「クリーンな政治」の結末

 「鉄のカーテン」演説によって米ソ冷戦の到来を宣言したチャーチルに、あるジャーナリストが尋ねた。「ではイギリスの仮想敵国はソ連ですね」。チャーチルは答えた。「仮想敵国?イギリス以外の国全部だよ」。このエピソードほど国際政治とは何かを端的に表現したエピソードは他にないと思うが、もちろん日本でこんな考えは受け入れられない。同盟や平和条約を結んだところで所詮国際社会は弱肉強食の世界なのであり(政府の上に政府はない)、その世界において国家と国民を守るには身も凍るほどのリアリズムが必要であることなど我が国では考えられたことがない。なぜなら日本の政治家は「クリーンであること」が第一の条件となるからである。
 政治家の仕事は「国家国民を守ること」である。ところが我が国では「金に清潔であること」が求められ、更には「金を使わないこと」さえも求められ、本来の政治家の力量は二の次となる。しかし何度も言っているように金がなければ情報は集まらず、官僚と官僚組織からの情報に頼らざるを得なくなるのであるから、集金力は政治家の力量を表すバロメーターなのである。ところが検察はマスコミに「リーク」という名の餌を与えて集金力のある政治家を「巨悪」としてイメージさせることに成功した。ただ「巨悪」というイメージを強化すればいいだけなのだから、今回の郵便不正事件をめぐる検察のデータ改ざん事件など特別なことでも何でもない(前々から言われてきたことである)。その検察の問題については別の機会に書くが、そのようにして政治に「クリーンさ」を何よりも求める環境を演出しておきながら、一方で弱肉強食の国際社会に対して「毅然とした対応」や「国際社会で存在感を出す」ことを求めるのはどう考えても無理がある。国内で「クリーン」「清潔」といった、リアリズムとはかけ離れたことばかりに応えている人間が、どうして弱肉強食の国際社会に通用しようか。
 尖閣諸島の問題に対して中国が巨大な経済力と市場を武器に自国への同調者を増やし、また日本に対して「謝罪と賠償を求める」という強硬姿勢に出た時、日本は当然アメリカという同盟国が背後にいることを最大限に利用しながら中国の強硬さを国際社会や世論に訴えることになろうが、それは「表」の話であって、裏では中国政府と極秘裏に交渉して両者の落としどころを探らなければならない。その場合の日本の交渉材料は「(日本の法律に厳正に対処した結果)船長を拘束していること」と「明らかに中国側に非があることを示すビデオ」である。ところが何を思ったか日本政府は「地検の判断によって」船長を解放し、またビデオの公開も行わなかった。みすみす自分達に有利になる交渉材料を手放したのである。まさかとは思うが、そもそもそういう「交渉材料」があることすら意識していなかったのではないか。だとすれば、間違いなくそれは「クリーンな政治」による弊害である。
 この前テレビを見ていたら「政治家は選挙のことしか考えていないのでけしからん」と言う評論家や素人のコメンテーターが同じような口調で「中国は自分の国のことしか考えていないのでけしからん」と言っていて、俺はもう開いた口が塞がらなかった。一体どこに「自分の国のことしか考えてない」ことはない国があるのだろうか。国家と国民の命を背負うその国の指導者たちは当然その国のことを考えて行動するのである。世界平和のために外交をやるような国はどこにもない。どうやら我が国はそれすらもわからなくなってしまったようである。全て「クリーンな政治」のせいである。
 繰り返すが、我が国では官僚組織に頼らずに金を集めて情報を得ようとしたり、官僚組織を本気で解体しようとする政治家は決まって検察に狙われ、「巨悪」のレッテルを貼られ失脚してきた。そのためクリーンさを第一としクリーンさを競い合う政治家たちの裏に隠れて官僚の作った予算案はほとんど修正されることなく承認され(予算委員会では予算の審議は行われずもっぱらスキャンダルの追及が行われる)、官僚たちに手厚い社会が築き上げられた。国内だけであればそれでも問題はないかもしれないが、身も凍るリアリズムの世界である国際政治に立ち向かうためにはもうそのような「クリーンな政治」を捨てなければならない。と思うが、さていつになったら気付くのだろうか。