自民党への嫌悪と期待

 二大政党制とは何かと言えば、「二つの政党のどちらかが国民の選択によって選ばれ、政府を運営すること」である。つまり政府(=国家)の上に政党があり、更にその上に国民がいるということであるが、繰り返し言ってきたように我が国では長い間それが逆になっていた。まず一番上に政府(と官僚)があり、その次に政党(自民党)があり、一番下に国民が位置していたのである。昨年の総選挙によってどうやら国民が政党の上に立つことはできたようだが、1月の小沢秘書逮捕によってやはり検察や官僚がその上、一番上にいることが明らかになった。しかし先月も書いた通り、「国民が選んだ政権」と「東大卒の頭脳明晰な官僚たち」のどちらに国家を運営してもらいたいだろうか。或いは「資金調達力のある政治家」と「金を集める能力がない政治家」のどちらが頼りになるだろうか。結局はそこに行き着くのである。
 かつての自民党政権下においても「政治とカネ」をめぐる数々のスキャンダルが噴出したが、野党は審議拒否を行い、マスコミは騒ぎ、自民党は「個人的なスキャンダルではなく予算審議を、政策論争を」と言った。個人的なスキャンダルはあくまで個人的なもので、しかも議員が逮捕されたとしても裁判で刑が確定するまでは推定無罪なのであるから国会で追及しても仕方がない、それよりも予算の使い道や政策で勝負しようという自民党の主張は当然であるし筋が通っていた。国会でろくに審議されなければ予算や政策は国民の代表である政治家のチェックなしに官僚の好き放題にされてしまうからである。ところが野党は「疑惑隠しだ」と言い、マスコミも「説明責任を果たせ」と言い、誰も予算の中身や法案については知ろうとしなかった。官僚が幅をきかすのは当然である。
 一般社会では「犯罪を犯したり周囲に迷惑をかけたりしなければ、仕事ができさえすればよい。個人的なことは問わない」のが常識である。それなのにスキャンダル追及に血道を上げる野党やマスコミは幼稚で、「自民党への批判だけで一体どんな政治をしたいのかわからない」ことを自民党は大いに笑っていたが、いざ自分が野党となるとスキャンダル追及に血道を上げ、審議拒否まですることになった。常に野党であった政党ならともかく長く政権運営に携わってきた自民党が従来の「野党」と変わらぬことをやっていては、進歩がないというレベルの話ではない。二大政党制の危機である。本当ならば与野党が共闘して検察の暴挙に立ち向かうべきであって、断言するが、今度自民党が政権を奪還したとしても、自民党が官僚組織にメスを入れようとするならば必ず同じことが起こるだろう。そんなことは少し考えればわかることだ。
 大事なことは「ポスト冷戦後」とも言える現在の、グローバル経済という皮をかぶった弱肉強食の国際社会の中で日本がどうやって生き残るかである。特に日本はすぐ近くにロシア、中国、インド、北朝鮮といった一筋縄ではいかない国が控えているのであり、好むと好まざるに関わらず「強い国」にならなければならない。もちろんこの場合の「強い国」とは国際社会で言うところの「普通の国」のことであって、一体どこに外国の軍隊に自国の安全保障を委ねる国があるのだろうか。それは独立国家ではない。全ては高度経済成長と冷戦の思考から抜け出せない官僚の発想から来ている。「親米」=「国内に米軍基地を置く」という旧時代の発想から抜け出すには、アメリカに対する立ち位置が対極にある二つの政党による議論しか方法がないのであり、特に自民党にはそれを意識してもらいたい。野党の存在理由はあくまで現政府(与党)の政策に対するアンチテーゼである。民主党自民党小泉改革路線に対抗して「国民の生活が第一」を掲げ、政権を奪取した。ならば今度は自民党が新たな旗を掲げなければならない。もちろん小泉改革路線でも反小泉路線でもない別の何かを、である。
 昨年の総選挙で自民党が大敗北を喫したのは国民に嫌悪されたからである。決して官僚組織に歯向かわないどころか、官僚によるバックアップがなければ何一つ自分たちでできない政党が国民から嫌悪されるのは当たり前であった。しかしながら自民党こそが体制を立て直さなければこの国の民主主義の危機である。与野党が歩調を合わせて国会から官僚を追い出し、お互いが切磋琢磨しなければ進歩はない。政権が自民党から民主党に代わって世の中がバラ色になると思っている国民はいない。敗戦から独立まで7年かかり、明治維新から西南戦争終結まで10年かかっている。「明治以来の官僚中心の国家」からの転換を本気で目指すのであれば、更に長い年月がかかるだろう。我々は自民党に期待せざるを得ないのであり、それを自民党が意識して行動することを俺は期待している。