自民党という病/佐高信・平野貞夫[平凡社:平凡社新書]

 というわけでまた平野貞夫である。以前にもこの爺さんのオーラルヒストリー本を紹介したが、この爺さんは話し好きのようで、そして話し好きの人は大抵において話を「盛る」、つまり大した経験でもないのに一般庶民には滅多にできないようなすごい経験をしたのだ、だから自分はすごい人間なのだと自分を大きく見せる、当世風に言えば「マウントを取る」事が多いが、この爺さんの場合は衆議院事務局として常日頃から政治家の汚い部分、呆れるような部分、面倒臭い部分を見てきた上で参議院議員として実際の政治の現場の経験もあるわけで(しかも小沢一郎の側近)、そんな爺さんが話し好きとあっては俺も政局好きの血が騒ぐというものだ。

 また昔の政治家は「ヘソから下に人格なし」であるから、堂々と愛人というか妾というか二号さんを手下に世話させるのであり、これもまたゲスな大衆心が刺激されて大いに面白い。衆議院副議長・園田直の秘書となった平野は園田に「明日の午前六時に、千駄ヶ谷のマンションに来るように」と言われ、翌朝、当のマンションの部屋のベルを押すとネグリジェ姿の女がいたので「失礼、部屋を間違えました」と言うも女の後ろからひょっこり顔を出した園田は「こういうわけだから、万事よろしく」…。さすが昭和40年代、まだまだ日本は大らかだった。ちなみに「大映社長は河野派のスポンサーとして、河野派五奉行中曽根康弘、園田直、森清山中貞則宇野宗佑の五人に、大映のしかるべき女性を用意していた」らしい。羨ましいような…そうでもないような…。

 もちろんそのようなずっこけエピソードを間に入れつつの真面目な政治談議が本書の主題である。刊行時の2018年11月と言えば安倍政権はいよいよ絶頂、森友・加計問題の危機も解散総選挙で乗り切り、自民党総裁選にも三選、2年後の東京オリンピックに向けてますます意気軒高で、しかし政治の劣化はいよいよ進行して翌年の「桜を見る会」の不祥事、そしてコロナ対応のまずさで2020年9月にあっけなく総辞職するわけだが、作者(平野)は吉田茂を振り出しに戦後政治史の重鎮を見続け、小沢一郎の側近として政治改革の混乱も経験した日本政治の生き字引であるから、「議会政治の発展を妨げるものは軍部と検察だ」「(今の政治家は)自分のポジションを維持すればいいという意識でしょう」「敵対者に学ぶという事、異端を認める言論の自由の大事さにどれだけ気づいているか」という言葉には力がある。また「総理経験者を収賄の捜査の対象にするには10億円以上の収賄という基準があります」「公明党は歴史的に東京都議会から始まるわけですから、ここに一番いい人材が行く。その次に参議院。三番目が衆議院」ととんでもない事をあっさり言うのであり、やはりこの爺さんは面白い、しかし下世話な話(愛人の存在を脅しに使ったりスキャンダルを揉み消す代わりに取引したり)はもっと面白い。政治は大いなる人間模様、飽きる事はありません。

    

平野 橋本首相に合意(日本版ペコラ委員会の設置で与野党が合意)の反故をどう決断させたかというと、加藤幹事長と野中幹事長代理が天ぷら屋の美人女将の件を持ち出したわけです。

佐高 橋龍の愛人。

平野 そう。橋本首相の元秘書が、その女将のために8億円を、富士銀行赤坂支店から不正に融資させていたという事件です。加藤幹事長と野中幹事長代理が橋本首相から外されていた元秘書を取り込んで、橋本首相の弱みを握ったわけです。「小沢(新進党党首)の言う事を聞くな、梶山(官房長官)のやっている事を止めろ」と二人は橋龍に迫ったんでしょう。

    

