海軍よもやま物語/小林孝裕[光人社]

海軍よもやま物語 (1980年)

海軍よもやま物語 (1980年)

 

  軍人になるのであればやはり、「無敵の大日本帝国海軍」がいい。何が無敵かはさて置いて、世は軍国主義華やかなりし大日本帝国の時代であり、畏れ多くも大元帥陛下を頂点にした組織の一員となって奉公する事ができるのだ。かっこいいではないか。もちろん戦地に赴いて命を失う事になるかもしれないが、そこは血気盛んな男達であるから怖いものなどない。それにイギリス海軍を参考にして作られた帝国海軍はドイツ陸軍を参考にした帝国陸軍と違って紳士的・ハイカラ・オシャレであり、10代後半から20代前半の男達にとっては憧れでもあった。軍人となって国家に奉公でき、生まれ故郷でもてはやされ、町で一、二を争う別嬪にも恵まれるのであるから、海軍万歳海軍万歳なのだ。

 とは言え当事者からすれば無敵の大日本帝国海軍様もそんなにいいものではなかった。なぜかと言うと殴られしごかれるからで、「集合が遅い」「掃除がなっとらん」「年上への礼儀がなっとらん」「最近たるんどる」と理由を見つけては教官又は班長に殴られたり尻を殴られたり重いものを持たされたり、飛行服に落下傘をつけたまま飛行場一周させられたりするのである。何せ軍隊であるから上から下への命令は絶対で、しかしこちらが何かミスしたのならあきらめもつくが、「ゴキ悪い」(=ご機嫌がかんばしくない、虫の居所が悪い)からという理由で「貴様ら、食事抜きだっ」などと言われてはたまらない。

 しかし新兵になれば「月給6円50銭、住み込み、食事付き、被服支給」である。貧乏にあえぐ戦前日本の庶民達にとって大変魅力的で、有給休暇がなくても大した問題ではない。大体、我々庶民は栄えある帝国海軍の一員になれたとしても海軍兵学校卒業の士官候補生のエリートに使われる運命なのであり、大日本帝国の行く末を案じたところでしょうがない…というより案じる暇がない。艦隊に配置された三等兵には来る日も来る日も掃除が待っている。残飯整理から始まって油拭い、床掃除、後片付けを艦内くまなく行うのである。何せ食うところも寝るところも戦争するところも全てが艦内であり、常に清潔にしておかなくてはならない。このようにして海軍生活が始まる。さてどうなる事やら。

     

・海軍士官になるには海軍兵学校を卒業すればいいのだが、そう誰でも兵学校へ入るというわけにはいかない。大部分の海軍軍人は、四等水兵から始めてだんだんと進級し、まあせいぜい准士官から少、中尉まで出世するわけだ。四等兵6ヶ月、三等兵1年、二等兵も同じく1年、そして、一等兵を1年6ヶ月勤めれば下士官である。兵隊の進級はただの進級だが、下士官以上になると、進級する事を任官と言った。(中略)任官は各鎮守府長官の名において行われた。

・大体兵学校出というのは、修身ばかり習ったと見えて、我々下士官、兵には何の妥協点もない。(中略)言うなれば、規格通りの人間である。勝つ事、我慢する事、しか教えられなかった人間にとって、伝統ある下士官、兵の心と通じ合う生活など見た事もないだろうし、たとえ見たとしても全てが規格外であり、不潔であり、癪の種であったのかもしれない。あくまでも支配者であった。

・部隊内、艦内で火急の事故が起こり、状況判断の後、ラッパが鳴り響いてすぐに「待て」の号令がかかる。この時はそのままの姿勢で待つのが原則である。そして、次の指示を固唾を飲んで待つわけである。足を上げた者、手を動かしている者、走っている者、食事をしている者全てが、問答無用、動いてはいけない。ちょうどテレビの画面が止まったような格好でいなくてはならない。

・上陸とは、目的が何であろうと、文字通り艦から陸上へ移る事である。軍艦が港に入ると、よほどの事がない限り上陸が許される。(中略)こうして上陸した者が、淋しい病気を頂いて帰る事もあり、頭に来た上司は、上陸員全員に予防器具の携帯を義務づけた。うら若い三等兵までも持たされたものである。

・兵隊はとにかく風呂が好きである。一日中汗まみれで働くのだから、いやでも風呂好きにならざるを得ない。しかし、艦内では真水は貴重品であり、大勢が入るので時間にも制限があったから、入浴というよりは行水、それも烏の行水である。(中略)そこへゆくと上陸した街の銭湯なら、好きなだけ湯水を使い、好きなだけ長湯をしても、誰にも文句を言われないから天国のようなものである。

 そんな銭湯で、戦友と一緒に背中を流し合った後、湯上りの一時に星空を見上げて雑談していた。

「ああ、いい気分だ。二番目にいい気分だ」

「なんだ、二番目とは」

「そこまで言わせたいのか、こいつ」

 上陸すると、まず二番目にいい気分を味わった後、経済が許せば、一番目にいい気分を味わいに行くのが、昔の兵隊の通り相場だった。

・海軍の水泳は、特殊な者を除いては、スピードは要求しなかった。楽に浮く事、長い時間泳げる事、他人を救助する方法に重点を置いた。荒海の真ん中で早く泳いで何になるか。長く浮いて救助を待て、といった論法である。

・陸軍では、上級者に対しては、必ず「殿」をつけて呼んだ。「兵長殿」「大尉殿」という具合である。ところが、海軍では「殿」という呼び方は全く使わなかった。士官、下士官に対しては、階級の上下にかかわらず「○○中尉」「○○兵槽」などと呼ぶ。兵隊が大将を呼ぶ時も「○○大将」である。

 また、陸軍では自らの事を「自分」と言うが、海軍では「私」と言った。

・戦前の軍艦は、日曜・祭日には乗組員の家族・友人などが艦内まで面会に行く事が許された。一つは肉親との対面という人道的な親心、もう一つは、精鋭を誇る艦隊のPRでもあったようである。