深い河/遠藤周作[講談社:講談社文庫]

 その昔、と言っても2001年頃の話であるが、当時大学1年生であった俺は第一次大病戦争と未曾有の経済恐慌の中でとにかく大変な状況にあった。よくわからんがとにかく今の俺は非常に危機的な状況にある、ということだけは肌に感じていた。そんな折、ふと入った大学のパソコン室でインターネットを目的もなく漫然とやっているとあるサイトに出会った。それはLAS(ラブなアスカ×シンジ)という、あの結末に納得できない人たちが二次創作的に自分勝手に都合のいい世界を作り上げているものであった。俺は驚愕し、やがて狂喜した。「自分たちが納得いかなければ自分たちの都合のいいように作品世界そのものを作り変えること」が今や可能であり、そうすることによって日々の疲れた心身を心地良い妄想で癒すことができるのだ、と。
 その頃はまだ2ちゃんねるもブログも一般的ではなかったから、人々はこぞってそのような「自作サイト」を作っていた。俺はそれらを鑑賞するのに夢中でとても自分で作る気にならなかったが、彼らはよく自身のサイトのアクセス数が大台に乗るたびに「1万ヒット突破!」「5万ヒット記念特別SS(ショート・ストーリー)!」等と言って一人で盛り上がっていた。そしてそのように一人で盛り上がれるような人々が俺には心底うらやましかった。これこそインターネット時代の正しき「趣味」というものではあるまいか。
 その後、狂乱の梅田三宮百人斬りを経て生き延びた俺はブログを始め、まさかの東京デビューを果たした。「三ヶ月で都落ち」の予想は外れ、上京以来五度目の春を迎え、いつの間にか我がブログのアクセス数は10万を超えた。インターネットに接し始めた頃の事を思い出し、そのようなわけで本日より10万ヒット記念と称して前代未聞の10日連続更新を行いたいと思います。これはもう大学卒業が決まって就職が決まって時間が有り余っていた2005年2月以来の大作戦なのであって、諸君に置かれては大変緊張されるでありましょうが、なに心配はいりません。幼稚園児並みの読書感想文と言われる「脱走と追跡の読書遍歴Resistance」を一挙大放出するだけでありますから、正座して読むぐらいの態度で良いでしょう。
 

深い河 (講談社文庫)

深い河 (講談社文庫)

 しまった、と読み出して数頁で俺は後悔した。俺はこの小説を高校生の頃に読むべきであったのだ。何故かわからぬがもっと幼くもっと青い頃に本書と出会うべきであったのだ。この小説には生きることと死ぬことの真実がこめられており、それが俺のその後の人生に何の役に立たなくてもこの小説に出会えたことの喜びは必ずや俺の心の奥深くに刻まれるはずだったのだ。26歳の社会人となった俺にはもはや瑞々しい感動はない。
 だがとにかくまたえらい小説を読んでしまった。話の展開が息つく暇なく転がり続けながら登場人物たちの苦悩の人生を自然に読ませるその描写は下手なミステリーよりよっぽど面白く、こういうのが純文学なら俺は純文学に身も心も捧げてやろうではないか。それこそ高校生の頃の俺のように。
 物語は五人の登場人物の人生を同時並行させながら進んでいき、妻をガンで亡くした男、「神なるもの」へ嫌悪を抱き続ける女、その女に侮蔑されながらも「神なるもの」への奉仕を考え続ける男、動物にのみ心を許せる童話作家ビルマの戦地で地獄のような体験をした男たちはそれぞれ平凡な名も無い庶民であるがそれぞれ深い傷を負いながら生きており、そんな彼らがインドへ旅立ち、その旅の途中訪れたガンジス河は「生きる者も、死ぬ者も全てを包み込む聖なる河」として彼らの前に姿を現すのである。彼らははこのガンジス河周辺でそれぞれの人生の意味を探ろうとする…などとストーリーを改まって説明すれば陳腐になるが、彼らはこのガンジス河で否応なくこれまでの人生の意味について考えさせられ、苦しみ、それでもなお弱々しく生きていくのである。
 特に本書で印象深いのは「神なるもの」へ嫌悪を抱き続ける女(美津子)とその女に侮蔑されながらも「神なるもの」への奉仕を生涯考え続ける男(大津)の物語である。「神」へ偽善の臭いを感じる美津子はその「神」を盲目的に信じる純朴な青年・大津を誘惑し弄び捨てることで神を倒した快感に酔いしれるが、その後再び大津は神の下へ戻りフランスへ神父留学し、なぜか大津のことを忘れられない美津子は新婚旅行先のフランスで大津に会いに行くのである。フランスで欧米流の「善と悪」「正当と異端」の二元論的な考えへの疑問を口にする大津に素っ気無い返答をしてすぐに別れた美津子であったが、やはり大津のことが気にかかり今度はインドにいるという風の便りを聞いてインドへと向かう。様々な紆余曲折の後に大津との再会を果たすが、死者が日常茶飯事に存在するインドにおいて大津は自分にとっての「神」が何であるかをついにつかむのである。
 「神はヨーロッパのキリスト教だけでなくヒンズー教のなかにも、仏教のなかにも、生きておられると思うからです。思っただけでなく、そのような生き方を選んだからです」「ガンジス河を見るたび、ぼくは神を考えます。ガンジス河は指の腐った手を差し出す物乞いの女も殺されたガンジー首相も同じように拒まず一人一人の灰をのみこんで流れていきます。神という愛の河はどんな醜い人間もどんなよごれた人間もすべて受け入れて拒まず流れます」。自分の生きる道を見つけた大津は、ガンジス河で死ぬために歩き続け途中で力尽きてしまう貧しき者たちをガンジス河まで運ぶ仕事に生きがいを見つけ、その姿に美津子は神が大津を完全に彼女から奪うことを知った…。このあたりは作者がライフワークとしてきた「日本人とキリスト教」「西洋を発祥とするキリスト教と日本的文化」の一つの到達点でもあり、非常に興味深い。
 いやあとにかく感動的な小説であった。本を読んできてよかった、生きててよかった、皆さんも是非本書を読まれることをお勧めします。
  
彼は醜く、威厳もない。みじめで、みすぼらしい
人は彼を蔑み、見すてた
忌み嫌われる者のように、彼は手で顔を覆って人々に侮られる
まことに彼は我々の病を負い
我々の悲しみを担った