平野 いや、彼(河野洋平)には倫理観がないという特徴がありましたよ。大の女好き。

佐高 聞いた事がある。

平野 もっと面白い話は、河野が丸紅に入社してアメリカに勤務していた時、田中真紀子がニューヨークに留学しに行く。向こうで二人は仲良くなったらしいね。

佐高 また周囲の人も、河野一郎の息子と田中角栄の娘ならいいじゃないかという話になったんですよね。

平野 ある時、酔った勢いで私が小沢一郎に「角さんはあんたと田中真紀子を一緒にしたかったんじゃないか」と言ったら、「バカ言うな」ってものすごく怒ったよ。

佐高 皆知っている話だったという。

平野 河野洋平の女遊びがどれほどひどいものだったかを示す政界で有名な噂があるんですよ。彼の奥さんは伊藤忠商事を創立した伊藤忠兵衛の孫娘ですね。名門のお嬢様ですよ。その奥さんがいよいよ余命いくばくもないという時に、夫の洋平に会うのを嫌がり、会わずに亡くなったというんですよ。それくらい女性関係がひどかった。それが原因で奥さんの死に目に彼は会えなかったという話があります。

人間臨終図巻Ⅰ/山田風太郎[徳間書店:徳間文庫]

 もうずいぶん前から読んでみたいと思っていた。歴史上の著名人達の、15歳から55歳までのそれぞれの死に方がひたすら並べられているという。それはもう、是非読んでみたい。しかし当時の俺はまだ20代だった。29歳の自分が、29歳で死んだ人達(吉田松陰高橋お伝山中貞雄、他)の臨終の様子を追体験するのはなるほど刺激的な体験であるが、年上の人達の死はどうか。29歳の自分が39歳の人達(クレオパトラ、ルイ16世、横川省三、太宰治力道山、他)の死を読んだところで、それは単なる死でしかない。もう少し待ってみよう。

 というわけで長い長い月日が流れ、俺は41歳になっていた。41歳! 何という事だ、全くもう、何も成長せず、何一つ世の中に貢献する事ができず、恥ずかしいだけの41年の生涯であった。その41歳で死んだ人達と言えば、今川義元河井継之助カフカ、尾崎放哉、石田吉蔵、川島芳子アベベ、他、である。その一つ下の40歳で死んだ人達は石田三成エドガー・アラン・ポー江藤新平幸徳秋水高橋和巳ジョン・レノン、他、であり、更に下がって35歳で死んだ人達にはモーツァルト孝明天皇正岡子規芥川龍之介、他、がいる。もっと下がって30歳で死んだ人達は木曾義仲源義経小林多喜二中原中也、他、である。

 皆死んだのである。そして「この人達はこんなに若くて死んだのか」という暗澹たる感想の裏には、「俺は何も成長せず、何一つ世の中に貢献する事ができず、恥ずかしいだけで、何もないままやがて死んでいくというのに、この人達の名前は永遠に歴史に刻まれているのか」という嫉妬と憎しみがある。と同時に「永遠に歴史に刻まれる代償として早死にしたのだ」「派手に生きた代償として壮絶な死をしたのだ」、つまり自分は平凡な名もなき庶民だから41歳までどうにかこうにか生きてこられたのだ、という安堵もある。41歳で結核で死んだカフカは親友に「僕の最後の願いだ。僕の遺稿の全部、日記、原稿、手紙のたぐいは、一つ残らず、中味を読まずに焼却してくれたまえ」「すでに書物になった作品についても、そんなものがすっかり無くなってしまえばいちばんありがたいのだ」と手紙を書いた。しかしカフカの作品は世界文学史上の傑作として残った。ではもしカフカが41歳で死ななかったら?

