協奏曲/遠藤周作[講談社:遠藤周作文庫]

協奏曲 (講談社文庫 え 1-18)

協奏曲 (講談社文庫 え 1-18)

 まず読む前に「この小説は中間小説である」と意識した方がよいわけだが、では「中間小説」なる言葉の意味をまず解説しなければならんですな、昭和40年代までは特に解説しなくても通用していたんですが、まあこの小説は昭和40年の作ですからまさに「中間小説」を説明するのに打ってつけでして、要するに
(1)純文学ではない
(2)大衆小説(ミステリー、SF、官能小説、等)ではない
 というのが中間小説となりますが、大衆小説の括りにミステリーを入れてしまうと例えば松本清張とかの社会派推理小説等はどうなるんだという事になりますが、イメージとしてこんなもんだという事を言いたいだけですのでご勘弁下さい。俺が言いたいのは中間小説というものは「難しく考えたり深い感銘を受ける必要はないが、さりとて肩の力を抜いて読めるほど軽い小説でもない」事を前提として、作家が書き、読者が読んでいたものであるという事です。
 なので本作では二人のヒロインのうち若い方(22歳のヒロイン)の若さを称えるだけではなくて若さゆえの無神経や周りに迷惑をかける事を若者の特権だと勘違いしている愚かさ・奢り・誤解を苦々しく描く事もあり、主人公と年上の方のヒロイン(共に35歳前後)の「表面上は『もう若くないんだから』と事を荒立てまいとしながら、それでも揺れ動く感情に逆らえない」愚かさや哀しさを描く事もあり、しかし三者の心理を底の底までえぐるのかと言えばそうでもなかったりするのですが、だから中途半端で終わっているという事もなくて、そこはさすが純文学作家で「事象としては中途半端に終わってはいるが何となく一つの区切りがついた」読後感を感じる事ができますので、ディスコもゲームもない昭和40年代頃の「娯楽」としての中間小説を体現していると言えましょう。
 あと、22歳ヒロインが35歳前後主人公及び35歳前後ヒロインに向かって「私達の世代は、好きなら好き、嫌いなら嫌いと、はっきり言うんです。行動するんです。それが新しい世代の生き方です」と言う場面があるんですが、それから53年経ってますからね、今の75歳の老婆と88歳の老婆がかつてこんな青春を送ったと想像すると慄然としませんか。時間は残酷です。長生きはしたくないですなあ。
 
「そうさせて頂きますわ。でも、お邪魔じゃありません?」
「そんな事、あるもんですか」
 淑子はこの若い娘に、既に軽い嫉妬を感じていた。巴里に着いたばかりなのに、すぐに病院に駆けつける事自体が、千葉とこの娘との親密な関係を示しているように思われたからだった。
「で、よくおわかりになったわね。この病院が」
「ええ。千葉さんのホテルをお訪ねしたら、ここだと教えられたものですから。先生、どうなんです」
「大した事ないわよ。かすり傷とお考えになっていいわ」
 すると、今までこわばっていた娘の表情に初めて朝の草花のように幸せそうな笑いが浮かんだ。それは、淑子もハッとするほど、新鮮なかわいい笑いだった。
(ああ、この娘は千葉さんを愛している)
 と彼女は直感的にそう思った。
 女としての本能から、淑子は冷静に自分のライバルらしい志摩弓子を観察した。旅の疲れはこの若い肉体のどこにもなかった。もうすぐ千葉に会えるという悦びのせいか、この娘はしきりに壁にかかった電気時計の方に目をやっている。
「奥さまも千葉さんとお親しいんですか」
「ええ、もう、ずっと前からね。あの方がまだ留学生としてここに来ていらっした時から存じ上げていたわ。あたしもコンセルバトワールの生徒だったから」
 あなたよりも、ずっと昔から千葉さんとは親しいのよ、という事を言い聞かせるように、彼女はこの言葉を口に出した。
「そうですの」
 すると、弓子の目に、初めて勝気な光が浮かんで、
「でも、千葉さんは、東京で一度も奥さまの事を、あたしに話して下さいませんでしたわ」
「まあ、そう」
 淑子はわざと微笑みながら、その言葉の刃を受け止めた。