大江戸仙花暦/石川英輔[講談社:講談社文庫]

大江戸仙花暦 (講談社文庫)

大江戸仙花暦 (講談社文庫)

 華の江戸にタイム・ストリップできる現代人と江戸の美人芸者が都合よくヤッてしまって仲睦まじく暮らすというどこかのラブコメのような小説の第六巻が本作である。ちなみに本作を買ったのは2008年11月23日(105円@BOOKOFF名古屋大曽根店)、第二巻を買ったのは2006年4月10日(210円@神保町ブックスワンダー)でありそれだけでニンマリしてしまうがそういう感覚は俺にしかわからないのでとりあえず話を進めますと本作はラブコメっぽいわけである。もちろん主人公が40過ぎで既婚で「ラブコメ」というのは少々無理があるが、現代で取得した技術(というほどの大層なものではないが)で江戸時代の人たちに一目置かれ、人気のある美人芸者の旦那(愛人)となって興味の赴くまま江戸を探検していくのである。
 突如江戸へタイムスリップしてしまった現代人である主人公の目を通して読者は「生の江戸」を体験するのだが、そこに「士農工商身分制度」や「徳川支配」といった重苦しい感覚は全くなかった。そもそも人口が50万人以上の世界的大都市である江戸に役人は290人しかいないのであるから、ほとんどいないのと同じことなのである。行政の99%は「自身番」という、現代で言うところの自治会の会長のような民間人が請け負っていて、もちろん税金からの支出などはない。また毎日のように火事があるのに消防士は鳶職のボランティアでまかなわれ、こちらももちろん無給である。現代のように何もかも市役所の役人に任せてあとはそれぞれの殻に閉じこもって快楽を貪りつくすわけではないからその一体感は俺には想像できない。
 また当時世界最高峰の識字率を誇っていた教育(寺子屋)についても描写されていて、これがまた非常に自由で大らかで楽しい場所であったという。一流大学や一流企業のため(あるいはそこに入るための切符としての学歴確保のため)の教育という意識がなく、ただ日常生活に支障のない範囲で読み書きそろばん裁縫ができればいいわけであるから競争とは無縁なのであって、各々が各々に見合った教育を受け、教える側も教えられる側もそれを当然と考える江戸時代の方が実は素晴らしいのではないかと心が動いてしまう。またリサイクルについても徹底されていて、稽古で字を書くときは「同じ紙の上に少しずつずらせながら書く」のであり、当然紙は真っ黒になってしまうが新しく書いたところは濡れて光るからちゃんと字の形が見えるからOKということらしいのである。そうすると子供にとっては「ふだん真っ黒な上にばかり書いてるから、お清書の時は、真っ白な紙に自分の字がはっきり残るのが嬉しい」という風に、節約の効果のみならず教育のメリハリにもなったのである。なるほど。これには思わず唸ってしまいますね。
 本シリーズの第二巻「大江戸仙境録」に、「江戸時代の建前上の支配体制は武士がそれ以外の庶民を統率する形をとっていたが、実際のところ武士はそのほとんどが貧乏で、町人や農民の方が裕福な暮らしをしていた。だから誰も武士やお上に反抗しなかった」という記述があってこれにも俺は唸ってしまった。大勢の役人が存在し、その役人が税金を毟り取り庶民の行動を制限しそのくせ庶民より安定した暮らしを保障してもらっている現代と、武士は貧乏で役人もほとんどおらず所得税も消費税も払う必要もなかった江戸時代。インターネットどころか電気・ガス・水道といったライフラインが全くない未開の時代であるのに暴動やデモがほとんどなく平和に慎ましやかに暮らしていた時代が存在していたのであり、妙に重い読後感に陥ってしまった。内容は美人芸者との微笑ましい江戸歳時記であるのに随所でこれでもかとばかり「江戸時代の長所」と「現代の短所」を繰り出されるわけであるから諸君が読むときは覚悟が必要かもしれません。しかしまあ、本を読むって素晴らしいよねということで強引にさようなら。
「その気持ちは、「地球に優しくしよう」「環境を保護しよう」などという自然観とは全く異質である。人間は全体の小さな部分に過ぎないのに、巨大な岩塊である地球や、その上に乗っている環境に優しくしたり保護したりできるという人間中心の思い上がりは、この人たちには全くないからだ。
 江戸のような大都会周辺に丹頂鶴や朱鷺が飛んでいたのは、この人たちが自然に対して「優しく」していたからではあるまい。もっとはるかに謙虚な気持ち、山にも川にも草木にも、もちろん動物たちにも、自分たちと同じような魂があると思って、対等に接していたからだと思う」