 というわけで続く42歳、43歳、44歳、45歳、と読み進めていったが、45歳で死んだ人達(井伊直弼大村益次郎ラスプーチン有島武郎三島由紀夫梶山季之江利チエミ、他)の臨終まで読んで、これより先の年齢の人達の死は、単なる死でしかない事に気付いた。暗澹たる気持ち、生前の歴史に残る功績への嫉妬と憎しみが湧いてこない、なぜなら俺はまだ41歳だからか? しかし例えば50歳まで待って、また本書のページを開く事を再開する間に俺は死ぬかもしれない。いや、「平凡な名もなき庶民」でさえいればまだ生きているはずだ。俺以外の人達は死ぬ、俺は死なないのだ。

       

田吉蔵(1895~1936)

 昭和11年2月、東京市中野区新井町の割烹料理屋吉田屋の主人、石田吉蔵は、その月のはじめから雇った女中お加代と密通した。

 お加代は、少女時代から、芸者、妾、娼妓、高等淫売等を繰り返してきた女で、一夜でも男に抱かれないと肌さみしさをおぼえるセックスのかたまりのような女であった。

 二人の密通は、石田の妻の知るところとなり、4月23日、二人は店を出て、待合を渡り歩きながら、爛れるような情痴の日夜を送った。

 そのうち石田は、性交中に喉を絞めてもらうと気持ちがいいと言い出し、お加代はふざけ半分に腰紐などで石田の頸を絞めるようになった。

 石田は一応家に帰らなければならない用事があると言い出し、お加代はイヤイヤを繰り返して泣き、石田もまた泣き、そして何度目かの性交にのめりこんでいった。その真夜中を過ぎて、

「そのうち石田が寝た様子ですから、右手を延ばして枕元にあった私の桃色の腰紐を取り上げて、紐の端を左手で頸の下にさしこみ、頸に二巻き巻いてから紐の両端を握り、少し加減して絞めたところ」

 と、お加代は言う。

「石田はパッと眼をあけて『オカヨ』と言いながら少し身体をあげ、私に抱きつくようにしましたから、私は石田の胸に自分の顔をすりつけて『かんべんして』と泣き、紐の両端を力一杯ひき絞めました。石田が『ウーン』と一度うなり、両手をぶるぶる震わせて、やがてグッタリしてしまったので、紐を離しました。私はどうにも身体が震えてなりませんでしたから、卓子の上にあった酒の一杯入っているお銚子を取り上げ、ラッパ飲みに全部飲んで…」

 お加代は朝まで、石田の死体に接吻したり、また自分の局部をあてがったりして悶え狂っていたが、やがて例の出刃包丁を取り出して、男の陰茎と睾丸を切り取り、また死体の左腿に、「定」という字を刻み、血で敷布に「定吉二人キリ」と書き、切断したものを紙に包み、更に石田のふんどしに包んで自分の腹に巻きつけ、午前八時頃待合を逃げ出した。

「それは一番可愛い大事なものだから、そのままにしておけば、湯灌をする時、お内儀さんがさわられるに違いないから、誰にもさわらせたくないのと、石田の××があれば石田と一緒のような気がして、寂しくないと思ったからです」

 彼女の本名を、阿部定という。

陸軍と性病/藤田昌雄[えにし書房]

陸軍と性病

陸軍と性病

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 「陸軍」と「性病」!

 何とも気になる、魅力的なタイトルではないか。栄光の大日本帝国の陸軍、大日本帝国を破滅へと導いた陸軍、志願制ではなく徴兵制だった事からどうしても野暮ったさというか田舎臭さが抜けないゆえに憎めない陸軍、において、非エリート達はどのように性欲及び性病を処理していったのか。大変興味深いが、本書の内容自体は無味乾燥というか、当時の統計資料や広告(性病の市販治療薬やコンドーム等)を淡々と紹介していくのみなのでやや拍子抜けしてしまうが、途中で「フォトコラム」として「慰安所内の待合部屋で、慰安婦を横に至福の表情を浮かべる将校」「定期の性病検査のため病院の前で待つ慰安婦達」というどぎつい写真が載せられてびっくりしてしまう。「2名の慰安婦と写真に映る将校」「三輪車のプレーを行う刹那の写真」など、当時の雰囲気がはっきりとわかる。写真では将校(男)がやや締まりのない顔をしている一方で慰安婦(女)はもちろん無表情だが、嫌で嫌でたまらないというわけでもなさそうだ。仕事の一環なのでいいも悪いもないというところか。

