変な喜びを感じたようである。観光2日目、夜の20時に各所観光を終えて家族全員で俺の家に戻り、俺以外の三人が家に残ってくつろぎ、俺が自転車で秋葉原まで行き本を買い23時に家に戻ると、何とそこに家族三人がいたのである。それは当たり前だが、俺はいたく感動した。まるで本当に家族四人全員がここに住んでいるようではないか。つい一年前は当然のようにして存在していた家族がいることのくつろぎ、安心感がそこにあったのである。日々わずらわしい会社の案件やとっつきにくい上司先輩や扱いに困る同僚を前にして苦悶と鬱屈の思いで身を焦がす自分が忘れていたものがそこにあったのだ。そしてそれはもう俺の手に戻ってこず、一時的に俺の元にやってくるのみなのだということもよくわかった。そうか俺は大人になったのだ。
 来たときと同じように、俺は家族を東京駅の14番ホームで見送った。最後まで一緒にいたかったからだ。彼らが乗る新幹線が来た時、俺は一瞬どうしていいかわからなかった。新幹線と一緒に家族と家族がいることによって得られる安堵の時間が再び俺の手を離れてしまうと思ったからだ。そうなのだ。俺は怠惰と安楽を貪る人間なのだ。若者らしくエネルギッシュに明るく力強く生きることを放棄した人間なのだ。もうずいぶん前からそう思っていたはずだ。兵庫県の糞田舎で陰湿な愚痴と怠惰に溺れるのが本来の姿なのだ。都会の水は俺にはきれい過ぎ眩し過ぎるのだ。
 1999年4月6日に発病して以来の、棺桶に片足を突っ込む日々の中で普通の同世代の人間よりはしっかりとした考えや人格を身につけたつもりである。そのために急いで趣味を見つけ、生き甲斐を見つけた。22歳で既に「これとこれがあればもういい」「今よりも昭和の時代に生きていたかった」等と言い放つのは、正直なところいつ死ぬかわからないからである。もちろん健康な人間も明日交通事故で死ぬかもしれないが、交通事故に遭う確率は極めて低く、俺が病気で死ぬ確率はそれよりも高い。にもかかわらず悟りも開けず日々会社の仕事内容と人間関係に振り回されるのである。何ということだ。
 そのようにして家族は東京から離れた。俺は一人暮らしに戻った。何も変わらぬ。金を稼ぐためには働かなければならない。働かなければ家族への仕送りもできない。本も買えない。会社。またいつものように平日は21時前に帰ることはできない。上司に怒られ、先輩同僚には白い目で見られ、無理やり飲まされるビールは1杯で気分が悪くなる。家に帰り奴らの名前を書きなぐっては空想の世界で復讐をする。わけのわからない社内抗争を横目で見ては暗澹とする。土曜日は必ず秋葉原に行く。インターネット喫茶に行く。そして夢を見るようになった。家族が出てくる夢である。
 馬鹿な。
 ついに夢に家族を見るようにまでなったのか。週に2回、多いときには4回見るその夢は形を変え言葉を変えて生まれ育った故郷への遥かなる慕情を呼び起こす。そのような慕情を抱えながら電車に乗りイバラの会社へと足を向けるのである。3歳から22歳までを過ごしたあの土地に帰るべきなのか。いやただ家族がいないことが寂しいのであって家族三人を全員この東京に引越しさせればいいのか。それともただあの泰平の安楽な学生時代に戻りたいのか。時計の針を戻すなど御免だ。孤独な一人暮らしは楽しい。誰にも邪魔されず気を遣わず生活するのはいい事だ。では何をそんなに恐れているのか。簡単なことだ。最近いつも頭の隅に引っかかっているあの考えだ。即ち、父と母が老いやがては死んでいくということである。
 家族と離れ、また社会人として「自分は大人である」ことを身にしみて感じた現在、頭の隅どころか常に考えてしまうのがその「いずれは父も母も死んでしまう」ということであって、それよりも俺の方が早く死んでしまう可能性もあるのだがどちらにしろ永遠に別離するということである。俺はいつか必ずあの兵庫県の糞田舎に戻るが、果たして父も母もいず妹もどこかに嫁いでしまった上でやはりあそこへ帰るつもりなのだろうか俺は。戻って何をするのだ。今と変わらず本屋めぐりをするのか。それはそれで俺らしくていいかもしれぬ。所詮社会に何の影響も与えられない名も無き庶民なのだ。どう生きようがいいではないか。だが、いつの日か必ず父母と別れるという確実な未来、いつその日が来るかわからないその日に向けて、俺は何らかの準備をしなければならない筈だ。もはや大人になった俺の義務である。精神的、経済的な準備をはじめなければならないのだ。だが、俺は俺の周りの事象の大部分がどういう意味を持って起きているのか、よくわからない。わからないがとにかく自分が最善と思う事を一生懸命やるより他に方法がないではないか。まぎれもなくこれは俺が主役の物語なのだ。苦悶の夜に今日も眠れそうにない。ラブコメと政治だけに構っているわけにもいかないのだ。蜜月の季節は終わり、社会の荒波がやってくる。