母さん、ごめん。 50代独身男の介護奮闘記/松浦晋也[日経BP社]

 恐ろしい本であった。「家庭も作らず好き勝手に生きてきた独身男が、50代で認知症の母を介護する事になった」のである。それは誰にでもあり得る事であり、俺にだってあり得る事だ(俺38歳、父73歳、母67歳)。我々は特に根拠もなく「(親は)年を取っても、それなりに元気に過ごしているはず」と考えてしまうが、人は死ぬのであり、それも一瞬で死ぬのではなく、徐々に衰えて死ぬのであり、衰えた事による面倒を誰が見るか?ほとんどの場合、その子供である。しかし子供も年を取り、疲れてしまうのだ。それが事実だ。しかし人は、嫌な事実や目を背けたくなる事実を認めたくないものだ。特に家族に関わる事なら尚更だ。会社や仕事は辞めれば逃げる事ができよう。しかし家族から逃げる事はできない。

 そのようにして作者は80歳の母の介護を始める事になった。しかしそれは「介護敗戦」の始まりであった、と作者は断言する。「失われていく母の能力に応じて介護態勢を組み、症状の進行によって次の態勢を組む事を余儀なくされる」「敗退、戦線再構築、敗退」の中で、母(介護される人)も息子(介護する人)も疲弊していくのである。わがままになり怒りっぽくなり(「これまずい、もっとおいしいものをちょうだい!」)、通販でわけのわからない買い物をするようになり(「月ごとの継続購入」で、「白髪染め」「健康食品」「サプリメント」等を大量に購入しては使わずそのまま)、「要介護1」の認定を受け公的介護保険制度の利用によって少しは状況が改善したかというところでいよいよ「失禁」の症状が出る。もちろん作者(息子)は「尿漏れパッドを使って下さい」と言うが、認知症の母は頑なに「嫌だ、こんなものつけたくない」と激烈な拒否で返す。しかし肉体の衰えは進行し、「尿意を感じてトイレに向かっても、間に合わずに漏らしてしまう」のである。見つけてはズボンとパンツを洗濯し、着替えさせるが、そんな事が一日に何回も起き、ついには替えのズボンとパンツがなくなってしまい、悠長にベランダで干すわけにはいかずコインランドリーの乾燥機へと走る。しかし母は尿漏れパッドを着けてはくれない。それは仕方ない、排泄を律する事ができない事を認めるのは大変辛い事であろう。通ってくれるケアマネジャーの人も「認知症の人には柔らかく、優しく接してあげて下さい」とアドバイスしてくれる。しかし認知症になったからと言って、声や表情といった表面的なパーソナリティがすぐ変化するわけではない。見た目が今まで通りで行動が不可解になる。そして肉親である。感情的な衝突が増幅されよう。

 そのようにして「介護敗戦」は続く。失禁は更に深刻になり(大人用おむつが必須となる)、食欲は異常になり(脳細胞の萎縮が満腹中枢まで影響し、しかも「食べた」という記憶がない)、作者は追い詰められる。「何でこんな事を自分がしなくてはいけないのか。こんな仕打ちを母から受けるほど、自分は何か悪い事をしたのか。母に向かって何か言っても、なんともならない。怒っても無意味だ」…。いよいよ作者自身に介護の闇が牙をむく。精神的にも時間的にも仕事ができなくなり、収入の激減、減り続ける預金残高が恐怖をもたらす。ついには「死ねばいいのに」という独り言が出てきた。主語はない。主語を出す事はためらわれる。しかし「死ねばいいのに」の独り言を止める事はできない。大げさでも何でもなく「介護疲れの心中、自殺」へと至る道が開き、作者は危険な段階に入った。そして手が出る(「私は母の頬を打ち続けた」)。しかしそれすらも介護の恐怖、認知症によって記憶できない母は時間が経てば「あれ、何で私、口の中切っているの。どうしたのかしら」…。何をしても母の記憶には残らない。という事はこのまま暴力が常態化しエスカレートする可能性があるのだ。記憶できないとはこういう事なのか!ついに介護施設へ預ける事を決意する作者、去る母。次に母がこの家へやってくる日はいつか。もう来れないかもしれない。一つの家族の一つの時代が終わったのである。

 しかしこのような出来事も、日本で起こった数ある介護の現場の「サンプル1」でしかない。認知症の症状や進行は多様であり、介護する人・される人の関係性や状況も千差万別である。「親が認知症になった時にこうしろ」というようなマニュアルはない。しかし強いて言うなら、介護は「子供が、家族が、頑張ればできる」ものではない。高齢者の介護は、少子高齢化時代にあっては事業である。もはや核家族化や独身高齢者が当たり前となったのである。それがいいか悪いかではなく、今や社会はそうなった。そのような社会でこれからも人々が生きていくためには、家族のようなアマチュアではなくプロの介護の専門家に委ねなければならない。そうする事によって、人手不足の中で貴重な労働力を介護に縛り付ける事なく、家庭を困窮させる事なく、社会や経済を維持する事ができよう。財政難を理由に行政が介護を切り捨てる、またポピュリストが「介護される人は自業自得」などと言い始めたら、その先にあるのは「姥捨て山」である。決して他人事や大げさではない。誰もが病気になり、衰え、老いるのである。それを社会全体が支えなければ、悲劇が再生産され、社会や経済は疲弊し、破滅へと向かうであろう。読んでいて実に身が引き締まる本であった。