 気を取り直して戦前の日本は徴兵制の下、各地に陸軍の駐屯地があり、そこには多くて3千人、少なくても5百から1千人の将兵がいた。更に将兵の他に将兵家族や軍属もいれば、駐屯地の周囲に彼らを対象とした商店や歓楽施設が立ち並び、小さな社会が形成され、遊郭が発生するのも自然な流れであった。そして通称「花柳病」と呼ばれた性病(梅毒・淋病等)も広がる。比率としては将兵全体の10%程度が何らかの性病にかかっており(1905~1909年)、またドイツでは第一次世界大戦期の性病発生率が開戦前に比べて倍以上となった(20%→40%以上)というデータもあり、平時であれ戦時であれ、性病の予防は戦前日本の喫緊の課題だった事がわかる。

 そのため各種法律・条令等が制定されるが、それらによって当時の状況もまた浮かび上がってくる。「救急法及衛生法大意」(将校・下士官・兵を対象とした衛生マニュアル)の「第二章 伝染病の種類 その七 花柳病 第五十三」には、「壮年ノ人久シク性交ヲ断チ居ルトキハ健康ヲ害スト云フモノアレトモ誤リナリ信スルヘカラズ」と書かれている。また戦地の慰安所に関する「慰安所使用規定」には、「慰安所利用ノ注意事項左ノ如シ」に「女ハ全テ有毒者ト思惟シ防毒ニ関シ万全ヲ期スベシ」と身も蓋もない事が書かれており、いかに当時の軍当局が性病予防に神経質になっていたのかがわかる。特に慰安所施設は軍の指導の下にあるわけだから(野戦酒保規定 昭和12年9月29日 第一条「野戦酒保ニ於テ前項ノ外必要ナル慰安施設ヲナスコトヲ得」)、「実施単価及時間」として「営業時間 午前9時~午後六時迄」「使用時間 一人一時間を限度とする」、更に「検査は月曜及び金曜日」「毎月十五日は慰安所の公休日とする」等と細かい規定が記されているのであった。

 現代の我々の感覚では公の機関である軍隊が性風俗施設を運営するとは様々な意味で大変なことであるが、同時に徴兵制・苦しい軍隊生活を送る若い成人男性達の姿もそこには浮かび上がる。徴兵制とはそれほど過酷なものなのだ。

     

 陸軍士官学校生徒心得(昭和17年9月)

 第八章 休日及外出

 第八十六 外出先ニ於テ守ルベキ注意概ネ左ノ如シ

 将校生徒ノ品位ヲ傷クルガゴトキ場所(飲食店、喫茶店、映画館、寄席、劇場、等)ニ出入リスベカラズ、又新聞、雑誌、書籍、音楽等ノ選択ニ注意シ、軟弱ナル娯楽ハ之ヲ慎ムベシ

歴史への招待22 昭和編[日本放送出版協会]

 さて知っている人は知っているNHKの歴史教養番組「歴史への招待」の書籍版が本書であり、収録されているのは「チャンバラ映画黄金時代」「永田軍務局長暗殺」「エンタツアチャコで漫才繁盛」「延長二十八回進め一億火の玉だ」「青い山脈 男女共学前夜」「北京原人はどこへ消えた」「緊急発信 敵空母本土に接近す」と、昭和を政治・社会・文化それぞれから取り上げた、昭和マニアとしてはどれも甲乙つけがたい垂涎ものである。やはり昭和はいいなあ、令和の現代に生きる我々と同じようで同じでない、しかし結局は我々と同じように嘆き悲しみ笑いつつ世俗にまみれながら醜く死んでいった人達の姿を見ていると普段の俺は何とまあ小さな事で悩んでいるのかと救われます。

 というわけで例によっておいしいところだけを紹介すると「永田軍務局長暗殺事件」では「陸軍史上最高の逸材」とまで言われた陸軍統制派の代表格・永田鉄山が白昼堂々と殺された事件当日の様子が解説され、誰もが疑問に思う「なぜ防げなかったのか」についての答えが一応は書かれている。軍務局長室には永田の他にもう一人、東京憲兵隊隊長である新見大佐が同席していたが、新見大佐には視野狭窄の症状があり、通常の人間の十分の一程度の視野しかなかった。軍務局長席で永田局長と向かい合った新見大佐は書類を見つつ報告の準備をしていた、つまり下を向いていたのであり、そこへ軍刀を持った相沢中佐が現れる。床には厚い絨毯が敷かれ忍び寄る足音は消され、新見大佐の視野狭窄の目には相沢中佐は見えない。逃げる永田軍務局長と軍刀を振りかぶる相沢中佐、その物音に気付く新見大佐、しかし時既に遅し…。永田は殺され、皇道派の天下が来ると思われたものの二・二六事件によって皇道派は衰退、統制派の天下になったはいいが結局日本は惨めな敗戦を迎える事になったのであり、所詮は永田が死のうが死ぬまいが日本の運命は決まっていたのかもしれない。

 「延長二十八回進め一億火の玉だ」では昭和17年5月24日に行われた名古屋対大洋の試合について書かれている。大東亜戦争が始まって半年、戦勝気分に酔っていた時期に行われたこの試合ではスコアボードに「進め!一億火の玉だ」の標語が掲げられ、軍部の「プロ野球の試合に引き分け試合があるのはけしからん、戦う以上、勝つか負けるかしかない、引き分けなどという生ぬるいのは戦意高揚にならん」という指導で4対4のまま延々と二十八回裏まで戦う事になるのであった。それ自体は戦時中の微苦笑なニュースであるが、翌年には「野球用語は全面的に国語を採用、従来の英米語は敵性語であるから一切使用を廃止」となり、「審判用語は号令である」という主張から、

・ストライク→よし一本、二本、三本

・ボール→一つ、二つ、三つ、四つ

・アウト→ひけ

・フェアヒット→よし

・ファウル→もとえ

 に変更、また「隠し玉は日本精神に反するから禁止」とされたのであった。

 「北京原人はどこへ消えた」は舞台が第二次世界大戦前の中国・北京であり、日本軍占領下とは言えアメリカ軍も進駐しており、次第に険悪となっていく日米の間で「二十世紀最大の文化遺産」と言われる北京原人に魅了された人々は北京原人を守ろうと奔走するのであるが、北京原人の在処はわからぬまま、関係者は戦中そして戦後の長い時間をかけて終生その行方を追うことになるのであった。五十万年前の人類は昭和4年の人類によって発見されたが、昭和16年に忽然と姿を消したのである。「五十万年後の子孫たちの様子を見ようと北京原人は地上に姿を現したが、彼らがかくも醜い葛藤を始めたのを見るに忍びず、再び地下に姿を隠してしまったに違いない」。

 最後の「緊急発信敵空母本土に接近す」は、洋上に浮かぶ「人間レーダー」として、アメリカ軍の機動部隊を発見し直ちに無電で司令部に連絡する監視艇に乗る事になった漁師達の物語である。兵隊は「赤紙」で召集されたが、カツオ船、マグロ船などに従事する漁師達は白い紙一枚で船ごと召集され、任務は北太平洋上で十日から二週間に渡って定められた地点を漂流して米軍機動部隊を発見する事であった。武器は七・七ミリ機関銃一丁に数丁の小銃のみ、しかも無電で発信できるのは「敵艦見ゆ」だけであり、その他の場合はたとえシケが発生しても急病人が出ても助けを求める事は許されなかった。もし発信すれば敵から位置を確認される恐れがあるからというのがその理由だが、唯一許された「敵艦見ゆ」を打電する時は、敵を発見した時、つまり敵に発見された時であり、敵の攻撃に曝される事になる。「黒潮部隊」と言われたこれらの隊員は最盛期4千人いたとされるが、そのうち半数から3分の2が犠牲となった。だがその実態と被害の全貌は、今も明らかにされていない。

日本史リブレット 人 94 原敬 政党政治の原点/季武嘉也[山川出版社]

 原敬。「はらたかし」というより「はらけい」と言った方がすっきりするが、明治・大正の偉大な政治家である。同じく「明治・大正の偉大な政治家」としては犬養毅もいるが、犬養がいなくても政党政治はそれなりに発展したであろう。しかし原敬がいなければ、日本の政党政治がここまで盛り上がる事はなかったといっても過言ではない。日本政治史、いや日本史におけるスーパースターこそ原敬で、戦後日本政治のスーパースター・田中角栄原敬の前では平身低頭するであろう(ちょっと見てみたいな)。

 とにかく黒船がやってきて、明治時代が訪れた。天下泰平の江戸時代の夢が突然終わり、日本及び日本人は弱肉強食の植民地支配の近代社会で生きなければならなくなった。その中で何とか形だけは整えた大日本帝国、政治プレイヤーは「元老」「薩長閥」「官僚」「軍人」、そして「政党及び議会」である。原はその中で「政党及び議会」に軸足を置き、大日本帝国において立憲政治を導く事になる。また原は「朝敵」となった東北諸藩で育ち、薩長藩閥政府への復讐に燃える。まずはジャーナリズムの世界に飛び込み、やがて明治政府に見出され、官僚として(獅子身中の虫として)明治日本を支え、頭脳明晰な原は大日本帝国の危うい均衡、即ち薩長閥の元老、薩長閥の軍人・官僚が政府の上層部に跋扈している事を見抜き、また一方でこれに対する反発は国民世論のみならず政府内にも根強いものがあり、更に欧米列強が虎視眈々と中国を狙っているため今のところ日本に目が向いていないがいつの日か必ず欧米列強が日本に牙をむき、抜き差しならぬ対決の日が訪れる事も見抜いていた。ではどうするか。原は議会、及び議会に根拠を持つ政党を舞台に立ち回る事が、自分にとっても日本にとっても適切であると判断する。1900年(44歳)に伊藤博文(元老には珍しく政党の重要性を理解していた)が組織した「立憲政友会」に馳せ参じるのであった。

 やがて首相となった原は「平民宰相」と言われる一方で「今日主義者」と言われ、当時から世論一般で原に対する判断は分かれる。藩閥軍閥勢力と妥協する事を優先し、鉄道事業を代表とする公共事業を推進する立憲政友会の総裁・原の姿勢は、理想主義的な若者やジャーナリズムにとっては格好の敵となり、他方で犬養毅のような理想主義者もいるのだから、原への批判はますます大きくなる。しかし原は自身の政治力に絶大な自信を持っており、且つ頃合いを見計らって政権を辞す事も考えていた。現在の日本国憲法の時代と違い、首相を辞めても再度務める事に抵抗がなかったのが大日本帝国である。首相に就任して3年が経ち、原にとっては短絡的にしか思えない「普通選挙」の世論は大きくなり、内政では摂政問題、外交でもワシントン会議の問題がかまびすしい。「桂園時代」のように、一旦下野して藩閥軍閥勢力などの敵対勢力と調和策を練り、徐々に藩閥軍閥勢力が牛耳る政治を立憲政治へと転換させよう…と考えていた原は暗殺によってあっけなくその生涯を終えてしまった。享年65歳、実に惜しいというかもったいないというか、もし死なずにあと10年、いや5年生きていたら、その後の大日本帝国があっけなく滅ぶ事もなかったかもしれない。

             

鵜崎鷺城「機略、権謀術数というマキャベリズムの面から見れば、原は決して凡庸な政治家ではないが、彼には政治的信念はない。私利を離れて国家に尽くすという高尚な野心もない。内治、外交、財政と言う大枠についても、彼はいまだかつて自分の抱負を表明した事はない」(「日本及日本人」1914年7月)

前田蓮山「原は理想に乏しい。国家百年の大計などというのは彼には『痴人の夢』でしかない。しかし、今日この場での計画という点では様々な奇策、妙計がたちどころに浮かび、その実行においても遺漏なく電光石火に実現する」(「太陽」1914年6月15日)